敗戦前後の私史(当時の世相中心) 白兎山人
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- 敗戦前後の私史(当時の世相中心) 白兎山人 (編集者, 2009/6/27 20:35)
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投稿日時 2009/6/27 20:35
編集者
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1.出生の地で
父母が結婚したのは昭和13年のこと、すぐに子供が出来て昭和14年に長男として生れたのが私である。父の生家に近い、当時の八幡市の竹下町というところで借家住まい。父は国鉄の職員で、小倉工機部に勤めていた。
私が3歳のころから ぼつぼつ覚えていることを記して見る。
その3歳のころ、家の前の道路で兵隊が大勢来て、道の端に溝を掘っていた。家から道路に出るには、その溝に渡してある板を渡るのだが、なんだか怖かった記憶がある。随分広く深い溝のように思ったが、今思えば多分 幅・深さとも 50cmくらいだったろう。
昼間 二つ年下の弟が乳母車に乗せられて屋外に置いてあると、休憩のときに兵隊たちが寄って来ては「おとなしい、可愛い子だ」と言いながら、抱き上げてほほずりしていたと言う。(これは母から聞いた話)。遠地から来ていた兵隊たちが故郷の子供を思い出していたのだろう。
2.広島へ転勤
間もなく父は広島の矢賀工機部に転勤になり、家族全員矢賀に移り住んだ。多分私が4歳のころで、この前後に三弟が生れている。今思えばすでに物資・食糧は欠乏していて、私は栄養不良でひどい下痢、矢賀の新居(借家)に着いた夜も水のような下痢がとまらず、やたらに下着が汚れて難儀だったが、母親も難儀だったろう。
借家の向い側には大家の屋敷があり、裏に山がせまっていて、裏庭の奥は岩壁になっていた。その岩壁に大家が毎日鑿を当てて防空壕を掘っていた。記憶に残っているイメージは一尺ほど堀進んだ状態と、後にその中に避難した状況。岩は黄色っぽい砂岩でキラキラ光る砂粒が混じっていた。
夜、辺りにサイレンが鳴り渡り、メガホンを持った人が「空襲警報発令!空襲警報発令!」と怒鳴って回る。電灯の笠に下がっている黒い蛇腹の筒を引き下げて光が外に漏れないようにし、大家宅の防空壕に急ぐ。壕の入り口には厚い木製の扉があり扉の上には小さな覗き窓が作ってあって、大家の主人が外の様子を時々窺っていた。やがて外が静かになり、「空襲警報解除!空襲警報解除!」と触れ回る声を聞いて、ぞろぞろと外へ出た。大家・店子の家族合わせて10人くらい隠れていたのか・・・。
真鍮の筒のようなものを拾ったことがあるが、多分機銃の薬莢だったのであろう。
父は小学校しか出ていないが、就職後勉強・受験して手職から掛職(軍隊で言えば兵隊から下士官)になり判任官となって、鉄道学校で後進を指導していたらしい。かなり後まで教科書が残っていたが、いつの間にか紛失、惜しいことをした。蒸気機関車や電気機関車の詳しい図面や説明書があったのだ。
その後進の中で若い朝鮮人を一人、我が家に寄宿させていた。あるとき母親がその若者が家に帰って来たとき「正楽さん!いい人が来ているよ!」。許嫁とその母親が訪ねて来ていたのだ。許嫁のことは覚えていないが、その母親は白い民族服(チマ・チョゴリ)を着ていた。何日か滞在したらしく、その二人に連れられて広島の町に遊びに出た記憶がある。神社か公園で帽子を振り回しながら、鳩を追っかけまわしていたもんだ。金原正楽さん、今で言う北朝鮮出身だったらしいが、生きていれば90代半ば過ぎ、果たして・・・。
矢賀は小さな田舎町で道路に面して両側に一列ずつ家が並び、我が家の裏は田んぼで、向いには線路と左手に工機部、かなり右手のほうにガラス張りの工場があってビール会社だった。
夕陽がそのガラスに照り映える中、時々広島方面から工機部に向けてSLが六重連などでしずしずと。今 鉄キチが願っても無い光景を日常的に楽しんでいた。
3.疎開生活
戦況がきびしくなったせいと思うが、母と子供たちは岩国の奥、錦川の上流の南桑(なぐわ)と言うところに疎開した。母の末の妹の嫁ぎ先で、どう言う事情か聞いていないが、母の母親もそこに身を寄せていた。錦川の左岸に車の行き交う道があり、道沿いの山側に一列に家が並び、後ろにはすぐ山がせまっていた。小さな支流が左岸に流れ込んでいて、叔母の家はその上流側の角にあった。
その支流の上流には松根油を採る工場があり、ドラム缶を積んだトラックが出入りしていた。航空機燃料に松根油を使ったなどと言う話は、もちろん成人後に知ったことである。ある日屋外でウィンウィンと変な音がしたと思ったら、叔母が「あっ!トラックが落ちた!」なぜ判ったのだろう?。 支流の幅は丁度トラックの幅、両岸は石垣で、そこへ完全に逆様に落ち込んでドアも開かず、運転手はかなりの時間をかけてエンジンルームの隙間から救出された。トラックの引き揚げには数日かかったように思う。支流の普段の水深は30cmくらいで、石垣の階段を降りて祖母がよく洗濯をしていた。
一年くらい居たと思うが、その間に二度洪水に遭って、二度とも一階の軒下まで水に浸かった。多分戦時の伐採で山は荒れていたのだろう。情報は早かったのか二度とも畳や主要な家具は全部二階に上げていた。叔母の嫁ぎ先はちょっとした旧家で使用人が手伝いに来たようである。洪水は夕刻から始まって深夜にかけて増水し、上流から流れて来る材木が家の壁や柱にドシンドシンとぶつかって怖かった。夜が明けても水はなかなか引かず、三分の二以上水に浸かった二階への階段の水面に向けて小便をした。二回目の洪水のとき二階の窓から眺めていたら、前庭の鶏小屋が浮き上がり、鶏の騒ぐ声を乗せたままゆっくり錦川の本流に出て行き、ちょっと下流で山が流れに突き出しているところで、渦に乗って二三回まわった後、視界から消えた。叔母や母たちは為す術もなく「あ~あ」と溜息ばかり。
錦川のこちら岸の近くでの水深は1mくらい、そこに海苔かなにかのガラス製容器を沈めて魚を採っていた。20リットルくらいの大きさの広口瓶で、中に少しヌカを入れ、小さな穴を開けた布で蓋をして、水中に沈めて置くのである。朝浸けて夕方引き揚げると小魚がたくさん入っていた。ハヤの類であろうが貴重な蛋白源になったようである。
向う岸では線路工事が行われているのが見えた。後年知ったことであるが、岩国から山口線の日原を結ぶ岩日線となるハズで、敗戦後も工事は再開されたが結局日原までは開通せず錦町まで止まりとなり、現在は第三セクターの錦川清流線となっている。
現在でも蛍の名所になっているらしいが、話に聞くと昔ほどではないようだ。疎開していたころ、夜ともなれば川面に、蛍が数百匹から数千匹群れ集まったカタマリが出現し、そのようなカタマリが五つも六つも出来て、流れに映った状景はそれはそれは綺麗であった。カジカの鳴き声もよく聞いた。昼には裏山でよくキジが鳴いた。
南桑はかなり山奥で、バス(多分岩国から出る)が交通手段であった。もちろんボンネット・バスで それも薪・木炭バスである。バス車内の後ろ三分の一の空間は、小さく切られた薪が占領していた。力が弱かったらしく、峠の登りでは男の乗客は降りてバスを押していた。初めて南桑に入った日、母や私たち兄弟三人はそんな時もポツンとバスの中に乗っていた。このバスと前述の松根油トラック以外はほとんど車を見かけなかった。
洪水によるがけ崩れで道路が不通になったとき、父は岩国から昼夜歩き通して南桑に様子を見にやって来たようである。休暇の時には、裏山の清水を家まで引き込むパイプを、青竹をつないで作ったりしていた。
ある日、上空を多数のB29が通過した。まさに空を埋めるような感じであった。祖母が従妹を抱いたまま前庭で空を見上げていると、叔母は怖がって従妹を抱き取って家の中に逃げ込んだ。とっぷり日が暮れてからの下流のほうの空は賑やかだった。探照灯の光の筋が何本も上空に向けて動き回っていた。何故分かるのか、近所の人達がそれを見ながら、徳山が空襲されている、と言っていた。
昭和23年徳山博覧会があって、父に連れられて行ったが、会場は破壊され土に埋もれた線路の広がる空き地で、激しい空襲のあとが感じられる雰囲気であった。
敗戦前後に関しての世相に関する記憶はなんにも無い。
多分昭和20年の秋から年末の間に、一家で北九州に帰った。今は余り見かけないが無蓋車と言う屋根の無い貨車で、熱で泡を吹いたような鉄板を積み重ねた上に、安定悪く座ってと言うか、つかまってと言うか、真に危なっかしい旅であった。岩国から小倉まで全部通してこの貨車だったかどうかは覚えがない。
当時「買出し」と言って、郡部や田舎に行って、農家を訪れては食糧を買い求めることが広く行われた。しかしこれは違法行為であって、駅で検問があって次々摘発を受けた。
その点、父など国鉄職員は駅の改札を通らず、駅構内の適当なところから出入りして摘発を逃れていたようである。しかし道中は 大変で、列車は超満員。一度どう言うわけか私も一緒に連れて行かれたが、帰りの列車でデッキの乗り降り口からはみ出して、数人ずつぶら下がった状態、その中にいる父がとても心配だったことがある。私とて客室には入れずデッキではあったが、子供なので皆が中のほうに押し込んでくれた。以上について、列車内の記憶以外はほとんど後年の知識である。
4.北九州で
八幡に帰ってからは、父は元の小倉工機部勤め、住まいは父の生家の敷地内の小屋のような二間の家であった。今は町名が昭和となっているが、当時は荒生田(あろうだ)町であった。(小学服に縫い付けた名札には住所の町名と氏名が書いてあって「あらふだ町」となっていた)父母に南桑で生れた四弟を含めて四人兄弟の六人が六畳と四畳半の家で暮らした。
昭和21年高見国民学校入学、教師は女性で乳児を教室に連れて来ていた。ほどなく給食が始まり、ララ物資とかで粉乳を使ったミルクが出されたが、焦げ臭いものであった。しかし空腹の口には何でも入った、時にはマカロニが出たこともあるが、これは美味かった。鉄兜のような形の厚手のアルマイトの椀(支給品?)を使っていたが、夏休みにはこの椀に山盛りに粉乳が配布された。二つ年下の弟は早生まれなので、22年に国民学校に入学、給食のミルクを大事にかかえて家に持ち帰り、二つ年下の三弟に匙で口に運んでやって「美味しい?」と聞きながら自分の口にも運んでいたと言う。(後年に聞いた母親の話)
桑の葉がある者は持って来るように言われ、父の実家に一株あったので摘んで持っていくと、なにやらお菓子をひとつもらった記憶がある。
同級生は全員下駄履きであったが、一人だけ洋品店の息子がいて、彼は運動靴を履いていた。あるとき抽選でゴム靴が売られ、そのうち次第に普及したが、粗悪な感じで足がムレて臭かった。
二年生のときハシカが流行し、誰が持ち込んだか分からないが、兄弟全員罹って寝込んだ。栄養不足の時期とて治りが遅く、末弟は肺浸潤まで進行してしまい、その後何年か病弱の時期を過した。パスとか言う鉛筆の芯のような形の薬が出ていたようである。
(今、ネットで調べて見ると、ストレプトマイシンやパスの登場で結核は激減することとなったらしい。)
市内の小学生が集まる絵描きの大会があって、私も高見学校の数人の参加者の一人になっていたが、このハシカのせいで参加は出来なかった。
住まいのある通りは、電車通りから二筋目で住宅街であった。西鉄の路面電車はかなりの頻度で往き来していたが、自動車を見ることは稀で、ときおりトラック、それから進駐軍のジープが走っているくらいであって、われわれ子供は道路いっぱい遊び場にして走り回っていた。
我が家のある通りから電車通りに向けてはゆるい下り坂になっていて、そこで飛行機車で遊んだりしていた。板をTの字に組み立て、(Tの交点はボルトなどで繋いで自由に動くようにする)Tの左右端と下端の下面に戸車を取り付け、縦板の後方に座り横板の左右端に両足を乗せて、足で向きを変えながら、坂を転がして降りるのである。どこで手に入れたのか、ボールベアリングを使っている者も居た。今では戸車のついた戸は珍しいので、この説明では分からない方も多いかも知れない。遊び道具は自分で作るものであった。
父母はよく子供を遊びに連れて行ってくれた。小倉にあった到津(いとうず)遊園にも何回か行ったが、これは西鉄電車の経営で、到津には電車車庫もあった。ある時遊園に行ったら森の音楽堂と言う園内の野外劇場で、子供向けの催しがあり、手品などを見せたのち、歌の指導があった。石丸と言う名前を覚えているが、多分これは作曲家の石丸寛であろうと思っている。その日の歌唱指導で歌詞とメロディーは覚えてしまったが、その後この歌を聞いた覚えがないし、今ネットで調べても見当たらない。
多分22年の憲法施行の日か、その直後のことである。
憲法記念日の歌(と言う題だったかどうか分からないが)
1. 皐月の空に 高々と
日の丸の旗 ひらめいて
今日は楽しい お祝い日
憲法記念日 嬉しいな
2. 世界の人が 手をつなぎ
仲良くしましょう いつまでも
今日は楽しい お祝い日
憲法記念日 嬉しいな
遊園は色々な遊戯施設と動物園があったが、あちこちの檻に動物の姿は殆どなく、大きな猿山の囲いの中では豚が飼われていた。多分戦時中の食糧対策の名残りであったろう。正門を入ったところに孔雀舎があり、孔雀は番いで入っていて尾羽を広げるときれいであった。
北九州北端の門司港の和布刈(めかり)公園にも連れて行ってもらった。関門海峡の九州側の地であるが、潮の流れの速い景勝地で、対岸の下関の電車が見えた。西鉄電車のチョコレート色を見慣れている目には、上が黄色下が緑に塗り分けられた下関の電車が美しく見えた。
小倉の町にでかけると、よく浮浪児の姿を目にした。髪は伸びてボロを着て薄汚れた顔や手足でたむろしていた。空き缶を持っていて食堂の残飯などをそれにもらっているらしかったが、食事の時間帯でないときはその缶を蹴って遊んでいるのを見たこともある。玉屋と言うデパートの建物は進駐軍に接収されて、ダンスホールなど兵隊たちの娯楽施設になっていた。町をジープが走ると、チョコレートやガムを目当てに子供たちが追いすがっていた。これは浮浪児だけでなく普通の子供たちもそうであった。
5.光の生活
昭和23年の夏、父の転勤で山口県光市に移り住んだ。海軍工廠の跡地に国鉄の工場が出来ていたのである、官舎は海軍の寮を改造して長屋式にしたものであった。しかし、この工場は10年足らずで閉鎖となり、跡地には八幡製鉄が工場を建てた。工場閉鎖前の昭和27年に、父は山口県下関の幡生工場に転勤となり単身赴任、土曜日の夜、家族でNHKの「とんち教室」を聞いていて、それが終るころ父が下関から帰って来ていた。28年には下関に鉄筋コンクリートのアパート式官舎が出来て家族も移り住んだ。
光での5年間は我が家の兄弟にとっては、自然豊かな環境の中で伸び伸びと過して、思い出深い時期となった。
23年からは国民学校ではなく、小学校になっていた。田舎の学校だったせいかどうか分からぬが、農繁期休暇と言うのが一週間くらいあったし、休みではなくても学校の授業時間苗代に行って、ニカメイチュウのついた稲の葉を除去する作業などがあった。
運動会では 家から裸足で学校まで走って行った、これは誰でもそうであったと思う。
この学校でも給食はあって、ご飯のこともあるしコッペパンと言う長い楕円形のパンのこともあった。まだ色々なものが配給制で、パンは一家に枚数限定で引換券が配布されていて、それをパン屋に持って行かないとパンは買えない。それでコッペパンを「券パン」と言っていた。食パンと言うものを見たのは下関に行ってからである。
正月の15日には校庭で「どんど焼き」が行われ、書初めを持ち寄って焚いていた。春の学芸会も楽しい思い出で、父兄も弁当持ちで(重箱も多かった)つめかけていた。我が家は年のつながった兄弟4人が同時に学校に居て、姓が珍しいので目立ち、兄弟誰も学芸会では、主役をつとめることが多かった。
官舎には畑があり、今から思えば一戸あたり1畝から2畝あって、皆、思い思いの野菜を作っていた。我が家は最初胡瓜を植えたが葉ばかり繁って実があまり生らない。父が誰かに訊いたら、「小便ばかりかけちょるんじゃろ、ウンコをかけんにゃぁ」と笑われたらしい。そこで汲み取り式の便所から大便を汲み出して畑にまき、次の年は立派に胡瓜が出来て、我が家だけでは食べきれないほどで、町の八百屋に持って行って物々交換などをしたこともある。
官舎の裏手の山に入ったところに農家が散在していて、よく米を買いにやらされた。一 斗入った布袋を担いで山道を越えて帰ったものである。官舎の前面は田圃が広がり、その中を山陽線が走っていた。その線路の附近にあった農家にも米や芋を買いに行ったし、乳を取るため山羊を飼っていたので、サツマイモを収穫したあとの芋ヅルを大量に貰って来て餌として与えたりしていた。何しろ薄給で食べ盛りの子供5人をかかえて父母は大変だったと思う。光に行ってすぐ生れた五番目は初めての妹だった。
山陽線と言えば、あるとき天皇がお通りになるとて官舎から大勢田圃の道に出て行った。ゆっくり走る列車の窓枠に八の字に腕をついて頭を下げていられた。母は「お辞儀したはるわ・・・」と意外そうな感じで言ったものだ。
それはそうと、当時は客車の等級が三つあって 一等車と二等車は進駐軍が使っていた。
国民は三等車しか乗れなかったのである。
朝鮮人部落があって、通っている小学校にもかなりいたし、同級生も三人くらいいた。出来のいいのも悪いのもいて、特に違和感はなく、家に遊びに行ったりもしたが、申し合わせたように、どの家でも豚を飼っていた。そう言う家のひとつに密造のドブロクを買いにやらされたこともある。時々警察の手入れがあって、隣の下松市では住民が糞尿を撒き散らして抵抗したなどと言う話も伝わって来た。家の外観は汚いが、中に入ると当時としては贅沢な電蓄などが据えてあったりした。
そう言う朝鮮人で割りに仲の良かった一人が、ある朝肩を抑えながら泣きべそをかいて登校して来た。訊くと母親に薪で殴られたとのこと。朝鮮人の母親の叱り方は激しいんだなと驚いたものである。彼は頭がよく絵も上手かった。光での朝鮮人は、宮本、吉田など日本式の姓が多かったが、下関での中学同級生は、姜・朴など 韓国式の姓が多かった。ただし読み方は カン・パク ではなく キョウ・ボク などであった。
下関の朝鮮人は多く、部落と言うより一つ、二つの町にまたがって、かたまって住んでいた。あるとき紙巻タバコを一本、道で拾ったのだが、見ると韓国文字とローマ字で、多分タバコの名前が書いてあって、文字が対応しているので韓国文字はローマ字式だなと思った。後年、李朝白磁や高麗青磁など、朝鮮の焼き物に興味を持ったことから、韓国語の勉強を始めてみると、果たして韓国文字は表音文字で、ローマ字のように子音と母音で成り立っていたのである。
広島の家で朝鮮人を寄宿させていたこと、小学校や中学校で朝鮮人の友達がいたことなどで、自然に私には違和感も偏見も生れることなく来たように思う。
下関に移り住むころから、世は特需景気となり、敗戦の翳は消えて行くこととなった。