お袋が作ってくれたツリ鞄 翻車魚
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- お袋が作ってくれたツリ鞄 翻車魚 (編集者ze, 2022/8/9 7:18)
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投稿日時 2022/8/9 7:18
編集者ze
投稿数: 56
お袋が作ってくれたツリ鞄
翻車魚
2022年8月6日
·
▼まもなく終戦記念日8月15日(77回)を迎えます。
当時、私は小学校1年生で名古屋空襲の時(熱田区)に住んでおりました。
小学校は高蔵国民学校の1年生です。警戒警報が発令されると自宅へ帰り・・・
解除になると学校へ戻る日々でした。
自宅の住まいは、隣の会社が飛行機の後ろの車輪を製造している工場です。
夜、アメリカのB-29爆撃機の編隊が名古屋上空に飛来、爆弾や焼夷弾を投下、
そのため名古屋市内は焼け野になりました。
すべての人たちは、命大事とほんの一握りの手荷物で非難するのが精一杯でした。
夜が明けると遠く一遠方迄、見渡せます…建物が燃え尽きて皆無でした。”唖然”
終戦日は、犬山(犬山北国民学校・小学校2年生)に住んでおりました。
8月15日にお袋が迎えに来てくれました。兄弟7人家族でそれぞればらばらに、
知人・親戚等に預けられておりました。
我が家も、家や家財道具一切燃え尽きました。戦後、親は大変だったです。
終活で整理していたら大変貴重な品物が出てきました。
お袋が帯締めの芯で作ってくれたツリ鞄で、小学校6年生まで愛用しました。
▼幼稚園1941年4月~1944年3月東別院のお東幼稚園
小学1年生のランドセルは、牛革で姉のお古で色は茶系統です。
筆箱はセルロイド製で無くボール紙製です。
昭和20年3月19日の名古屋空襲は、午前2時ごろB29爆撃機230機に
よる大編隊の市街地に対する大規模な攻撃でした。(Webによる)
戦後は学校の校舎で二部授業。午前の部・午後の部と別れていました。
小学6年生から校舎が完成。部屋の仕切りを外すと「講堂に変身」になりました。
▼裏の宅地は、その時代は畑で野菜(サツマイモ・トマト・きゅうり・キナウリ・
よく実る糸瓜型「ヘチマ型」の南瓜・ゴマやトウモロコシ等)を栽培していました。
一時期、鶏を200羽飼育しており、卵を乾物店に収めていた。
家族が多くて大変でしたが、市内(瑞穂区内)に4か所、畑として借りていました。
現在その土地は豪華な建物が立っています。
麦や大豆は、手動式の粉砕機でうどん粉や黄な粉を作りました。
お米の配給は玄米でしたので(異物取り除き)、一升瓶に入れて糠を取り、殆ど雑炊で頂きました。
クジラの肉も、町内の籤引きに当たれば、口に入ります。
お米も、「米穀通帳」がなければ、「お米やさつま芋等も」購入できませんでした。
タンパク源は、天白川の田んぼで「イナゴ」取りに行きました。
現在でもお店でイナゴの佃煮を買ってきます。
ただし、ジジババしか口に入れません。幼年期はひもじい生活環境でした。
戦争はこりごりです。
兄・姉等は、戦時中、工場で学徒奉仕で慣れぬ手つきで、鑢(ヤスリ)を使って物を加工していたそうです。
翻車魚
2022年8月6日
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▼まもなく終戦記念日8月15日(77回)を迎えます。
当時、私は小学校1年生で名古屋空襲の時(熱田区)に住んでおりました。
小学校は高蔵国民学校の1年生です。警戒警報が発令されると自宅へ帰り・・・
解除になると学校へ戻る日々でした。
自宅の住まいは、隣の会社が飛行機の後ろの車輪を製造している工場です。
夜、アメリカのB-29爆撃機の編隊が名古屋上空に飛来、爆弾や焼夷弾を投下、
そのため名古屋市内は焼け野になりました。
すべての人たちは、命大事とほんの一握りの手荷物で非難するのが精一杯でした。
夜が明けると遠く一遠方迄、見渡せます…建物が燃え尽きて皆無でした。”唖然”
終戦日は、犬山(犬山北国民学校・小学校2年生)に住んでおりました。
8月15日にお袋が迎えに来てくれました。兄弟7人家族でそれぞればらばらに、
知人・親戚等に預けられておりました。
我が家も、家や家財道具一切燃え尽きました。戦後、親は大変だったです。
終活で整理していたら大変貴重な品物が出てきました。
お袋が帯締めの芯で作ってくれたツリ鞄で、小学校6年生まで愛用しました。
▼幼稚園1941年4月~1944年3月東別院のお東幼稚園
小学1年生のランドセルは、牛革で姉のお古で色は茶系統です。
筆箱はセルロイド製で無くボール紙製です。
昭和20年3月19日の名古屋空襲は、午前2時ごろB29爆撃機230機に
よる大編隊の市街地に対する大規模な攻撃でした。(Webによる)
戦後は学校の校舎で二部授業。午前の部・午後の部と別れていました。
小学6年生から校舎が完成。部屋の仕切りを外すと「講堂に変身」になりました。
▼裏の宅地は、その時代は畑で野菜(サツマイモ・トマト・きゅうり・キナウリ・
よく実る糸瓜型「ヘチマ型」の南瓜・ゴマやトウモロコシ等)を栽培していました。
一時期、鶏を200羽飼育しており、卵を乾物店に収めていた。
家族が多くて大変でしたが、市内(瑞穂区内)に4か所、畑として借りていました。
現在その土地は豪華な建物が立っています。
麦や大豆は、手動式の粉砕機でうどん粉や黄な粉を作りました。
お米の配給は玄米でしたので(異物取り除き)、一升瓶に入れて糠を取り、殆ど雑炊で頂きました。
クジラの肉も、町内の籤引きに当たれば、口に入ります。
お米も、「米穀通帳」がなければ、「お米やさつま芋等も」購入できませんでした。
タンパク源は、天白川の田んぼで「イナゴ」取りに行きました。
現在でもお店でイナゴの佃煮を買ってきます。
ただし、ジジババしか口に入れません。幼年期はひもじい生活環境でした。
戦争はこりごりです。
兄・姉等は、戦時中、工場で学徒奉仕で慣れぬ手つきで、鑢(ヤスリ)を使って物を加工していたそうです。