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関東軍羅南師団撤収情報ヲ記ス 福本 幸一

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  • 通常 関東軍羅南師団撤収情報ヲ記ス 福本 幸一 (編集者, 2012/12/22 8:14)

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編集者

通常 関東軍羅南師団撤収情報ヲ記ス 福本 幸一

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/12/22 8:14
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 今年は終戦60周年を迎え、激しい戦禍を潜り抜けて、今も尚、無事に生きていられることは、神仏のお蔭を戴いていると思います。今は無き戦友・英霊に合掌し、我が師団の撤収状況を綴ります。何かのお役に立てば幸いです。

 私は東京目黒官立無線校(電気通信大学の前身)を昭和20年3月に卒業、4月12日、焼け跡の日比谷小学校へ集合、そこで冬の軍服を貸与され、その後、5月17日に北朝鮮の最北端「羅津(ラシン)」(ソ連ウラジオストック近く)で、大本営直轄通信隊第13378部隊根岸隊へ現地入隊。一期の訓練を終了し、7月に西南50Kmの羅南(ラナン)師団へ5人が配属された。さすが師団だけあって、その基地は堅固な要塞で、通路は縦横無尽に張り巡らされ、各室は20坪位の部屋に仕切られ、無線室、有線・電報解読・交換室入口には番兵が立哨。基地は丘陵地帯に位置し、山の高さは30m位。送信所は別の丘にあり出力は500W。内地と満州一円との通信が可能であり、昼夜交代で勤務した。私と同室したのは中川春一氏(広島県。現在も健在。)で、彼と勤務中の8月9日零時、突如として通信室が騒然となる。

 隣の有線室から「大変だ日」と、ソ満国境東寧(トウネイ)守備部隊からの受信紙を片手に、「ソ連ノ猛攻ヲウケ我ガ軍ハ損傷大ナリ‥・-・(終わり符号)」。
 私も即座に呼出し符号を打電したが応答なし。1分後に第二報が入電。守備部隊渾春(コンシュン)からだ。「ソ連軍の奇襲ヲ受ケ我ガ軍反撃中」。その中に第三幸臥第四報とチチハル、満中里(マニノチュリ)から入電。同じ電文である。その旨を師団長に進言。師団長日く。「内地の大本営へ其の状況を打電せよ」とのこと。5分後に返信あり。驚くなかれ、「一発モ撃ツナ、撃テバ交戦状態二ナル」との電文。零時10分頃、第五軍司令部より「ソ連の本格的な進攻が開始されたと判断する」との報あり。司令部も日ソ中立条約を結んでいたから交戦を躊躇していたのである。

 ソ連はその中立条約を無視し、関東軍に奇襲をかけ、関東軍の兵器、物資不足を狙っての挑戦である。
 時の日本政府はゾルゲスパイ事件を知らず、ソ連を甘く見ていたのは誤算であった。ヤルタ会談でソ連は南進政策をこのときがチャンスとばかりの密約である。10日にはソ連機が我々送信所を空爆しかけた。師団通信所は堅固な要塞であるが、先に述べたように状況は不利である。日本軍はソ連を攻撃してはならぬという中立条約を守っていたからである。我が師団は12日一部撤収計画を発表。満州守備部隊へ撤収を打電し、その準備のため、重要書類、糧株倉庫を自ら全焼させた。外へ出ると清津(セイシン)からの邦人が避難して来る。

 ソ連の駆逐艦の艦砲射撃を受けて清津が燃えている。羅津(ラシン)の後続部隊と合流。羅津から3日掛かっての行軍で疲労困億して言葉も出ないようだ。皆、無口であった。戦友の菱木、三浦、柳川、上杉、久野、宮下(現在も健在)も一緒だった。菱木の話によると、ソ連軍の落下傘部隊が日本軍陣地の真ん中に降下したとのこと。
 撃てば皆殺しに出来るのであるが、前にも述べたように「一発も撃つな」の命令が出されているので、我々は軍規を重んじたと語っている。

 時の大本営はポツダム宣言を受諾。和平派の海軍参謀・梅津治郎大将、河辺虎四郎中将、東郷茂徳外相の会談にての判断と思う。
          
 後続部隊と合流し、元山(ゲンザン)まで南下。そして元山にて15日を迎えた。その夜玉音放送を拝聴したが聞き取れない。終戦か?負けたのか?半信半疑である。そのうちに騎兵銃が渡され、食糧10日分と手稲弾2発、銃弾75発を手にした。誰からともなくソ連進撃の噂が流れた。「よし!! ソ連と一戦を交えるのだ」と決意し豪語する見習士官。それにしてもソ連と一戦を交えるには余りにも軽装備だ。戦陣訓の一節が脳裏を掠める。「夫(ソ)れ戦陣は大命に基づき皇軍の神髄を発揮し攻むれば必ず取り必ず勝ち……」、士気を鼓舞した軍人教育である。

 軍備を整え、ソ連と一戦を交えるため北進するはずの車は南下し始めた。オヤオヤと思って5分位経つと、「38度線まで南下する」と発表あり、「名誉の撤収である」と部隊長の訓辞。何だか狐につままれたようで、血が逆流するようだった。
 通信隊の本部が京城にありそこに1ケ月滞在し、9月下旬に釜山鋲(フザンチン)より祖国へ。「国破れて山河在り」、目にした日本の山の緑は感無量であった。

 今思えば60年前、太平洋戦争に於ける日本は決して侵略ではない。中国、韓国は日本の歴史教科書に文句を言っているが、日本は大東亜建設のために自衛せざるを得ず止む無く戦ったと思う。日本はイギリスの東南アジア支配を崩し、フィリピン、ジャワ、ビルマなどでも米、蘭、英軍を破り、100日ほどで大勝利の裡に緒戦を制した。これは100年に亘る白人の植民地支配に喘いでいた現地の人々の協力があってこその勝利だった。東南アジアや印度の多くの人々に独立への夢と勇気を育んだのである。

 日本は、太平洋戦争で多くの犠牲者を出し、戦地に未だ眠り続けている英霊に感謝し、再び過ちを繰り返さないためにも生存者の証言や記録を追跡し、次の世代に平和な日本を守り続けることと同時に、靖国の社にお祈りを捧げるべきではないか。

(平成17年6月18日記)

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