ハルピン学院生の記録
投稿ツリー
-
ハルピン学院生の記録 (あんみつ姫, 2007/11/28 15:01)
- Re: ハルピン学院生の記録 (あんみつ姫, 2007/11/28 15:03)
- depth:
- 0
前の投稿
-
次の投稿
|
親投稿
-
|
投稿日時 2007/11/28 15:01
あんみつ姫
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 485
ハルピン学院(哈爾浜学院)は、かつて存在した満州国《まんしゅうこく注1》ハルビン市にあった専門学校です。
設立当初は外務省所管の旧制専門学校であったのが、1940年以後は満州国所管の国立大学となりましたが、1945年8月、日本の敗戦に伴い解散、廃校となりました。
ハルピン学院(哈爾浜学院)は日露間の貿易を担う人材養成を標榜《ひょうぼう=かかげあらわす》したので、その卒業生は戦後もロシア関連の仕事で活躍した方が少なくありません。
その21期の卒業生たちが、戦後、毎年同総会を開いていましたが、後世に言い残しておかなければならないことがあるとの思いから、作成した記録集が『ポームニム21』です。
縁あって卒業生の久野さんからこの記録集をお借りし、伝承館への掲載を許可されましたので、少しづつ掲載させて頂きます。
以下に、記録集を創刊するに当たって書かれた福岡さんの「思い」を、まず掲載させて頂きます。
ーーーーーーーーーーー
『記録21』哈爾浜学院 21期生の軌跡をたどる
これは仮称だが、こういった標題のもとに、それぞれが自分の歩んできた足跡を振り返って手記を作り、これをまとめて記録として残しては、という意見が多くなってきたようだ。軍隊にいた者は誰でも、特攻と海没《注2》だけはご免蒙りたいというのが偽らざる心境であったと思うが、山中正八が、特攻機で沖縄に散ったことを知って愕然とした。
彼の心事は察するに余りあり、彼の霊の安からんことを祈るのみ。
「ハルビン」紙上の作間の弔詞「どうにも遅過ぎた四十三年目の弔辞」の感を深くする。
その作間が、二十年の八月、押し寄せるソ連軍を相手に、牡丹江東部の掖河《えきが=牡丹江駅から北方1キロにある町》で這いずり回っており、一方こちらは、牡丹江西部の海林《かいりん(中国読みはハイリン)》で、水野、20期田中睦男氏らと、二、三日後の戦闘加入を覚悟して、準備に大童だったことをお互いに知ったのも、つい最近になってからである。作間の弔詞を見て、成瀬が作間に送った手紙で、末岡、中本らの軍隊時代の一端を知ることができた。先日亡くなった鍵谷が終戦時、宮古島守備隊にいたことを知ったのはこの六月だった。作間の話では、河面は南太平洋の孤島・南大東島で玉砕《ぎょくさい=全力を尽くして潔く戦死する》覚悟でうそぶいていたとか。
在満《ざいまん=満州国にいた》学徒兵は先ず遼陽《りょうよう=中国遼寧省の省都》の二十九師団に入り、この師団がサイパン、グアムへ移駐した時、全員哈爾濱の二十八師団に転属になって、この師団から各兵種毎に幹部候補生の教育隊へ派遣されたと思う。教育が終って見習い士官となり、原隊復帰の段になって、二十八師団は宮古島に移動しており、船が無くて殆んど宮古島の師団に帰ったものはいなかった筈だ。鍵谷はどういう経路で宮古島へ着任したのか詳しくきく機会はも早や無い。
われわれは、学院の同期生として、何でも知り合っているつもりでいた。しかし、十八年の十二月の学徒動員《注3》で四散し、以来、斎藤豊の肝いりで始まった鬼怒川温泉の第一回クラス会までの約20年間については、お互いの消息を審《つまびらか=詳しい》らかにしない。だが、この20年こそ敗戦を挟んだ未曾有の激動期であり、それぞれの青春の最も波瀾に富んだ時期でもあった。われわれはこの変革期を、さしてぐらつくことなどもなく、耐え、且つ、凌ぎ切ってきたと思う。そしてどうやら、われわれの生涯も四分の三は過ぎたようだ。この辺で、そろそろ特異な学校の特異な同期生四十余名の戦中、戦後の足跡を記録にまとめて残しておいてもよいのではないかと感ずるようになってきた。
お互いの手記は、今後のわれわれの心の拠り場となり、次の世代の貴重な姿料となるだろう。これを「記録21」と名付け、21期生の記録でもよし、21世紀へ受継ぐ記録と見るもよし。
「記録21」は一度だけではなく、機会あれば二集、三集と積み重ねてゆくことも検討してはと思う。そのため、当初は、学徒動員のための専業と就職先割当、入隊、終戦前後、敗戦後数年を含む約十年間を目安にまとめてみてはどうかと思う。
想えば、われわれ大正後期生まれは、敗戦前後の最も困難な時期に、あらゆる面で第一線に置かれ、命を的に酷使された世代であった。敗戦とともに、国の負い目の清算を請負わされた。そして今に至るまで報われることの少ない世代であった。在満の学院生は、日露戦争の勘定をつけに来たソ連軍の野蛮と闘った。一片の占領攻撃も持たずに侵略してきたソ連軍の無惨と対峙した。この労苦について『学院史』以外に記された資料は見当らない。学院の終蔦は、満州、シベリヤでの異常環境下における日々のトラブル解決に注がれた学院生の粉骨砕身によって飾られた。「人のお世話をするやう、そして報いを求めぬやう」の自治三訣が顕現された。
「ソ連軍の侵入」 「停戦直後」 「シベリヤ抑留初期」までの混乱期を経て、日ソ双方に抑留生活のパターンが出来上がる頃になると学院生は表面に立たなくなった。日常生活の雑事は片言で済み、ロシア語の習得に励む者が増え始めた。学院生の出番が無くなったのか。否、学院生は自ら身を引いて黙々と一般労働に従事したのだ。ここに学院生の真骨頂を見る。ロシア語を解することをもって日本人に君臨することを潔しとせず、ソ連社会の壮大な虚構《きょこお=つくりごと》を見据えていたのだ。このような学院気質はどこから生れたのか。われわれ21期生は、一種爽快な太太《(ふとぶと)》しさを持っていると思う。各人の記録には自ずとその一端が現れるに違いない。大いに期待されるところである。
六十三年十二月
敬称略(福岡健一記)
【注】「ポームニム21」は「忘れるもんか、我ら21期は」のロシア名である。
注1 中国東北部に1932~1945に嘗て我が国の国策により建国された国
注2 特別攻撃隊で敵艦船に体当たり と 船舶乗船中敵の
攻撃により沈められ 戦死する
注3 1943(昭和18年)12月 旧制大学高等専門学校学生を
学窓から軍隊に徴兵された(学徒出陣ともいう)
設立当初は外務省所管の旧制専門学校であったのが、1940年以後は満州国所管の国立大学となりましたが、1945年8月、日本の敗戦に伴い解散、廃校となりました。
ハルピン学院(哈爾浜学院)は日露間の貿易を担う人材養成を標榜《ひょうぼう=かかげあらわす》したので、その卒業生は戦後もロシア関連の仕事で活躍した方が少なくありません。
その21期の卒業生たちが、戦後、毎年同総会を開いていましたが、後世に言い残しておかなければならないことがあるとの思いから、作成した記録集が『ポームニム21』です。
縁あって卒業生の久野さんからこの記録集をお借りし、伝承館への掲載を許可されましたので、少しづつ掲載させて頂きます。
以下に、記録集を創刊するに当たって書かれた福岡さんの「思い」を、まず掲載させて頂きます。
ーーーーーーーーーーー
『記録21』哈爾浜学院 21期生の軌跡をたどる
これは仮称だが、こういった標題のもとに、それぞれが自分の歩んできた足跡を振り返って手記を作り、これをまとめて記録として残しては、という意見が多くなってきたようだ。軍隊にいた者は誰でも、特攻と海没《注2》だけはご免蒙りたいというのが偽らざる心境であったと思うが、山中正八が、特攻機で沖縄に散ったことを知って愕然とした。
彼の心事は察するに余りあり、彼の霊の安からんことを祈るのみ。
「ハルビン」紙上の作間の弔詞「どうにも遅過ぎた四十三年目の弔辞」の感を深くする。
その作間が、二十年の八月、押し寄せるソ連軍を相手に、牡丹江東部の掖河《えきが=牡丹江駅から北方1キロにある町》で這いずり回っており、一方こちらは、牡丹江西部の海林《かいりん(中国読みはハイリン)》で、水野、20期田中睦男氏らと、二、三日後の戦闘加入を覚悟して、準備に大童だったことをお互いに知ったのも、つい最近になってからである。作間の弔詞を見て、成瀬が作間に送った手紙で、末岡、中本らの軍隊時代の一端を知ることができた。先日亡くなった鍵谷が終戦時、宮古島守備隊にいたことを知ったのはこの六月だった。作間の話では、河面は南太平洋の孤島・南大東島で玉砕《ぎょくさい=全力を尽くして潔く戦死する》覚悟でうそぶいていたとか。
在満《ざいまん=満州国にいた》学徒兵は先ず遼陽《りょうよう=中国遼寧省の省都》の二十九師団に入り、この師団がサイパン、グアムへ移駐した時、全員哈爾濱の二十八師団に転属になって、この師団から各兵種毎に幹部候補生の教育隊へ派遣されたと思う。教育が終って見習い士官となり、原隊復帰の段になって、二十八師団は宮古島に移動しており、船が無くて殆んど宮古島の師団に帰ったものはいなかった筈だ。鍵谷はどういう経路で宮古島へ着任したのか詳しくきく機会はも早や無い。
われわれは、学院の同期生として、何でも知り合っているつもりでいた。しかし、十八年の十二月の学徒動員《注3》で四散し、以来、斎藤豊の肝いりで始まった鬼怒川温泉の第一回クラス会までの約20年間については、お互いの消息を審《つまびらか=詳しい》らかにしない。だが、この20年こそ敗戦を挟んだ未曾有の激動期であり、それぞれの青春の最も波瀾に富んだ時期でもあった。われわれはこの変革期を、さしてぐらつくことなどもなく、耐え、且つ、凌ぎ切ってきたと思う。そしてどうやら、われわれの生涯も四分の三は過ぎたようだ。この辺で、そろそろ特異な学校の特異な同期生四十余名の戦中、戦後の足跡を記録にまとめて残しておいてもよいのではないかと感ずるようになってきた。
お互いの手記は、今後のわれわれの心の拠り場となり、次の世代の貴重な姿料となるだろう。これを「記録21」と名付け、21期生の記録でもよし、21世紀へ受継ぐ記録と見るもよし。
「記録21」は一度だけではなく、機会あれば二集、三集と積み重ねてゆくことも検討してはと思う。そのため、当初は、学徒動員のための専業と就職先割当、入隊、終戦前後、敗戦後数年を含む約十年間を目安にまとめてみてはどうかと思う。
想えば、われわれ大正後期生まれは、敗戦前後の最も困難な時期に、あらゆる面で第一線に置かれ、命を的に酷使された世代であった。敗戦とともに、国の負い目の清算を請負わされた。そして今に至るまで報われることの少ない世代であった。在満の学院生は、日露戦争の勘定をつけに来たソ連軍の野蛮と闘った。一片の占領攻撃も持たずに侵略してきたソ連軍の無惨と対峙した。この労苦について『学院史』以外に記された資料は見当らない。学院の終蔦は、満州、シベリヤでの異常環境下における日々のトラブル解決に注がれた学院生の粉骨砕身によって飾られた。「人のお世話をするやう、そして報いを求めぬやう」の自治三訣が顕現された。
「ソ連軍の侵入」 「停戦直後」 「シベリヤ抑留初期」までの混乱期を経て、日ソ双方に抑留生活のパターンが出来上がる頃になると学院生は表面に立たなくなった。日常生活の雑事は片言で済み、ロシア語の習得に励む者が増え始めた。学院生の出番が無くなったのか。否、学院生は自ら身を引いて黙々と一般労働に従事したのだ。ここに学院生の真骨頂を見る。ロシア語を解することをもって日本人に君臨することを潔しとせず、ソ連社会の壮大な虚構《きょこお=つくりごと》を見据えていたのだ。このような学院気質はどこから生れたのか。われわれ21期生は、一種爽快な太太《(ふとぶと)》しさを持っていると思う。各人の記録には自ずとその一端が現れるに違いない。大いに期待されるところである。
六十三年十二月
敬称略(福岡健一記)
【注】「ポームニム21」は「忘れるもんか、我ら21期は」のロシア名である。
注1 中国東北部に1932~1945に嘗て我が国の国策により建国された国
注2 特別攻撃隊で敵艦船に体当たり と 船舶乗船中敵の
攻撃により沈められ 戦死する
注3 1943(昭和18年)12月 旧制大学高等専門学校学生を
学窓から軍隊に徴兵された(学徒出陣ともいう)
--
あんみつ姫