昭和20年8月15日 世田谷区 小 林 康 夫
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- 昭和20年8月15日 世田谷区 小 林 康 夫 (編集者, 2009/2/3 8:53)
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投稿日時 2009/2/3 8:53
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
この記録は、故小林康夫様が「都耳鼻会報 第115号(2004年11月)」に投稿されていたものを、ご遺族、ご関係の方々のご了解を得て転載させていただくものです。
メロウ伝承館スタッフ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私は昭和9年(1934)の生まれである。渋谷の忠犬ハチ公像が建てられた年だ。
生後9カ月で父は3男3女を遺して他界した。長兄が13才であった。母は6人の子供を抱え必死に育ててくれた。男児には大学にいかせ、女児は名門私立女学校へ進ませた。
戦争激化の昭和19年小学校4年生の私は母の実家である埼玉県に学童疎開をした。関越道本庄児玉インターのある農村である。北に赤城山の南面が西に浅間山の噴煙が望まれ、南に秩父連山が目前で群馬との県境である。
傷病兵の叔父が結婚するので小作人の農家に預けられた。
農家の朝は早い。露をふんで大きな籠を背負い草刈りに行く。籠の高さの1.5倍位まで積むとかなり重く、都会の子供にはきつかった。朝食をすませ食器を洗って箱膳に始末して登校。授業は易しかった。休み時間に皆が宿題を教わりに私の机を囲んだのでいじめられなかった。先生は代用教員の女先生で母の女学校同級生の娘さんだった。
戦況が悪化し村はずれの林を伐採して陸軍の飛行場が造られた。村民が動員され、高等科生徒は土木作業に、小学生は県境の河原から数キロを大きな麻袋に砂利を入れ肩にかついで歩いて運搬した。
それを並べた石の間につめ滑走路を築くのだ。出来上がるのを見ていたかの様に敵機が襲来し機関砲で粉砕されてしまう。本物の飛行機は畑に誘導路を作り、村人が押して周辺部落の竹林の中にかくしてある。私達も手伝った。その跡に村人が竹で飛行機の型を作り草をかけて擬装したオトリを置く。敵はそれを撃って引き上げて行く。丸太にも草をかぶせ高射砲に見せかけた。本物はすべて“本土決戦”に備えて山の中にかくした。
空襲のサイレンが鳴り止まぬ内に敵は来る。私たちは畑の中にかくれたり小川の中に飛び込んで逃げた。一度は鎮守の裏山で遊んでいたら眼の前をグラマン艦載機が通過し敵兵がこちらを眺めていたのにはびっくりした。野良に出ていた児童が射たれ負傷し牛が一頭やられた。牛の運動が私の大きな仕事だった。草を少し手に持って小屋の入口でかざすと寄ってくる。そこですかさず鼻環をつかむ。そうすればしめたものだ。手綱をつけて外へつれ出す。
村のやや広い辻にかかると牛は決まって大きく跳ねる。都会育ちの私はそれがとてもおそろしい。しかし次第に馴れて牛の背に乗っての散歩も出来る様になった。馬は大きな裕福な家でないと飼えなかった。本当は馬に乗りたかった。
“陛下の放送がある” と云うので寺の広場に村人が集められた。民家に分宿していた兵隊は着剣整列していた。私達はそれをめずらしい見せ物に集る様に、しかし少しこわい様な気持ちで遠まきにしていた。誰も口をきく者はいない。
"気をつけ”と将校が号令した。
陛下の声は電波がうまく届かないのか良く聴き取れなかった。“しのびがたきをしのび…”と云う言葉は覚えている。
気がつくと兵隊も村人も下を向いていた。“我々は戦い抜くぞ” と将校が抜刀した。しかし言葉には何か力がなく絶叫している悲壮感があった。
やがて村人は静かに散って行き、兵隊は整列し“出発”の号令で演習に向かった。
辻に何人かの老人が立ち止まり ”敗けたんか”“いやもっと戦えと云っておられたのだぞ”と小さな声で話していたがそれもすぐ止んで黙って家へもどって行った。
私は戦争が終ったのかな、と思った。これで東京にかえれるかも知れぬと少しだけうれしい感じがしたが皆にはそれをさとられない様な顔をした。私の預けられていた家のラジオは昼間は良く聴こえないので母の実家に行ってみた。
“海ゆかば” の曲が流れていた。叔父が“敵が来たらこれで戦うぞ”と奥座敷の長押に掛けてあったなぎなたを降ろした……。
戦争はもう止めよう。今年の夏も暑かった。
この記録は、故小林康夫様が「都耳鼻会報 第115号(2004年11月)」に投稿されていたものを、ご遺族、ご関係の方々のご了解を得て転載させていただくものです。
メロウ伝承館スタッフ
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私は昭和9年(1934)の生まれである。渋谷の忠犬ハチ公像が建てられた年だ。
生後9カ月で父は3男3女を遺して他界した。長兄が13才であった。母は6人の子供を抱え必死に育ててくれた。男児には大学にいかせ、女児は名門私立女学校へ進ませた。
戦争激化の昭和19年小学校4年生の私は母の実家である埼玉県に学童疎開をした。関越道本庄児玉インターのある農村である。北に赤城山の南面が西に浅間山の噴煙が望まれ、南に秩父連山が目前で群馬との県境である。
傷病兵の叔父が結婚するので小作人の農家に預けられた。
農家の朝は早い。露をふんで大きな籠を背負い草刈りに行く。籠の高さの1.5倍位まで積むとかなり重く、都会の子供にはきつかった。朝食をすませ食器を洗って箱膳に始末して登校。授業は易しかった。休み時間に皆が宿題を教わりに私の机を囲んだのでいじめられなかった。先生は代用教員の女先生で母の女学校同級生の娘さんだった。
戦況が悪化し村はずれの林を伐採して陸軍の飛行場が造られた。村民が動員され、高等科生徒は土木作業に、小学生は県境の河原から数キロを大きな麻袋に砂利を入れ肩にかついで歩いて運搬した。
それを並べた石の間につめ滑走路を築くのだ。出来上がるのを見ていたかの様に敵機が襲来し機関砲で粉砕されてしまう。本物の飛行機は畑に誘導路を作り、村人が押して周辺部落の竹林の中にかくしてある。私達も手伝った。その跡に村人が竹で飛行機の型を作り草をかけて擬装したオトリを置く。敵はそれを撃って引き上げて行く。丸太にも草をかぶせ高射砲に見せかけた。本物はすべて“本土決戦”に備えて山の中にかくした。
空襲のサイレンが鳴り止まぬ内に敵は来る。私たちは畑の中にかくれたり小川の中に飛び込んで逃げた。一度は鎮守の裏山で遊んでいたら眼の前をグラマン艦載機が通過し敵兵がこちらを眺めていたのにはびっくりした。野良に出ていた児童が射たれ負傷し牛が一頭やられた。牛の運動が私の大きな仕事だった。草を少し手に持って小屋の入口でかざすと寄ってくる。そこですかさず鼻環をつかむ。そうすればしめたものだ。手綱をつけて外へつれ出す。
村のやや広い辻にかかると牛は決まって大きく跳ねる。都会育ちの私はそれがとてもおそろしい。しかし次第に馴れて牛の背に乗っての散歩も出来る様になった。馬は大きな裕福な家でないと飼えなかった。本当は馬に乗りたかった。
“陛下の放送がある” と云うので寺の広場に村人が集められた。民家に分宿していた兵隊は着剣整列していた。私達はそれをめずらしい見せ物に集る様に、しかし少しこわい様な気持ちで遠まきにしていた。誰も口をきく者はいない。
"気をつけ”と将校が号令した。
陛下の声は電波がうまく届かないのか良く聴き取れなかった。“しのびがたきをしのび…”と云う言葉は覚えている。
気がつくと兵隊も村人も下を向いていた。“我々は戦い抜くぞ” と将校が抜刀した。しかし言葉には何か力がなく絶叫している悲壮感があった。
やがて村人は静かに散って行き、兵隊は整列し“出発”の号令で演習に向かった。
辻に何人かの老人が立ち止まり ”敗けたんか”“いやもっと戦えと云っておられたのだぞ”と小さな声で話していたがそれもすぐ止んで黙って家へもどって行った。
私は戦争が終ったのかな、と思った。これで東京にかえれるかも知れぬと少しだけうれしい感じがしたが皆にはそれをさとられない様な顔をした。私の預けられていた家のラジオは昼間は良く聴こえないので母の実家に行ってみた。
“海ゆかば” の曲が流れていた。叔父が“敵が来たらこれで戦うぞ”と奥座敷の長押に掛けてあったなぎなたを降ろした……。
戦争はもう止めよう。今年の夏も暑かった。