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父の自分史     パープル

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  • なし 父の自分史     パープル (編集者ze, 2022/8/10 20:53)

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編集者ze

なし 父の自分史     パープル

msg# 1
depth:
0
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2022/8/10 20:53
編集者ze  モデレータ   投稿数: 36
父の自分史

パープル 
2022年8月7日

 
(大正2年生まれの父 88歳の時作成した、自分史より)

▼その1

 小学校1年生の年末、当時世界的に流行したスペイン風邪にかかり
危うく死ぬところだった。
 発病の数日前に校医から背中に予防接種を受けたが、
病原体がまだウイルスと分かっていない時代のことゆえ
この注射は無効どころか、かえって有害だったらしく、
背中が痛い痛いと言っているうちに発熱し、高熱に浮かされて
夜中に飛び起きたりした。

 幸い命拾いして正月明けに登校してみると、級友の中に
同じ病気で死んだ者がいて、その席がぽっかり空いていたのが
妙に記憶に残っている。

 人間も、80年以上生きていると、何度か死線を超えた経験が
あるものだが、私にとってこの時の病気が、第1回の
死線経験であったと思う。


▼その2(応召と陸軍嘱託)

同じく父の自分史より
 昭和16年太平洋戦争が始まると、戦線は急速に拡大し
初期には優勢だったため、陸軍から占領地の
マレー半島に作る医科大学の要因募集があった。
それに応募して一応の内定の報を得たが、いくら待っても
正式の出発命令が来ない。

 そのうち立川の第八陸軍航空技術研究所(医学専門)から
戦時研究要員として来ないかという話があり、応諾して
内定したところ、昭和18年秋突然召集令状(いわゆる赤紙)が
来てしまった。
 これは、あらゆる話に優先する命令なので、取り急ぎ富山の軍隊に
入隊してみると、医師ばかり30人のいわゆる懲罰召集だった。
3週間の軍事訓練と金沢陸軍病院における学科教育を経て
1か月後に帰郷を許されたが、早晩召集が来るから
覚悟しておけと言われた。

 ところが、私だけは除軍の日に師団軍医部の幹部から面接を受け
福田教授の話によると、君は戦時研究要員として立川の研究所に行く
予定だそうだが、本当かと聞くから、その通りと答えると、
後で分かったことだが、名簿に延命と書き込んでくれた。
召集命令を延ばす意味だが事実は命を延ばすに等しかった。
それが無かったら当時の状況から、南海の孤島で戦死する
可能性が高かったのである。

 召集から戻って間もなく上京し、立川の研究所に陸軍嘱託として勤め始めた。
ここは戦争に直結する最重要課題を研究する所で、中でも
低圧実験(高空を飛行するのと同一環境の装置内での人体実験)が
頻繁に実施された。
 私もしばしばそれに参加したが、相当に慣れた時の油断から
酸素の操作を誤り、(1万メートル以上の高空環境では
どうしても、酸素不測のため、頭がぼんやりする)
酸素吸入を自ら断ったため、直ちに失神昏倒した。
装置外の監視員が急ぎ急降下の措置を取って5分後に地上に戻り
息を吹き返したが、危うく死ぬところだった。
 それから1週間くらいは夢の中にいるような気持ちが続いたが、
徐々に自然に回復した。
 これが、私の人生中、第2の死線を超えた経験である。


▼その3
 昭和19年4月5日結婚にこぎつけた。
戦争末期の万事不自由な時代ゆえ、ホテルの1室に
近親だけが集まっての披露宴のみで、
記念撮影も新婚旅行も無かった。

 結婚式後1か月して彼女が上京してきて、
研究所に勤める私との新婚生活が始まった。

 家は麹町にある母方叔母の離れ家で、
私の通勤時間は片道1時間半かかった。

 この家には10か月住んだが、東京の中心部だけあって
配給の食料品は質的には最高級品だと妻は感心していた。

 しかし、量的にも種類も不足していて苦しい食生活が続き
たまに研究所で配給してくれる少量の食料品が有難く、
偶然夜道で拾った大根葉1枚を味噌汁の貴重な実にするという
情けない状態だった。


▼その4
 昭和20年になると、空襲は日ごとに激しくなった。
ある日敵機が1機頭上を通り、大きな爆弾を落としたが、
それははじめヒュルヒュルという小さな音で、
すぐにシューシューの中音になり、やがてゴーゴーの
圧する轟音になった。

 思わず首を縮め身体も伏せたが音はスーーっと消えたようになくなった。
それは幸運にも100メートル先に落ちた不発弾だった。

 その後の経験で、焼夷弾の落下音はザーザーと
砂を掃くような音であることを知った。

 3月10日の東京江東区の大空襲は一晩に10万人の死者が出たほど
猛烈で、研究所も急に新潟に移転することになった。

 そこで私も3月末福岡に帰ることが許されたが
手荷物1個出すにも、毎朝近くの四谷駅まで担いで行って並び
3日目にやっと受け付けて貰ったという風で、
厳しい制限をかい潜っての旅行は本当に苦しかった。

 背中に背負った荷物は日常生活品のみで、持ち帰れずに置いてきた。

 衣料品その他の平時なら価値ある荷物は5月の東京山の手の
大空襲で全部焼失してしまった。

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