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博多で空襲に遭った話

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/9/13 21:52
不虻  新米   投稿数: 20

 昭和19年8月19日、1100東京駅発鹿児島行きの急行で九州へ出張しました。何のための出張か、ハッキリ覚えて居ませんが、多分当時、博多の郊外、雑餉隈(ザッショノクマ)に「九州飛行機株式会社」という木製飛行機製造会社があり、そこに私が勤めていた久里浜の海軍工作学校から大勢の技能兵を指導員として派遣していたので、その人達の給料を持参し、かつ、勤務状況など見てくるよう命ぜられたのだと思います。

 昭和19年と言えば戦況、日に日に悪化し、遂に本格的本土空襲も始まった年です。昭和17年のドゥリイトル空襲を別にすれば、19年の6月16日、中国成都を発進したB29、63機に北九州(八幡、若松)を空襲されたのが本土空襲の初めでした。その後北九州への空襲は11月頃まで続きますが、その頃までは敵も爆撃目標を軍需《=軍事上必要な工場など》限定していましたから一般市民は楽と言えば楽でした。今回はそんな状況と当時の運輸状況などについてお話したいと思います。

★当時の列車事情

京都まで9時間、やっと2000京都着。大阪から列車は混んできて次第に遅れだし、岡山までで約1時間の遅れとなりました。真夜中の岡山駅の印象は強く残っています。と言うのは、プラットフォームに、恐らくは疎開《そかい=空襲を逃れるため都会から田舎へ住居を移す》する人達であろうか、至る処に新聞紙など敷いて老若男女、それこそ大人も子供もごろごろ寝ていた情景が目に焼き付いているからです。今で言えば時々新聞などで目にする、戦禍に追われた外国の難民風景そっくり。それはあまりにも悲惨な情景として目に写ったのでした。

 もうとっくに夜が明けていて、岩国を出ると長いトンネルがありました。日本の幹線である山陽線の列車がそのトンネルを通過出来ないのです。これには少々驚きまた腹が立ちました。

 相当の勾配《こうばい=傾斜》ではあったが、トンネルの中程まで行くと、機関車が幾ら焦っても喚いても列車は動けなくなってしまう。窓の隙間から煤煙《ばいえん》が入るので、窓は閉め切りで暑い。機関車は空回りを続けていたが、遂に敗退。大急ぎでトンネルの外まで後退する。
一息ついて元気を取り戻すと、また、スピードをつけて今度こそ一気に通過すべくトンネルに驀進《ばくしん》する。乗客達は心を緊張させ、今度は上手《うま》くやってくれと祈るような気持ちになる。しかし矢張りトンネルの中央まで行くと、再び敗退を余儀なくされ、ほうほうの体でトンネルの外まで退却する。
 
 ………やっと機関車がもう一台応援に来てトンネルを通過するまで、急行列車が1時間半というもの空費させられたのでした。沿線の田畑で働いていた農夫が吃驚《びっくり》して見ていました。すでに日は高く昇り1030,本来ならもう博多に着いている時間でした。
【後になって解ったことでしたが、本来山陽線は岩国から海岸に沿って柳井、光、下松を通って徳山へ出ます。ここにはトンネルはありません。あの時には何かの都合で岩徳線を通り、欽《きん》明路トンネルを通過したのだと思います。】

 

★空襲警報下の博多

東京を出てから約30時間弱。8月20日の1620頃、定刻より5時間遅れて博多に着きました。
 
 兎も角《ともかく》身体が汗と煤煙《ばいえん》にまみれているので宿をとることとして、駅前通りをブラブラ歩き、「緑屋」という旅館に入り、早速風呂につかり、さっぱりして下着、洋服を着替えて、目的の九州飛行機株式会社に電話しようとしていると、階下の帳場の方から警防団員の声が聞こえてきました。私の部屋は3階なのでハッキリは聞き取れなかったが、要旨は「空襲警報下だから絶対に火を使ってはならぬ。宿泊人もすべて防空服装をしているように」と言うことでした。

女中さんがコトコトと階段をあがってきて
 「お客さん、防空服装していて下さいよ」 と、にやにや笑いながらちょっとアクセントの違う北九州弁で言う。
「今日は防空演習かね?流石《さすが》に九州だね」
 「いいえ!演習じゃありません。本物ですよ」
 「本物? ふーん、で、警戒警報はいつ頃出たの?汽車の中では別に何も言ってなかったけど………」
 「いーえ!警戒警報じゃありません。空襲警報ですよ。もう30分ほど前に発令されたんですよ」

 これには又驚きました。私は空襲警報発令中の駅で降り、町をブラブラ歩いて宿に着き、悠々と風呂に入り、茶を飲んで煙草《たばこ》を吸っていた訳です。改めて町を見下ろすと成る程、所々に鉄兜《てつかぶと》を背にし、メガホンを持った警防団員が時々通行人や市電、バスを待っている行列に何か注意しているようでした。

 女中さんがまだそこを立ち去らないうちに急に通りが騒がしくなり「総員退避!」と言う声が聞こえてきました。急いで下の玄関へ行き靴《くつ》を履《は》いて、他の宿泊人数人と一緒に宿の地下室に入りました。表の方でこの宿の娘さんが甲斐甲斐《かいがい》しく動いているのがチラッと見えました。彼女は時々退避所まで来て表の情勢を報告していくのです。
 「敵機が博多へ入ったそうです。何だか、駅の方で人が騒いでいるわ」
さすがにオロオロした声で報告するのですが、そのオロオロ声に女らしさが感じられて、なんとも言えない風情がありました。
《はる》か彼方《かなた》でボンボンと鈍い高射砲の音が2,3発聞こえてきました。敵機が煙を噴いて落ちていくとの報告も来ました。

 退避してからどの位時間が経ったのか、1800頃やっと「退避、元へ」になりました。私は九州飛行機へ電話して会社の寮へ行くことにし、鞄《かばん》を抱えて宿を出て、駅前で市電を待っていました。

 夏の夕暮れ時。青く、白っぽい空、その中で雲が茜《あかね》色に染まろうとしていました。
 駅前は相変わらず群衆に満ちていました。

 東の空に、突然3機編隊の飛行機が見えました。敵機か?人々の目がみんなその3機に集まりました。ボンボンボンと高射砲の音が響き出す。矢張り敵機だ。矢張り敵機だ。総員退避。そして近くの壕に入ったまま敵機を見上げました。高度約5千米。
2機は近く、1機はやや遅れて東から北へ飛んでいく。悠々たる姿である。「戦闘機が1機でも追跡していたら」と言うのが誰の胸の中にも湧き上がった口惜しさでした。
「本土にやってきた敵をあんなに悠々と帰して良いのか?」と言うのがみんなの胸を焼け爛《ただ》れさせた憤怒でした。
 
 敵機は3羽の大鵬《たいほう=一飛び9万里という想像上のおおとり》の如く、北へ、北へと飛び続けてついに夕暮れの大空に姿を没しました。
  【後記】
 戦後の資料によると、四川省成都を発進したB-29約100機がこの日から翌21日未明にかけて八幡製鉄、倉幡地区、佐世保、長崎、大村を爆撃したものでした。この頃は敵の攻撃目標が軍事施設、軍需工場に限定されていて、一般民家への無差別攻撃は行われていませんでした。無差別、焼夷弾爆撃の可否は当時、米国内でもいろいろ議論されたようですが、結局マリアナを発進基地とする11月24日の東京爆撃から実施するようになり、それ以後は御承知の通り、一般市民も悲惨な状況となりました。
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