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無線と共に50年を過ごして 星野達也

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  • 通常 無線と共に50年を過ごして 星野達也 (編集者, 2013/1/20 8:52)

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編集者

通常 無線と共に50年を過ごして 星野達也

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/1/20 8:52
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 私は昭和23年6月学校を卒業、(無線技術士1級及び無線通信士2級の国家資格を取得)終戦後の混乱期で就職難の時代でもあったが、学校のお世話で同年8月当時の逓信省岩槻無線受信所に奉職した。入寮し食糧難に苦しみ乍らも、毎日の仕事は先輩のご指導で問題も無く比較的早く習熟する事が出来た。

 勤続4年を経過し慣れるに従いぬるま湯的な日常の生活に物足りなさを感じ、何とか力いっぱいの仕事をしたいと思うようになった。
 其の頃、隣国朝鮮半島では既に北と南で戦争が始まっており、それを契機に日本では警察予備隊が創設される事になった。時の吉田内閣が「警察予備隊は軍隊ではありません」と国会答弁をした為に、警察予備隊の無線通信施設は電波法の適用を受ける事になった。

 此のため電波法有資格者が必要になり、私はこれに応募し幹部警察官として採用された。仕事は各地警察予備隊駐屯地の無線通信施設の建設及び試験や調整を行い、無線局の開設の実施並びにその指導でなかなか大変でしたが、無線局開設の基礎創りに寄与した。

 しかし、その後結婚をする事になり何時までも軍服を着ているわけにもいかず、また元の電電公社に戻して頂いた。それ以降は、年功序列のおかげもあり年齢相応に職位も昇進した。

 無線中継所長を経た後、自動車電話担当総合工事長に在職当時、自動車電話サービスを開始する事になった。私はマイクロ波通信方式の次は自動車電話サービスの時代になると確信し、末だ50歳で若かったが将来の成長を信じ、自分から希望し新規サービスにchallengeして頑張る事にした。

 発足当時、技術者は20人そこそこでそのうち無線屋は約半分、残りの方は殆んど他部門出身の方で不安と共に心細い限りの船出であった。これに反し初期の頃のお客様は無線に興味をお持ちの方が多くて、素人の説明ではなかなか納得してくれない。最後は我々無線屋が補足説明を行い理解して帰って貰うことになる。毎日が多忙であり大変であったが、好評で社会の理解も得てお客様の増加が続いた。

 昭和54年10月、サービス開始時期には僅か54加入のお客様で始まったのに、その後関係の皆様方のご努力や携帯電話システムの改善や進歩などもあり、爆発的にふえて現在何千万加入のお客様になったとは全く信じられない位の増加で驚き且つ大変嬉しく思っている。

 好評でまた多忙であったが、当初営業部門や総務部門の職員のなかには心労や過労の為に何人も倒れ、その中には鬼籍に入った方も見受けられた。我々技術部門では上司の方々のご配慮のおかげもあり、幸い全員無事に職責を全うする事が出来た。

 しかし、最初の頃寒風吹きすさぶ極寒の環境で、一緒に作業した仲間も今では大半の友は他界し、生存している諸先輩も既に高齢となり昔の思い出を語るすべも無い。
 省みれば、私は電電公社に30年、その後自動車電話や携帯電話関係に20年、70歳迄合計50年間無線一筋にhulltimeで勤務する事が出来た。
 その間、警察予備隊の通信施設の開設や自動車電話サービスの創業などの新規サービスを2箇所タッチする事が出来た。その後、警察予備隊は保安隊から自衛隊と変わりまた、自動車電話サービスもその後NTTドコモとなり、何れも立派に華を咲かせ社会に貢献している。

 多忙で且つ苦労も多くて大変であったが、反面充実した毎日であり今では感謝し誇りに思っている。現在は私も年齢相応の持病を持っているが、これからは健康に注意し更に米寿を目指し暮らして参りたいと思っています。

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