食糧難時代 (2) (琴石山に)
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- 食糧難時代 (2) (琴石山に) (編集者, 2007/4/1 8:26)
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投稿日時 2007/4/1 8:26
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに メロウ伝承館スタッフより
インターネットが一般家庭にまで普及したのは20世紀末で、それ以前は、パソコン通信による交流が行われており、このメロウ倶楽部の出身母体もニフティーサーブの運営していたパソコン通信「ニフティーサーブ」の高齢者向けフォーラムの「メロウフォーラム」です。
この投稿は、その当時、パソコン通信上に掲載されたもので、投稿者のご了承を得て転載させていただいているものです。
当時、「メロウフォーラム」では、テーマを設けて「臨時会議室」を開設し共通のテーマで戦中・戦後の記憶などを語り合ったもので、この投稿も、その臨時会議室の一つである「食糧難時代」の一部分です。
・タイトル脇の数字は、投稿日時を示しています。
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こんな珍味を食べました 97/07/10 17:51
50年前、昭和22年、中学校卒業後進学した師範学校(各県にあり授業料無料、奨学金給付、敗戦までは全寮制、就職保証(在学年数の2倍の勤務義務)で現教育大の前身。当時は地元の高校入試に失敗して入学した者が多くいました)の寄宿舎生活の頃です。
破砕玉蜀黍や脱脂大豆の方が多いようなご飯で、小林多喜二を彷彿とさせる型飯、汁は虫喰いなっぱの塩汁で、珍しく今日は実が入っているなと喜んだら箸に青虫がかかったり。下痢する者が多かったようですが、私には幸いして頑固な便秘が解消しました。
玉蜀黍、大豆、芋ならまだましでした。
突如、砂糖を主食に換算して配給してきたときは、学校当局は参ったらしい。
三度々々、食堂で砂糖湯の給食をする訳にも行かず、一週間分のカロリー相当の砂糖を持たされ、砂糖休暇という名目で、一学期に2回も臨時に帰省させられました。
ある日、友達を訪ねて高校の寄宿舎に行ったとき、大きな袋に一杯、蚕の蛹の燻製を貰いました。
彼がつまんでむしゃむしゃ食べるのを見ても、茶色の、虫の形をとどめていて、見るからに気持ちが悪く、なかなか手が出ませんでした。
空腹の時代だから勇気が出たのでしょうが、思い切って口にほうり込んで噛んだところ、案外美味しく香ばしい。
これはいけると自分の寄宿舎に持ち帰り栄養補給の足しにしました。
ルームメイトに勧めたのですが、誰も後すざりして、食べようとしません。
机の上に放置しても盗まれる恐れはありませんでした。
ある日、口を半分開けて昼寝していた男の口の中に2ー3匹落とし込んだところ、眠ったままムシャムシャ食べ、にっこりと笑っていましたから、夢の世界では豪華な食事にありついていたのでしょう。
何日か後、銭湯に行ったところ、皮膚の水切れがよく、湯玉の形成から栄養が身についたことがはっきりとわかりました。
その後、監督の目を盗んで、女工が蚕の幼虫を口にほうり込んで栄養の足しにしていたという話を読んだことがあります。
農家の倅は警官の目を盗んで自宅から白米を運び、土間で飯盒すいさんをして補食していて、自宅通学者や農家がうらやましい三年間でした。
難民と食糧、”山口の芋茶粥” 97/08/27 21:45
こんばんは 久しぶりです。
芋茶粥のお話で、55年前までの、故郷と祖父母を懐かしく思い出しました。
帰省すると、朝食は茶粥、昼食は白飯、夕食は茶粥の繰り返しでした。
鉄釜で焙じ茶を沸かし、とぎ立ての米をほうり込みます。
食べごろは、お茶の中に、米粒がふやけず泳いでいて、弾力が残っている時までです。
水田の割に人口の多かったこの島での旧藩時代主食の二本柱は米と藷でした。
耕して天に至る瀬戸内の島の一つで、嘉納山の麓から海抜600m近くまで耕したのは昔からこの島の人口の多さと住民の勤勉さを物語っています。
この島を有名にしている温州蜜柑は、明治以降、先駆者の指導で藷畠から転換したものですが、それより以前、この島に甘藷を導入した人こそ偉大だったと思います。藷のおかげで、人口が増大に転じたそうですから。
茶粥を常食し、朝昼晩の食事パターンが周防大島と同じだったのが奈良県で、ここの出身の妻の話によると、炊事の仕方も全く同じだったようです。
奈良公園の中に、茶粥定食を供する店があるようですが、私は祖母の味を思い出に取って置きたく、その上高いので、暖簾をくぐるつもりはありません。
藷倉は母の実家にありました。
甘藷と馬鈴薯は保存条件が違い、甘藷は風邪を引かせないように、深い穴蔵には籾殻を詰めその中に藷を潜らせていました。
敗戦後、朝鮮から伯父の家族が引き揚げて来ましたが、現金は千円まで、荷物は持てるだけ。
オーバー分は乗船時の検査で米軍に没収されたそうです。
故郷に到着して、荷物を下ろして解いて整理したときが見物でした。
智恵較べは、伯父達の圧勝でした。
大豆滓飯と牛缶と97/08/29 21:52
昭和19年4月3年生に進級したのは束の間、授業は2週間で終わり、愛国的学校の切望とかで、2年生以上は軍生徒(陸士、海兵、陸幼へ進学を希望し、学校が可とした者)を除き、勤労奉仕に出されました。
派遣先は岩国海軍航空隊基地で掩体壕(航空機を一機づつ隠す堤の一種)を建設するためでした。
バラックの飯場に起居し、発破(ダイナマイト、起爆薬の管理以外は装顛点火も中学生がやっていました)で山を崩し、スコップでトロッコに積み、運転し、おろし、壕を築く毎日でした。
主食は大豆滓と米が半々の粗末なものでした。炊事場を覗くと土 間に円盤状の圧縮大豆滓と鶴嘴が置いてあるのが見えげっそりしました。交替で炊事当番を務めましたが、炊事場から食堂まで食事を運び、食卓上の各人のメンコに分配するのです。
この時、ささやかながら役得やらレジスタンスを行いました。
自分のところには少なく見えるようにぎっしり詰め、こん畜生(先生を含む)と思うところには多く見えても箸を立てると落盤したり、時にはフケ飯を提供したりしました。
ある日、関釜連絡船で帰国した友人が、超満員の船中で尿意を催し、倉庫の中にあった輸送中の豆滓にかけたところよく吸収されるので次々に乗客が利用していたと体験を話しているのを聞き、以後大豆滓は喉を通らなくなりました。
敗戦後暫くしてから、食料事情がまだ悪く、統制の厳しかった頃です。
ラベルのない牛缶(牛肉の佃煮で2リットル位の大きさ)が闇でこっそりと流れていました。
これはもと軍用で、戦艦陸奥に積み込まれていたものでした。
艦体引き揚げの入札以前のこと、こっそりと何処の業者か知らないが潜水夫を入れて破損口から運び出し闇のルートで販売していたようです。あの時代だからこそ商売になったし、私に取って貴重な栄養源でした。
この軍艦については、吉村 昭氏の「陸奥爆沈」をお読みの方は多いと思いますが、昭和18年、当時中学2年生だった私の耳に爆発音は届いていた筈ですが、事実を知ったのが敗戦後なのです。
事故の2カ月後に、至近の距離にある親戚を訪ねたときにも何の気配も感じませんでしたし、郡内に同級生が多数いて、友達に陸奥の沖原航海長の甥がいましたが、彼すら叔父が事故に遭い生還したのを敗戦後復員してから知ったほど憲兵の恫喝と情報管理が徹底していました。
甲板上にいて弾き飛ばされながらも助かった沖原大佐も他の生存者と共に長期間隔離されていたそうです。同様なことが、堀 栄三氏の大本営参謀の情報戦記に外地での戦傷者を内地に帰さずフィリピンに止めていたと書いてありました。
平穏な瀬戸内海の、明治43年 6号潜水艇 沈没、大正7年 戦艦河内 爆沈を知る人は少ないでしょう。