父の軍隊日記
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- 父の軍隊日記 (sho7, 2004/9/26 12:01)
- Re: 父の軍隊日記(続き:その1) (sho7, 2004/9/28 21:02)
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投稿日時 2004/9/26 12:01
sho7
居住地: 福岡市博多区
投稿数: 8
SHO7です。
父は昭和12年《1937年》盧溝橋《ろこうきょう》事件の直後、久留米戦車第一連隊に召集され、中国大陸を転戦しました。
当時29歳、既に二人の子供がいました。
私はまだ生まれていませんでした。
父の死後、この日記を母、姉兄から譲り《ゆずり》受け保管していました。
いつかは出版しなければとも考えていましたが、6年程前ネット時代がやってきて、
そうだ、これで公開しようと思い立ち、HP作成に取り組んだのです。
このHPには留守家族の画像や、本人の画像もいれています。
詳しくはそちらを見て頂ければと思います。
戦争の是非《ぜひ》よりも、その時代を生きた事実がそこにあると思っています。
父の死後、数年経って同じ年になったとき、色々考え
させられたものです。
二人の子供を残して、久留米《くるめ=福岡県筑後川下流にある市》から列車に乗り、途中の
博多駅で家族やご近所の方の見送りを受け、1年後帰ってくるまでの記録です。
残念ながら、昭和13年1月から4月までが切り取られています。
例の「南京○○大事件」と無縁《むえん》とは思われません。
*****お知らせが2つ******
1)当初のアップではここで、HPのURLを記述していましたが、
都合により、記述をやめています。
2)アバダーの写真は50年前の「博多祇園山笠」《はかたぎおんやまがさ》です。
冗談がきついようですが、ご容赦を・・・・(*^_^*)
父は昭和12年《1937年》盧溝橋《ろこうきょう》事件の直後、久留米戦車第一連隊に召集され、中国大陸を転戦しました。
当時29歳、既に二人の子供がいました。
私はまだ生まれていませんでした。
父の死後、この日記を母、姉兄から譲り《ゆずり》受け保管していました。
いつかは出版しなければとも考えていましたが、6年程前ネット時代がやってきて、
そうだ、これで公開しようと思い立ち、HP作成に取り組んだのです。
このHPには留守家族の画像や、本人の画像もいれています。
詳しくはそちらを見て頂ければと思います。
戦争の是非《ぜひ》よりも、その時代を生きた事実がそこにあると思っています。
父の死後、数年経って同じ年になったとき、色々考え
させられたものです。
二人の子供を残して、久留米《くるめ=福岡県筑後川下流にある市》から列車に乗り、途中の
博多駅で家族やご近所の方の見送りを受け、1年後帰ってくるまでの記録です。
残念ながら、昭和13年1月から4月までが切り取られています。
例の「南京○○大事件」と無縁《むえん》とは思われません。
*****お知らせが2つ******
1)当初のアップではここで、HPのURLを記述していましたが、
都合により、記述をやめています。
2)アバダーの写真は50年前の「博多祇園山笠」《はかたぎおんやまがさ》です。
冗談がきついようですが、ご容赦を・・・・(*^_^*)
--
sho7@hakata
sho7
居住地: 福岡市博多区
投稿数: 8
軍隊日記の画像をアップしました。
昭和12年7月30日召集《しょうしゅう=必要に際して呼び集めること》され、中国大陸へ向かう途中
故郷である博多駅で歓呼《かんこ》の声に送られて・・・・
残る病児二人を如何にせん・・・・
最初の1週間は見開き1頁ですが、その後は1日1頁の
ペースで記述してあります。
画像は、冒頭の数日間と翌年(昭和13年)5月3日の
ものです。
全文をテキスト化しHPで公開しています。
昭和12年7月30日召集《しょうしゅう=必要に際して呼び集めること》され、中国大陸へ向かう途中
故郷である博多駅で歓呼《かんこ》の声に送られて・・・・
残る病児二人を如何にせん・・・・
最初の1週間は見開き1頁ですが、その後は1日1頁の
ペースで記述してあります。
画像は、冒頭の数日間と翌年(昭和13年)5月3日の
ものです。
全文をテキスト化しHPで公開しています。
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sho7@hakata