私の8月15日
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- 私の8月15日 (KANCHAN, 2004/7/7 19:05)
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投稿日時 2004/7/7 19:05
KANCHAN
投稿数: 2
八月十五日
その頃私の一家は、東京から疎開《そかい》のような形で、群馬県桐生市の祖父の家に、やっかいになっていました。私は国民学校二年生、父は内地でしたが、兵隊に行っていました。
1945年8月15日、私達と近くに住む親類達みんな、祖父の家のラジオの前に集められて、玉音放送を聞きました。子供の私には放送は何を言っているのかまったく分かりませんでしたが、大人達から日本が戦争に負けたのだと知らされました。他の大人達の反応はよく覚えていないのですが、母はアメリカがやって来たら、皆でどうやって逃げようかとひどく心配していました。私はこの頃、栄養のバランスがよくなかったのか、足中におできが出来て、包帯をゲートル《脚部に巻きつけて覆う服装品》のようにぐるぐる巻きにしていました。こんな状態で逃げるのは大変だと、とても心細く思ったのを覚えています。
親類の中に祖父の弟、つまり私の大叔父《おおおじ》がいて、放送を聞いた後、どこかへ行って、大酒を飲んで酔っ払い、日頃折り合いの悪かった近所の人に「おまえみたいなのがいたから、負けたんだ」と大変な剣幕でくってかかりました。止めようとして中に入った人達と、取っ組み合いが始まりました。大叔父は早稲田《わせだ》を出たインテリでしたが、この時の破滅的な気持ちは分かるような気がします。
桐生市は、幸いなことに、空襲を受けていませんでした。前橋や高崎、伊勢崎等、近隣の市が、みんなやられていて、大人達は、今度は桐生だろうと言っていました。これまで何度か空襲警報が鳴り、頭上を艦載機の大編隊が轟音《ごうおん》を立てて飛んで行き、中島飛行機のある太田市の方角で旋回《せんかい=ぐるぐる回る》しているのが見えたのですが、桐生には、まぐれの爆弾が一発落とされただけでした。この時、人が一人死んだと言う噂《うわさ》でした。
私の戦争体験は、それほど辛いものではありませんでしたが、また暑い8月が巡って来て、テレビで広島や長崎の平和への祈りの場面を見ると、厳粛な気持ちになります。
その頃私の一家は、東京から疎開《そかい》のような形で、群馬県桐生市の祖父の家に、やっかいになっていました。私は国民学校二年生、父は内地でしたが、兵隊に行っていました。
1945年8月15日、私達と近くに住む親類達みんな、祖父の家のラジオの前に集められて、玉音放送を聞きました。子供の私には放送は何を言っているのかまったく分かりませんでしたが、大人達から日本が戦争に負けたのだと知らされました。他の大人達の反応はよく覚えていないのですが、母はアメリカがやって来たら、皆でどうやって逃げようかとひどく心配していました。私はこの頃、栄養のバランスがよくなかったのか、足中におできが出来て、包帯をゲートル《脚部に巻きつけて覆う服装品》のようにぐるぐる巻きにしていました。こんな状態で逃げるのは大変だと、とても心細く思ったのを覚えています。
親類の中に祖父の弟、つまり私の大叔父《おおおじ》がいて、放送を聞いた後、どこかへ行って、大酒を飲んで酔っ払い、日頃折り合いの悪かった近所の人に「おまえみたいなのがいたから、負けたんだ」と大変な剣幕でくってかかりました。止めようとして中に入った人達と、取っ組み合いが始まりました。大叔父は早稲田《わせだ》を出たインテリでしたが、この時の破滅的な気持ちは分かるような気がします。
桐生市は、幸いなことに、空襲を受けていませんでした。前橋や高崎、伊勢崎等、近隣の市が、みんなやられていて、大人達は、今度は桐生だろうと言っていました。これまで何度か空襲警報が鳴り、頭上を艦載機の大編隊が轟音《ごうおん》を立てて飛んで行き、中島飛行機のある太田市の方角で旋回《せんかい=ぐるぐる回る》しているのが見えたのですが、桐生には、まぐれの爆弾が一発落とされただけでした。この時、人が一人死んだと言う噂《うわさ》でした。
私の戦争体験は、それほど辛いものではありませんでしたが、また暑い8月が巡って来て、テレビで広島や長崎の平和への祈りの場面を見ると、厳粛な気持ちになります。