友人の90歳のお母さんの戦災の思い出 こうちゃん
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- 友人の90歳のお母さんの戦災の思い出 こうちゃん (編集者ze, 2022/9/7 10:52)
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投稿日時 2022/9/7 10:52 | 最終変更
編集者ze
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■昨年亡くなった友達の、今年90になられたお母さんが平成27年に書かれた戦災の思い出です。
先日訪問した折、外部での公開のお許しを頂きましたのでテキスト化しました。
______________________
1. 命からがら逃げた空襲の日
▼70年前の7月28日は、 一宮市内が空襲を受けて焼け野原になった。
前日の27日、映画「花の講道館」を見に行ったが、 警報が出たため、 翌28日に 見に行った。
午後6時か7時頃に警戒警報が入ったので、
家でのんびりと本を 読んでいたところ、二度目(8時頃)の警報のサイレンが突然鳴ったかと思うと同時に焼夷弾の落ちる音と、
裏庭の方に火柱が見えたとたん、母と姉と私の三人は、電気 の明かりはそのままにして、 大あわてでお勝手道具を紐にぶら下げて、
掘り抜き井戸 に入れたり、商売道具の秤は表の用水路へ入れたりした。
▼その他のものは防空壕に入 れて、蓋をして土をかぶせたが、 あわてていたため、 しっかりと土をかぶせないまま
逃げてしまった。
貴重品だけはリヤカーに積み込み、その上に布団をかぶせて、 私一 人でリヤカーを引いて一目散に逃げた。
私は、 あまりも突然のことだったので、
大急 ぎでモンペを三枚重ねばきしたものの一枚は片足をはずしたまま逃げていた。
▼逃げる前方に火の手が上がり往く手を阻まれ、リヤカーを引くどころではなかった。
東海道線の踏切のところでうろうろしていると、近くの用水路の土管にいた人から、 「早くこっちに来い」 と叫ぶ声がした。
命が危ないので土管の中に入れてもらうと、 すでに5,6人ほどの人たちがうずくまっておられた。
火災の熱風で、土管の水がだ んだん生暖かくなり、恐ろしさのあまり私たちは震えていた。
土管の外側にいた人から、「おみゃーさんのリヤカーが燃えているぞ」 と言われたけ れど、焼夷弾の火の粉が降り続くので、
外に出て消すこともできず、リヤカーと貴重 品は焼け焦げてしまった。
▼外が明るくなり、 焼夷弾も落ちて来なくなったので土管から這い出して、母と姉を 探すため、ふらふらしながら歩くと、
あちらこちらからブスブスと煙が立ち、焼夷弾 の焼け焦げた臭い油のにおい (ビニールの燃えたにおい) がたちこめ、
周りには鉄の ゴロゴロと転がっていた。
▼焼け残った立派な倉の扉を家の人が開けたとたん、 突然、 中から火を噴いて煙がも そうもうと上がったのでびっくりした。
防空壕に直撃弾が当たり一家全滅したという話 や、町内の警防団長さんが消火活動中に亡くなられたことも聞いた。
町内の人たちは 手の施しようもなく、 焼け跡に呆然と立っていた。
▼家に着くと母と姉が焼け跡に立っていた。「お母さん」 と叫んで母に飛びつきました。
私たち三人は抱き合ってワァーワアーと泣きました。
母は、私を抱きしめて 「日出子。 生きていてよかったね」 と言ってくれました。 私たち三人が無事に生きていたのが不 思議でたまりません。
▼母と姉二人は、 家に火がついたので、 消そうとしたが、火の勢いが強くなり、
手の 施しようがなくあきらめて押場通りを北の方へ逃げたと、話してくれた。
翌日、私は、焼け焦げた大黒柱や、くすぶっている2、3本の柱に水をかけながら 裏にあった小屋の防空壕を見に行った時、
誤ってくすぶっていた灰の中に足を突っ込 んでしまい、踵が火傷して水ぶくれになってしまった。 しばらく治らず、痛かった。
2.辛かったバラック小屋の生活
▼三河の方へ松の根ほりに出かけていた在郷軍人だった父が、 空襲後の2,3日過ぎたころに帰って来た。
家族4人無事であったことが何よりの喜びだった。
さっそく、4人でバッラク小屋作り。 家の裏の丹菊工場が、 知らぬ間に軍需部品置き場に変わり、
鉄棒・鉄板 ジュラルミン板・銅板等が山積みになっていた。
近所の人 たちとこっそりと鉄棒や鉄板をいただいて小屋の建築材料の一部に使った。
▼半分に割れた瓦を泥土で積み上げて、 寒さ除けの囲いを作り、 黒焦げになった柱で バラック小屋を作った。
鉄板の上にムシロを敷き詰め四畳ぐらいの小屋が、
私たち家族4人の仮住まいになった。
幸い、井戸の中に鍋や、やかんなどを入れて置いたお蔭で、食事を作るのに助かった。
薪を燃やすために、マッチが手に入りにくかったので、「つけ木」 (うす板に硫黄をちょっとつけたもの)を使った。
明りは灯芯にクジラ油をつけて火を灯もしたが、 油煙や、嫌な臭いが部屋中に立ち込めて大変だった。
▼トイレは小便器用の甕があったので、 その周りを囲って簡単なトイレを作った。
紙 がなかったので、親戚の伯父からいただいたキング等の雑誌をトイレットペーパー代 わりした。手で紙をよくもんで使うのですが、
ごわごわしてお尻を拭くのに苦労した。
昭和21年の秋ごろまで、 バラック小屋で生活していたが、夏の暑さと蠅の大群、冬の大雪の日の寒さで、 大変辛い思いした。
3. 私の願い
▼8月15日の青空の日。 町内で一軒焼け残った町内会長さんの家の前に集まり、玉音放送を聞いたが、雑音で意味がわからず、
ただ戦争が終わったことだけはわかった。
それまで軍国少女を夢見て「いつ死んでも悔いはない」 と言っていたのが、嘘のよ うに思えた。
▼今振り返ってみて、何もない日本が、よくぞここまで発展してきたもの だと感心致している。私たちの年代は後残り少なくなってきたが、
今の若い子どもたちには、こんな苦しみをさせてはならない。
▼私の平和を願う一句。
「忘れまじ 飢餓と戦い焼け野原」
先日訪問した折、外部での公開のお許しを頂きましたのでテキスト化しました。
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1. 命からがら逃げた空襲の日
▼70年前の7月28日は、 一宮市内が空襲を受けて焼け野原になった。
前日の27日、映画「花の講道館」を見に行ったが、 警報が出たため、 翌28日に 見に行った。
午後6時か7時頃に警戒警報が入ったので、
家でのんびりと本を 読んでいたところ、二度目(8時頃)の警報のサイレンが突然鳴ったかと思うと同時に焼夷弾の落ちる音と、
裏庭の方に火柱が見えたとたん、母と姉と私の三人は、電気 の明かりはそのままにして、 大あわてでお勝手道具を紐にぶら下げて、
掘り抜き井戸 に入れたり、商売道具の秤は表の用水路へ入れたりした。
▼その他のものは防空壕に入 れて、蓋をして土をかぶせたが、 あわてていたため、 しっかりと土をかぶせないまま
逃げてしまった。
貴重品だけはリヤカーに積み込み、その上に布団をかぶせて、 私一 人でリヤカーを引いて一目散に逃げた。
私は、 あまりも突然のことだったので、
大急 ぎでモンペを三枚重ねばきしたものの一枚は片足をはずしたまま逃げていた。
▼逃げる前方に火の手が上がり往く手を阻まれ、リヤカーを引くどころではなかった。
東海道線の踏切のところでうろうろしていると、近くの用水路の土管にいた人から、 「早くこっちに来い」 と叫ぶ声がした。
命が危ないので土管の中に入れてもらうと、 すでに5,6人ほどの人たちがうずくまっておられた。
火災の熱風で、土管の水がだ んだん生暖かくなり、恐ろしさのあまり私たちは震えていた。
土管の外側にいた人から、「おみゃーさんのリヤカーが燃えているぞ」 と言われたけ れど、焼夷弾の火の粉が降り続くので、
外に出て消すこともできず、リヤカーと貴重 品は焼け焦げてしまった。
▼外が明るくなり、 焼夷弾も落ちて来なくなったので土管から這い出して、母と姉を 探すため、ふらふらしながら歩くと、
あちらこちらからブスブスと煙が立ち、焼夷弾 の焼け焦げた臭い油のにおい (ビニールの燃えたにおい) がたちこめ、
周りには鉄の ゴロゴロと転がっていた。
▼焼け残った立派な倉の扉を家の人が開けたとたん、 突然、 中から火を噴いて煙がも そうもうと上がったのでびっくりした。
防空壕に直撃弾が当たり一家全滅したという話 や、町内の警防団長さんが消火活動中に亡くなられたことも聞いた。
町内の人たちは 手の施しようもなく、 焼け跡に呆然と立っていた。
▼家に着くと母と姉が焼け跡に立っていた。「お母さん」 と叫んで母に飛びつきました。
私たち三人は抱き合ってワァーワアーと泣きました。
母は、私を抱きしめて 「日出子。 生きていてよかったね」 と言ってくれました。 私たち三人が無事に生きていたのが不 思議でたまりません。
▼母と姉二人は、 家に火がついたので、 消そうとしたが、火の勢いが強くなり、
手の 施しようがなくあきらめて押場通りを北の方へ逃げたと、話してくれた。
翌日、私は、焼け焦げた大黒柱や、くすぶっている2、3本の柱に水をかけながら 裏にあった小屋の防空壕を見に行った時、
誤ってくすぶっていた灰の中に足を突っ込 んでしまい、踵が火傷して水ぶくれになってしまった。 しばらく治らず、痛かった。
2.辛かったバラック小屋の生活
▼三河の方へ松の根ほりに出かけていた在郷軍人だった父が、 空襲後の2,3日過ぎたころに帰って来た。
家族4人無事であったことが何よりの喜びだった。
さっそく、4人でバッラク小屋作り。 家の裏の丹菊工場が、 知らぬ間に軍需部品置き場に変わり、
鉄棒・鉄板 ジュラルミン板・銅板等が山積みになっていた。
近所の人 たちとこっそりと鉄棒や鉄板をいただいて小屋の建築材料の一部に使った。
▼半分に割れた瓦を泥土で積み上げて、 寒さ除けの囲いを作り、 黒焦げになった柱で バラック小屋を作った。
鉄板の上にムシロを敷き詰め四畳ぐらいの小屋が、
私たち家族4人の仮住まいになった。
幸い、井戸の中に鍋や、やかんなどを入れて置いたお蔭で、食事を作るのに助かった。
薪を燃やすために、マッチが手に入りにくかったので、「つけ木」 (うす板に硫黄をちょっとつけたもの)を使った。
明りは灯芯にクジラ油をつけて火を灯もしたが、 油煙や、嫌な臭いが部屋中に立ち込めて大変だった。
▼トイレは小便器用の甕があったので、 その周りを囲って簡単なトイレを作った。
紙 がなかったので、親戚の伯父からいただいたキング等の雑誌をトイレットペーパー代 わりした。手で紙をよくもんで使うのですが、
ごわごわしてお尻を拭くのに苦労した。
昭和21年の秋ごろまで、 バラック小屋で生活していたが、夏の暑さと蠅の大群、冬の大雪の日の寒さで、 大変辛い思いした。
3. 私の願い
▼8月15日の青空の日。 町内で一軒焼け残った町内会長さんの家の前に集まり、玉音放送を聞いたが、雑音で意味がわからず、
ただ戦争が終わったことだけはわかった。
それまで軍国少女を夢見て「いつ死んでも悔いはない」 と言っていたのが、嘘のよ うに思えた。
▼今振り返ってみて、何もない日本が、よくぞここまで発展してきたもの だと感心致している。私たちの年代は後残り少なくなってきたが、
今の若い子どもたちには、こんな苦しみをさせてはならない。
▼私の平和を願う一句。
「忘れまじ 飢餓と戦い焼け野原」