インドネシア 多田 幸雄
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- インドネシア 多田 幸雄 (編集者, 2012/12/16 17:33)
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投稿日時 2012/12/16 17:33
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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はじめに
スタッフより
この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。
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私が通信士として乗船していた北海丸(大阪商船所属貨物船8,416トン)は、スラバヤを後に次の寄港地であるパリックパパンに向け北上していた昭和19年9月23日、天候は曇り、波静かで左手にボルネオの島々が近くに見える。ボルネオ南東端に点在するラウト島・セブク島だ。本船の沖側(右手前方)に護衛艦「南海」が白波を立てながら伴走している、頼もしい。
触 雷
正午頃、私は無線室で潜水艦情報を受信中だった。「ドドーン」と、ものすごい爆発音がした。
船は、ぐらっと大きく揺れた。その瞬間私の体は、飛ばされ壁にたたきつけられた。手足を打ちつけただけで大丈夫だ。
外へ出てみると、天高く立ち昇った水柱が甲板上へ降りそそいでいるところだった。便乗者は、右往左往の大パニック状態で泣き叫びわめく声、海底の泥が水柱と一緒に噴き上がったため、船上に居た人達は皆泥人形のようだ。負傷者が出た模様。浸水したらしく船体は左に少し傾き沈み始めた。
敵潜水艦からの攻撃を避けるため、水深の浅い所を接岸航行中、B24爆撃機が投下していった磁気機雷に触れたのだった。
直ちに、その旨を護衛艦に打電した。「了解、直チ二救助二向カイタイガ本鑑モ触雷セリ」と回答あり。本船の前方500メートル位のところで護衛艦は傾き沈みかけていた。2隻同時に触雷した。
この付近は水深が浅いため着底沈没となり甲板上のハウス(居住区)は、水面上に出た。
連結を受け、根拠地から救助船が数時間後に本船に横付けとなり負傷者を含めた便乗者を収容し立ち去って行った。
我々乗組員は、船を捨て去る事は出来ず、水浸しで傾いた船で電気の無いローソク生活が始まった。
ドック
応急修理し浮上した北海丸は、貨物船3隻に曳航され護衛艦に護られながら昭和19年11月20日修理のためスラバヤのドックに入った。
ドック入りして以来、我々乗組員に市内のデラックスな宿舎(元オランダのホテル)が与えられ、造船所内の本船のもとへ通勤した。
内地からは、神風特攻隊の出撃や東京大空襲など極度の危機が報ぜられていたが、連合軍はジャワ島なんかを問題にしていなかったのか、何一つ攻撃してくる様子もなく戦争を忘れたかのような錯覚にとらわれた。
南十字星輝く夜の街をベチヤ(乗物)に揺られての散策。食物も豊富でドリアン、マンコ一、パパイヤ、マンゴスチン等の味も別格で楽園のような日を送っていた。そして4月。誕生日を迎え19歳になった途端に1年繰り上げ徴兵検査を受け、甲種合格となり、船と別れジャカルタの電信第15聯隊(治1896部隊)に現地入営したのが昭和20年6月15日だった。
極楽のようなスラバヤの生活から一転して地獄の軍隊(内務班)へと落ちた初年兵の私は、連日ビンタの嵐に遭い、軍人精神が注入されていった。
8月15日、軍用トラック3両でプンチャック峠のシンダンラヤ演習地への途中、車列は∪ターンしてジャカルタの兵舎に戻った。
初年兵の我々には何が起きたかさっぱり分からなかった。
日本は敗けた
兵舎へ帰った夕刻、血気はやる中隊長は、中隊全員の前で顔を引きつらせ、「本日、内地からの放送の傍受で、我が日本帝国は、連合軍に対し無条件降伏した事を知った。本当に無念の極まりだ。しかし、我らジャワにいる部隊は健全だ。日本軍人には、降参と言う言葉は無い。貴様らは、俺と一緒に最後まで戦ってくれ。今日から内地にいる者、全てを敵だと思え!といきまいた。兵隊達は動揺した。自分は、中隊長の言う様に、最後まで戦って死にたくなかった。どうしてでも、生きて肉親のいる内地に帰りたい。部隊内は、異様な暗い雰囲気のうちに日が暮れた。
数日後、第16軍司令部からの正式命令で、連合軍に対し、無条件降伏することになった。そして演習や教練が無くなった。地獄絵さながらの班長や古年兵からのピンクの雨も、ピタリと止まった。我ら兵隊の間では、戦争が終結した安堵感と、これから先どうなって行くかの不安とが入り交じる複雑な日が続いた。
兵舎の近くにあるガンビル広場(現ムルデカ広場)から「ムルデカ!ムルデカ!(独立)」と独立を勝ち取るための、インドネシア民衆の決起の叫び声が、毎日のように兵舎の窓から、飛び込んできた。
武装解除と再武装
9月に入って部隊は、連合軍に降伏、武装解除され手持ちの九九式短小銃を差し出した。武装解除されたと思ったら、1ケ月も経たない内に連合軍から日本軍に、銃が返された。それは、ジャワ島に上陸して来た連合軍が、独立のため抵抗するインドネシア軍に手を焼き、警備と治安の維持を、日本軍に任せるためだった。
部隊は、ジャカルタを離れ、西部ジャワの山間地を、銃を手に転々としながらインドネシア独立戦争の狭間にあい警備と治安維持にあたった。
この間、日本軍部隊から離脱しインドネシア軍に参加し独立戦争で戦いインドネシアの士となった兵隊が多数出た。
抑留と重労働作業
昭和21年6月頃、警備の任を解かれ捕虜となり我ら日本軍は、ジャカルタ市内で、道路工事や港での荷役作業など、空腹に耐えながら重労働に服した。
復 員
何時の日に、内地に帰還出来るがを夢見ながら、苦しい作業に耐えていた我ら抑留(残留)日本人に、内地帰還の許可が出たのは、昭和22年の正月であった。復員船にて2月2日宇品に人港し復員した。日本を離れて丸2年半ぶりだった。アメリカの爆撃などにより、廃墟と化した各都市の余りの変わりように、ただあ然とした。
今年で戦後60年の節目を迎えた。インドネシアでのことが昨日のように思い出される。
豊かな経済大国日本に生存している私。あの戦争を生き抜いてこられたのも幸運の1字につきる。生きるも死ぬも紙一重だ。これが戦争かもしれない。二度と戦争の起きない平和を心から念願するものである。