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「亡き父母の終戦前後」 オリーブ

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  • なし 「亡き父母の終戦前後」 オリーブ (編集者ze, 2022/7/31 17:53)

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編集者ze

なし 「亡き父母の終戦前後」 オリーブ

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2022/7/31 17:53
編集者ze  モデレータ   投稿数: 56
「亡き父母の終戦前後」

 亡き父母から聞いた話です。
 
 父が若い頃、早稲田大学の理工学部の助教授で、父母は大学の官舎がある現在の高田馬場に住んでいました。
 
 太平洋戦争のさなか、父は鉄砲の弾丸の材料となる真鍮を作る技術師として兵役免除になりましたが、中国に派遣されました。
 
 その間、母は姉を身ごもっていて、B29に空襲される度に防空壕に入っていました。
 
 その度に高田馬場ですから軍馬がいて、驚く馬のいななきが聴こえたそうです。
 
 空襲もだんだんひどくなり心細くなったのでしょう。

 思い切って官舎の荷物を片付け母の郷里である山口県に疎開しました。
 
 東京を発つ時、当時は汽車に乗る時、皆我も我もと窓から乗りこんでいたそうです。                          

 ところが静岡県の大井川鉄橋が崩落してしまい、東京に戻ることもできず、遠回りをして身重の体で、やっと山口の母の実家まで

 帰り着いた苦労話をよく聞かされました。
 
 その当時、母の実家は大地主で、銀シャリもふんだんに食べられて安心してお産もでき、終戦直後の昭和20年8月16日に姉が生まれ

ました。
 
 よく「胎教がよかったせいか気性が荒くなった」と母が言っていました。
 
 一方父はと言えば、中国で終戦を迎えホッとしたせいか、現地の大丸百貨店の中をウロウロしていたところ、中国人のおばさんに

「早く二階に上がらないと殺されるよ。早く、早く」と中国語で言われ、中国語が解った父は逃げて命拾いをしたと言います。もし

父が亡くなっていたら今の私は存在していなかったことでしょう。


  2022/07/27   オリーブ

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