戦争の思い出話 モツンク
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- 戦争の思い出話 モツンク (編集者ze, 2022/7/31 19:41)
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投稿日時 2022/7/31 19:41
編集者ze
投稿数: 56
メロウ倶楽部伝承館寄稿原稿 2022年7月26日(火)
90歳目前の、平凡な年寄りの繰り言です。
お聞き苦しければ(お見苦しければ)ごめん下さい。
昔、こんな生き方をしたという年寄りの、戦争の思い出話です。
その1
私が生まれたのは昭和10年、血気盛んな青年将校が要人を襲撃する2・26事件が起きた年でした。
父と母が、神戸の紳士服店で結ばれ、母が身ごもって実家に帰り私が生まれました。
それから三年後、昭和13年の12月に、母は結核で一生を終えました。盧溝橋事件から日中戦争が起きた年です。
当時の結核は不治の病で、有効な治療法がなかったのです。
母は、高知の片田舎に住む実母の家で隔離され、治療に努めましたが、懸命の甲斐なく産み落とした乳飲み子を、
父の実家がある愛媛の母に預けて他界しました。
享年26歳でした。私の名は父と母の名をとって、福光と名づけられました。
その2
私、福光にとっては父方の祖母タカが育ての親になります。
タカは乳飲み子の私を、当時の人工ミルクとおもゆで大事に育てたそうです。幸い大きな病もなく、そこで小学校に
上がりました。
2年生になったころ、再婚していた父が私を引き取って、神戸に移り住むことになりました。
神戸の家には継母とその子二人(私の弟)がいました。
1941年(昭和16年)に日本が真珠湾を攻撃して第二次世界大戦、日本では大東亜戦争が
始まっていました。
小学2年で神戸の小学校に転校したのですが、ほどなく父が召集されてのち、戦況が厳しくなり、
たび重なる空襲に、私たちはまた四国に疎開したのです。
神戸の生活は食べ物に困る日々が続き、身の安全を求めて、継母と弟は実家のある町へ帰り、
私はまた祖父母の家に預けられました。
私は小学校3年から中学校卒業の1952年(昭和27年)まで、祖父母と生活を共にしたのです。
この時期が、私が戦争の恐ろしさや悲惨さを、体の隅々まで体験した時期になります。
戦争は1945年(昭和29年)8月6日に、広島と長崎に落とされた原子爆弾2発と、
沖縄の占領で幕を引きました。
ポツダム宣言を受け入れた、敗戦国日本の姿は、まさにむごたらしいの一言でした。
その3
私は1年から2年生のころ、小学校で軍事訓練を受けた時のことが忘れられません。
当時の先生はそれは厳しく、歩調訓練で何かあると耳を引っ張り、尻をたたいて怒鳴りつけます。
「そんなことで銃後の守りになるか。気を付け。顎を引け」と。
毎日、ピリピリしながら登校していました。しかし戦況は日に日に厳しくなり、
1945年(昭和29年7月26日)深夜に飛来したB29が、約2時間にわたって大量の焼夷弾をばらまき、
私たちの街はほとんどが焼け野原になりました。
私が10歳で小学3年生の時です。
空襲の日、私は防空頭巾をかぶり祖母に手を引かれて、舞いかかる火の粉を払いながら必死で逃げました。
家からほぼ2キロのあたりに街の中心を流れる河があり、そこに架かった大きな橋の下に向かって走りました。
橋の下は避難した人で溢れていました。怯えながらそこから見た街の炎と爆音の中に、何人かの人が逃げ惑う様子が
目に浮かびます。
何時間いたでしょう。燃え盛っていた街の火が小さくなり、静かになったのは明け方でした。
おずおずと動き始めた人々と一緒に、街に戻りながら見た光景は真っ黒で、ところどころに焼け焦げた何人もの遺体が
ありました。
道をふさぐ焼けぼっくいを避けながら、ようやく我が家に辿り着いたとき、まだあちこちで煙が上がっています。
祖父がそこに座り込んでいました。必死で家を守ろうとしていたようで、鼻は真っ黒です。
よく生き延びたと思いました。
祖父の顔を見て急に空腹を覚えた私たちは、焼け跡のあちこちをひっくり返して、残った食べ物を探しました。
そして見つけたのは、半分焼け焦げた米櫃と味噌壺でした。3人は、焼き米を焼き味噌で、ものも言わず食べました。
少しだけ焼夷弾の油の匂いがしました。ゆがんだ薬缶も見つけて、井戸水を汲みお湯も沸かしました。
その4
そのころには、近所の人たちも少しずつ帰ってきました。みんな顔を合わせて涙を流し、無事を喜んでいました。
しかし、いつまでたっても帰ってこないご近所さんもいました。
跡形もない家の焼け跡の残骸を、祖父母は懸命に引きはがしながら、何か使えるものはないかと探し始めました。
その時見つけた金槌や鋸、ヤットコは今も手元にあります。
高熱で色が変わった道具を、祖父が何とか使えるようにして、焼け焦げたトタン板や柱でその夜のバラック小屋を
つくりました。
不発の焼夷弾があって、それに触れて傷ついた人もいたとあとで聞きました。
戦争はまだ続いていたので、いつまた空襲があるか分かりませんが、ここまで燃やしきったら直ぐには来ないだろう
という思いだったようです。
街の真ん中にそびえるお城山まで、見事に焼けて平地になり、ところどころにコンクリートの建物が残っていますが
しっかりと見通せました。
その夜は着の身着のままで、身を寄せ合ってバラックの下で眠ったのでした。
その5
その日から終戦の玉音放送があった日まで、どう生きていけばいいか、祖父母は住み家を探したようです
幸い近所に居た人の実家が5キロほど離れた郊外にあり、農家を営んでいたので、そこの納屋を借り、
座を上げて移り住むことができました。
むしろ敷の部屋の真ん中に切った囲炉裏で焚く火が、唯一の灯りです。
毎晩、それを囲んで薪を燃やしながらの生活でした。食べ物は農家に分けてもらいました。
時々、祖父が街に様子を見に出て、配給の品をもらって帰ります。ある日、帰りが遅いので心配していたら、
夜遅くに「アメリカの機銃掃射にやられた」といいながら帰って来ました。
聞くと歩いていたらバリバリと音がして後ろから前に土煙が上がったそうです。
幸い直撃は逃れたのですが、何かが右の脇腹に当たって負傷したとのこと、治療を受けて落ち着いたので帰れたと話しました。
1945年(昭和20年)8月15日の終戦まであとわずかの日のことです。
アメリカは日本人を皆殺しにしたいのかと思いました。
私は市内の小学校から、田舎の小学校に転校して通っていました。
農家の、逞しい子供たちが河や野原で遊び、その中に誘ってくれます。
木イチゴや山葡萄、いちじくなどがおやつでした。
その6
待ちに待った戦争が終わり、戦地で生き残った人たちがぼつぼつ帰り始めました。
私の父や叔父、近所にいた小父さんも引き揚げてきて、狭い私たちの納屋小屋に住み、
暫くしてそれぞれに次の住み家を探して出ていきました。
祖父も、いつまでもここに居ることは出来ないと、街中の焼け残った家を探し、継母の姉が住んでいた家を借りて、
そこに移ったのは終戦の日から3ケ月後でした。
その家は、私たちが避難した河の橋の上流の、堤防に建っていました。空襲を免れた古い貸家でしたが、
そこが小学校4年から中学校卒業までの故郷です。
田舎の学校から転校した、街の学校は空襲であちこちが壊れていました。子供たちはその校舎を手分けして片付けながら、
勉強します。
堤防の松林の下の道を、新しい小学校に近所の悪童たちと並んで通いました。空襲の心配がないことが、
子供心に嬉しいことでした。
遊び道具は、あるものを組み合わせて自分で作ります。
古い自転車の車輪を分解して作る鉄炮ヤスもその一つです。子兎やヒヨコを育てて卵や肉にしましたし、
河では竹一本で魚を獲るのが遊びでした。小遣い稼ぎに磁石をつけた紐を引っ張って道を歩いて鉄くずを集め、
売りに行ったりもしました。
その7
終戦からほぼ一年は、食べ物を手に入れるのに困りました。祖父母と農家にお米や野菜を買出しに、何度も行きました。
その頃のいやな思い出は、電車での帰りに警察の臨検に遭い、せっかく買った食べ物のリュックを窓から投げ捨てたことです。
食料統制で闇の買出しは禁止されていたからです。警察に捕まったらいけないと、悔しいけど捨てました。
たった一度だけのことですが、今も忘れられません。また祖母は、醤油や塩がなくなると遠くの海に出かけて、
一升瓶に海の水を汲んで帰りました。それが私たちの食事を支えていたのです。
野生の蕗や蓬や芋の茎、河でとれる魚はたびたび食卓に上りました。お米を補う団子汁(すいとん)や南瓜、
芋も厭というほど食べました。ことほどさように、食べ繋ぐことに苦労する戦後でした。
その8
戦後行われた学制改革は、国民学校から六三三制の小、中、高校に変わり、私たちも新しく出来た中学校に進むことになります。
その学校は、元あった日本軍の兵舎が校舎でした。お城を見上げるお堀端の中にあります。
家からの距離は6キロあまり、ぼつぼつと復興住宅が立ち並ぶ中を、毎日歩いて登下校しました。
復員してきた先生方は、軍事教育から一転して民主主義教育を進めねばなりません。
でも英語や社会の先生は、終戦後の解放感に満ちていました。生徒たちも何かうきうきして、中には先生をやりこめる勢いのある者がいました。
それが許される時代になったのです。
社会の先生は、「黙るな、意見を云え。自分を主張しなさい」と討論を勧め、英語の先生は
「正しい発音を。唇と舌の使い方を覚えろ。外人に通じる英語を学べ」と指導します。
思えば、戦時中の学びから、戦後の学びに180度の転換期に生きた世代だった訳です。
ですが子供は柔軟です。
新しい勉強法に直ぐに馴染みました。むしろその違いを体験したからこそ、その後の様々な難関を乗り越えられたと思います。
学校の機材や用具不足を補うため、校内にあった楠の実を集めて売り、資金の足しにしたこともあります。
クスの実はナフタリンの原料でした。
また石炭殻を敷いた軍事訓練場跡を割り振って、生徒たちが畑を作り、ニンジンやサツマイモを育てたりもしました。
旧兵舎は終戦で進駐してきた米軍の住んだ跡で、壁は原色の訳の分からない模様が入っていましたがいつか消されました。
多情多感な中学生のころ、1948年(昭和24年)から1052年(昭和27年)の思い出です。
その9・終わりに
終戦から77年が過ぎました。「神国日本、米英鬼畜、撃ちてし止まむ」そんな言葉に引きずられて世界を相手に戦った小さな国に、
平和が訪れ二度と戦争はしないと宣言して、経済大国に成長したことは皆さんもご承知の通りです。
今、戦争の恐ろしさを身をもって体験した私たちは、平和がこのままいつまでも続くよう願っていますが、
最近の世界の様子を見ると恐ろしさを禁じえません。
資源を持たない小さな国でなく、資源も財力もある大きな国が、その権益を更に広げようとして、
大きな武力を背景に身勝手な理屈をつけて侵略を始めています。
彼らは侵略でなく「自国民を守るための正当な特殊軍事作戦だ」などと云います。
かつての私たちのように、国の異常な考えや、金縛りに遭い間違った選択を強いられている姿を見るとき、
これからの世代のことが心配でなりません。
いったん事が起きれば、今度は地球の環境そのものが取り返しのつかないことになるからです。
昔と違い、多くの情報がデジタルで即見える時代です。手にした情報を正しく読み解き、
2度と戦争に巻き込まれないよう、心から願う次第です。
2022年7月27日 メロウ倶楽部 モツンク記
90歳目前の、平凡な年寄りの繰り言です。
お聞き苦しければ(お見苦しければ)ごめん下さい。
昔、こんな生き方をしたという年寄りの、戦争の思い出話です。
その1
私が生まれたのは昭和10年、血気盛んな青年将校が要人を襲撃する2・26事件が起きた年でした。
父と母が、神戸の紳士服店で結ばれ、母が身ごもって実家に帰り私が生まれました。
それから三年後、昭和13年の12月に、母は結核で一生を終えました。盧溝橋事件から日中戦争が起きた年です。
当時の結核は不治の病で、有効な治療法がなかったのです。
母は、高知の片田舎に住む実母の家で隔離され、治療に努めましたが、懸命の甲斐なく産み落とした乳飲み子を、
父の実家がある愛媛の母に預けて他界しました。
享年26歳でした。私の名は父と母の名をとって、福光と名づけられました。
その2
私、福光にとっては父方の祖母タカが育ての親になります。
タカは乳飲み子の私を、当時の人工ミルクとおもゆで大事に育てたそうです。幸い大きな病もなく、そこで小学校に
上がりました。
2年生になったころ、再婚していた父が私を引き取って、神戸に移り住むことになりました。
神戸の家には継母とその子二人(私の弟)がいました。
1941年(昭和16年)に日本が真珠湾を攻撃して第二次世界大戦、日本では大東亜戦争が
始まっていました。
小学2年で神戸の小学校に転校したのですが、ほどなく父が召集されてのち、戦況が厳しくなり、
たび重なる空襲に、私たちはまた四国に疎開したのです。
神戸の生活は食べ物に困る日々が続き、身の安全を求めて、継母と弟は実家のある町へ帰り、
私はまた祖父母の家に預けられました。
私は小学校3年から中学校卒業の1952年(昭和27年)まで、祖父母と生活を共にしたのです。
この時期が、私が戦争の恐ろしさや悲惨さを、体の隅々まで体験した時期になります。
戦争は1945年(昭和29年)8月6日に、広島と長崎に落とされた原子爆弾2発と、
沖縄の占領で幕を引きました。
ポツダム宣言を受け入れた、敗戦国日本の姿は、まさにむごたらしいの一言でした。
その3
私は1年から2年生のころ、小学校で軍事訓練を受けた時のことが忘れられません。
当時の先生はそれは厳しく、歩調訓練で何かあると耳を引っ張り、尻をたたいて怒鳴りつけます。
「そんなことで銃後の守りになるか。気を付け。顎を引け」と。
毎日、ピリピリしながら登校していました。しかし戦況は日に日に厳しくなり、
1945年(昭和29年7月26日)深夜に飛来したB29が、約2時間にわたって大量の焼夷弾をばらまき、
私たちの街はほとんどが焼け野原になりました。
私が10歳で小学3年生の時です。
空襲の日、私は防空頭巾をかぶり祖母に手を引かれて、舞いかかる火の粉を払いながら必死で逃げました。
家からほぼ2キロのあたりに街の中心を流れる河があり、そこに架かった大きな橋の下に向かって走りました。
橋の下は避難した人で溢れていました。怯えながらそこから見た街の炎と爆音の中に、何人かの人が逃げ惑う様子が
目に浮かびます。
何時間いたでしょう。燃え盛っていた街の火が小さくなり、静かになったのは明け方でした。
おずおずと動き始めた人々と一緒に、街に戻りながら見た光景は真っ黒で、ところどころに焼け焦げた何人もの遺体が
ありました。
道をふさぐ焼けぼっくいを避けながら、ようやく我が家に辿り着いたとき、まだあちこちで煙が上がっています。
祖父がそこに座り込んでいました。必死で家を守ろうとしていたようで、鼻は真っ黒です。
よく生き延びたと思いました。
祖父の顔を見て急に空腹を覚えた私たちは、焼け跡のあちこちをひっくり返して、残った食べ物を探しました。
そして見つけたのは、半分焼け焦げた米櫃と味噌壺でした。3人は、焼き米を焼き味噌で、ものも言わず食べました。
少しだけ焼夷弾の油の匂いがしました。ゆがんだ薬缶も見つけて、井戸水を汲みお湯も沸かしました。
その4
そのころには、近所の人たちも少しずつ帰ってきました。みんな顔を合わせて涙を流し、無事を喜んでいました。
しかし、いつまでたっても帰ってこないご近所さんもいました。
跡形もない家の焼け跡の残骸を、祖父母は懸命に引きはがしながら、何か使えるものはないかと探し始めました。
その時見つけた金槌や鋸、ヤットコは今も手元にあります。
高熱で色が変わった道具を、祖父が何とか使えるようにして、焼け焦げたトタン板や柱でその夜のバラック小屋を
つくりました。
不発の焼夷弾があって、それに触れて傷ついた人もいたとあとで聞きました。
戦争はまだ続いていたので、いつまた空襲があるか分かりませんが、ここまで燃やしきったら直ぐには来ないだろう
という思いだったようです。
街の真ん中にそびえるお城山まで、見事に焼けて平地になり、ところどころにコンクリートの建物が残っていますが
しっかりと見通せました。
その夜は着の身着のままで、身を寄せ合ってバラックの下で眠ったのでした。
その5
その日から終戦の玉音放送があった日まで、どう生きていけばいいか、祖父母は住み家を探したようです
幸い近所に居た人の実家が5キロほど離れた郊外にあり、農家を営んでいたので、そこの納屋を借り、
座を上げて移り住むことができました。
むしろ敷の部屋の真ん中に切った囲炉裏で焚く火が、唯一の灯りです。
毎晩、それを囲んで薪を燃やしながらの生活でした。食べ物は農家に分けてもらいました。
時々、祖父が街に様子を見に出て、配給の品をもらって帰ります。ある日、帰りが遅いので心配していたら、
夜遅くに「アメリカの機銃掃射にやられた」といいながら帰って来ました。
聞くと歩いていたらバリバリと音がして後ろから前に土煙が上がったそうです。
幸い直撃は逃れたのですが、何かが右の脇腹に当たって負傷したとのこと、治療を受けて落ち着いたので帰れたと話しました。
1945年(昭和20年)8月15日の終戦まであとわずかの日のことです。
アメリカは日本人を皆殺しにしたいのかと思いました。
私は市内の小学校から、田舎の小学校に転校して通っていました。
農家の、逞しい子供たちが河や野原で遊び、その中に誘ってくれます。
木イチゴや山葡萄、いちじくなどがおやつでした。
その6
待ちに待った戦争が終わり、戦地で生き残った人たちがぼつぼつ帰り始めました。
私の父や叔父、近所にいた小父さんも引き揚げてきて、狭い私たちの納屋小屋に住み、
暫くしてそれぞれに次の住み家を探して出ていきました。
祖父も、いつまでもここに居ることは出来ないと、街中の焼け残った家を探し、継母の姉が住んでいた家を借りて、
そこに移ったのは終戦の日から3ケ月後でした。
その家は、私たちが避難した河の橋の上流の、堤防に建っていました。空襲を免れた古い貸家でしたが、
そこが小学校4年から中学校卒業までの故郷です。
田舎の学校から転校した、街の学校は空襲であちこちが壊れていました。子供たちはその校舎を手分けして片付けながら、
勉強します。
堤防の松林の下の道を、新しい小学校に近所の悪童たちと並んで通いました。空襲の心配がないことが、
子供心に嬉しいことでした。
遊び道具は、あるものを組み合わせて自分で作ります。
古い自転車の車輪を分解して作る鉄炮ヤスもその一つです。子兎やヒヨコを育てて卵や肉にしましたし、
河では竹一本で魚を獲るのが遊びでした。小遣い稼ぎに磁石をつけた紐を引っ張って道を歩いて鉄くずを集め、
売りに行ったりもしました。
その7
終戦からほぼ一年は、食べ物を手に入れるのに困りました。祖父母と農家にお米や野菜を買出しに、何度も行きました。
その頃のいやな思い出は、電車での帰りに警察の臨検に遭い、せっかく買った食べ物のリュックを窓から投げ捨てたことです。
食料統制で闇の買出しは禁止されていたからです。警察に捕まったらいけないと、悔しいけど捨てました。
たった一度だけのことですが、今も忘れられません。また祖母は、醤油や塩がなくなると遠くの海に出かけて、
一升瓶に海の水を汲んで帰りました。それが私たちの食事を支えていたのです。
野生の蕗や蓬や芋の茎、河でとれる魚はたびたび食卓に上りました。お米を補う団子汁(すいとん)や南瓜、
芋も厭というほど食べました。ことほどさように、食べ繋ぐことに苦労する戦後でした。
その8
戦後行われた学制改革は、国民学校から六三三制の小、中、高校に変わり、私たちも新しく出来た中学校に進むことになります。
その学校は、元あった日本軍の兵舎が校舎でした。お城を見上げるお堀端の中にあります。
家からの距離は6キロあまり、ぼつぼつと復興住宅が立ち並ぶ中を、毎日歩いて登下校しました。
復員してきた先生方は、軍事教育から一転して民主主義教育を進めねばなりません。
でも英語や社会の先生は、終戦後の解放感に満ちていました。生徒たちも何かうきうきして、中には先生をやりこめる勢いのある者がいました。
それが許される時代になったのです。
社会の先生は、「黙るな、意見を云え。自分を主張しなさい」と討論を勧め、英語の先生は
「正しい発音を。唇と舌の使い方を覚えろ。外人に通じる英語を学べ」と指導します。
思えば、戦時中の学びから、戦後の学びに180度の転換期に生きた世代だった訳です。
ですが子供は柔軟です。
新しい勉強法に直ぐに馴染みました。むしろその違いを体験したからこそ、その後の様々な難関を乗り越えられたと思います。
学校の機材や用具不足を補うため、校内にあった楠の実を集めて売り、資金の足しにしたこともあります。
クスの実はナフタリンの原料でした。
また石炭殻を敷いた軍事訓練場跡を割り振って、生徒たちが畑を作り、ニンジンやサツマイモを育てたりもしました。
旧兵舎は終戦で進駐してきた米軍の住んだ跡で、壁は原色の訳の分からない模様が入っていましたがいつか消されました。
多情多感な中学生のころ、1948年(昭和24年)から1052年(昭和27年)の思い出です。
その9・終わりに
終戦から77年が過ぎました。「神国日本、米英鬼畜、撃ちてし止まむ」そんな言葉に引きずられて世界を相手に戦った小さな国に、
平和が訪れ二度と戦争はしないと宣言して、経済大国に成長したことは皆さんもご承知の通りです。
今、戦争の恐ろしさを身をもって体験した私たちは、平和がこのままいつまでも続くよう願っていますが、
最近の世界の様子を見ると恐ろしさを禁じえません。
資源を持たない小さな国でなく、資源も財力もある大きな国が、その権益を更に広げようとして、
大きな武力を背景に身勝手な理屈をつけて侵略を始めています。
彼らは侵略でなく「自国民を守るための正当な特殊軍事作戦だ」などと云います。
かつての私たちのように、国の異常な考えや、金縛りに遭い間違った選択を強いられている姿を見るとき、
これからの世代のことが心配でなりません。
いったん事が起きれば、今度は地球の環境そのものが取り返しのつかないことになるからです。
昔と違い、多くの情報がデジタルで即見える時代です。手にした情報を正しく読み解き、
2度と戦争に巻き込まれないよう、心から願う次第です。
2022年7月27日 メロウ倶楽部 モツンク記