大正の部屋  ー温故知新ー 

大正・昭和初期の実体験を 話す・語り合う・聞く・訊く
その時代の伝聞(親・親戚・知人より)を披露し合う
主役は上記時代お生まれの世代ですが、参加は老若広く
詳細は「開設の趣旨」を参照 質問は「問い合わせ」からどうぞ

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  • [No.1297] ヒマツブシ(俺の戦争 其の3) 投稿者:BUP  投稿日:2010/09/10(Fri) 12:55
    [関連記事URL:http://bup7.blog37.fc2.com/


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    皆様 今朝も涼しい朝を迎えました、もう秋、本番なんでしょうか。
    今朝は、(オッ)家内儀、娘と共に何処かに遊びに出掛けましたので、つかの間の俺の楽しい時間を「ヒマツブシ」で過ごすことが出来そうです。(帰って来るまでは・・・ネ)

    > BUP先輩、ヒマツブシを毎回とっても興味・関心をもって読ませて頂いており

    オアシス様、お書き込みを頂き有難う御座います。
    実は、俺、アマリにもくだらない自己中の書き込みで、皆さんアキレハテテ、無視されていると、ヒガンデました。
    大正14年生まれです。
    ”ハナハトマメマスミノカサ”の最終学年でアリマス。
    会員名簿にはメールアドレスなどの一切の個人情報の記載はお断りしております、紙の会員名簿の送付も頂いて居りません。
    実は数年前に、個人情報を悪用されて、変なメールが飛び込み、対策に困り、メルアドの変更やらでヒドイ目に会ったからなのです。
    紙の会員名簿を頂いても使い道が無く、管理に自信がないので、送付をお断りしている次第です。
    小学生5年のとき、”子供の科学”か”何かの雑誌で、綿巻き銅線を五寸釘に巻いて電磁石を作り、ブリキ板をペコペコ動かして信号を送る記事から、自作して、「モールス符号」にはまり込み、イロハとアルハーベットのモールス信号を覚えました。
    その辺りから。俺の将来が視えて来たようですよ。
    さて、閑話休題、マカッサル時代の想い出などを。
    (其の1)の地図に、宿舎の隣に「w」と書いてある家が見えます、我が友、ジョニー君の家です。
    俺が寝ていた家は大邸宅でした、部屋が10くらい在りました、ペンションだったのです。
    輸送機の搭乗員がマカッサルで宿泊するときの為の施設でした。
    つまり、俺は其処の管理人を兼ねておりました。
    上官の命令なので致し方ゴザイマセン。
    元、オランダ人が住んで居りましたので、食堂にはウイルヘルミナ女王様の額縁も飾って在りました。
    都市ガス、電気冷蔵庫、完備、至れり尽くせりの施設でした。
    トイレは勿論水洗、俺の育ったオオモリの家に比べても雲泥の差でアリマス。
    当時としては珍しい、ガス瞬間湯沸かし器も在りました。
    マンデー(水浴)の部屋(カマル マンデー)の水溜めにお湯を入れておくと、小型の風呂になります。
    電気冷蔵庫には、マンゴー、パパイヤ etc. 果物が何時も入ってます。
    使用人もコックさん、ジョンゴース(男の使用人のこと)、バブ(女性の使用人のこと)と、3人も居て、俺の面倒を見てくれるのです。
    お給料は、俺が払うわけは無い、勿論、部隊で払ってくれておりました。
    表玄関の前は道路に面した庭になっており、ベランダには籐椅子、寝椅子が置かれて居りました。
    道路の名前は「敷島通り」、オランダ時代の名前は「フェネラル・ファン ダーレン ウエ」でした。
    朝、夕の出勤、退庁時間には宿舎から、司令部、民生府などに自転車通勤する防暑服姿の男女の軍人・軍属の皆様が通ります。
    夕方は「ティガルーダー」と呼ばれた三輪車(爪哇島ではベチャと呼ばれてましたが)に乗って散歩するアベックも見られました。
    自転車に二人乗りのアベックも居ります、「ゴンチェン」と言います。
    夕方になり涼しくなると、海岸通りの方に散歩に出掛けます。
    其のことを「マカン アンギン」と言ってました、マカンは食べる、アンギンは風、つまり、”風を食べる”の意味です。
    俺は、ベランダの寝椅子に横たわり、ボーっとして、その「マカン アンギン」の人たちを眺めておりました。
    或る日の夕方、塀の外から、ジョニー君が顔を出して、”オカーチャンがオマエに来いってさー”とのことです。
    つまり、W家に招待されたわけでアリマス。
    W家のご主人は海軍民生部(市役所みたいな役所)の役人で、夕方になると、日本人の軍人、軍属がよくお見えになり、広い庭の籐椅子で御歓談されているのを、しばしば拝見はしておりましたが、とても俺などは入れる雰囲気では御座いませんでした。
    ご主人も奥さんもメナド人です、セレベス島北部の出身者でミナハサ族と呼ばれており、比較的に日本人に重用されて、軍関係の公務員をされている方が多かったようです。
    ツマリ、ジョニー君から俺のことを聞いて、子供みたいな俺を慰めて(?)呉れようと、呼んで呉れたわけです。
    サンダルを履いたままのだらしのない格好で、すぐ隣のW家に出掛けました。
    W家の構成は、オヤジは前述通り、海軍民生部のお役人、奥さんは同じくメナド人、
    長女は奥さんの前亭、オランダ人との混血、美人でした、独身時代、マカッサルの美人コンテストに入賞したとか、結婚していて、ご亭主はメナド人、マカッサル中学の先生、 男の赤ちゃんロニー君が生まれたばかり、少し離れた住宅に住んでました。
    次女は、俺と同年齢、マカッサル中学を出て、民生部の事務員をやってました。
    以下、三女は中学生、長男はジョニー君、次男、三男と賑やかな御家庭でした。
    俺の宿舎のコックさんから、俺の情報は伝わっていたらしいです。
    食い物に好き嫌いが激しく偏食、だらしが無い、etc. ・・・。
    インドネシアにも小豆と同じような豆が在るのです、但し豆の色が所謂、小豆色ではなく、青い色です、従って名前も”カッチャン イジョー”です。
    カッチャンは豆、 イジョーは青いの意味です。
    其のカッチャンイジョーを、お汁粉にしてご馳走して呉れました。
    ・・・・・・・此処まで、書いて、なんだか、俺、本当に戦争に行ったのか、観光旅行に行ったのか、自分でも分からなくなって来ました。
    家内と娘、帰って来そうなので、続きは・・・・・マタネ。
    段々、核心に迫ってきたので、少し・・・書きにくいので、多少、誤魔化すことにします。   では、マタネ・・・ 


    [No.1296] Re: ヒマツブシ(俺の戦争 其の2) 投稿者:   投稿日:2010/09/09(Thu) 22:07
    [関連記事

    BUP先輩、ヒマツブシを毎回とっても興味・関心をもって読ませて頂いており
    少年時代、熱血愛国少年で少年飛行兵の試験を受けるために 5桁の数字がパッパッパッ
    と出るのを覚えたり、両手両足を使っての器機操作など練習に通っていた者です。
    生まれは昭和7年9月11日 上記は小学校5、6年の担当の先生が 生徒に吉田松陰の
    思想・行動をひたすら殉国と安易に教えた結果です。げに教育の影響・効果は恐ろしき
    かなです。

    倶楽部の名簿には 貴兄の生年月日の記入が無く、確か大正の最後15年(昭和元年)
    だと推定しており、7歳年上と思っておりますが、、、

    さて前回の発言の下記引用
    >第二南遣艦隊の根拠地セレベス島のマカッサルに空路、到着したのが昭和17年8月のことであります。
    私は西宮小学校4年、満10歳になる寸前です。年の差は7年?です。
    また(その2)の下記引用
    >さて、帝国海軍は昭和17年(1942年)6月のミッドウエイ海戦で主力空母4隻とその艦載>機を一挙に失い、それに代り豪北(豪州の北の意味)の島々に滑走路一本の航空基地を>設営、作戦の継続>を余儀なくされました。
    >其の全てを、17歳になる直前の俺にやらせたのですから、帝国海軍の考え方が、今もっ>て俺には・・・ワカリマセン。

    「俺は」 云々での書き方 とっても親しみをもって読ませて頂いています。また ございますと丁寧な文章で感心させられています。 
    戦況の把握や、地域の軍隊の配置などのお詳しいのには驚かされます。
    「17歳になる直前」は、満年齢でしょうか?

    > 「伏見博英海軍大尉ケンダリー発マサッカル行きの飛行機に搭乗中、昭和18年8月21日に撃墜されて戦死」(数少ない皇族の戦死者の一人で、検索で沢山出てきます)迄は・・・。

    これは翌年、私メ5年生の満11歳になる一ヶ月前です。
    愛国少年の私は、同学年の者の中で 地理が得意、特に南方戦線に我が軍が展開する
    地域、島々は殆ど頭に入っておりました。

    その後 内地の19年、20年の爆撃は、殆どがB29 一トン爆弾か 焼夷弾でした。
    わが家は阪急電車 夙川、通ってたのは旧制兵庫県立芦屋中学でした。
    家は阪急の線路に等間隔で落とされる1トン爆弾の為、壁が落ち 至近家屋まで焼夷弾
    で延焼、おまけに警戒警報(空襲警報で無く)で学校から近道で1間道路 溜池横の
    道路で機銃掃射にあい(敵さんの顔が見えました)、道の端から池にパッパッパッと銃弾が、、長屋が並んだ側に蹲り 反対から撃って来た 残り弾で遊びの敵が旋回して来れば丸見えで死んでたでしょう。川原を通った仲間が沢山撃たれて死にました。

    で、何んと昭和20年6月 縁故疎開で石川県金沢近郊の松任町へ疎開しました。

    ちょっと時期や生々し体験など ずれた話を長々と 述べ申し訳ありません。
    先の戦争は比較すれば前線・戦地センチの兵隊さんの方が大変な被害、死傷者が出ましたが、内地の都会暮らしの者たちも 沖縄・広島・長崎、例えば3月10日の東京のように激甚なる被害に会い、戦後の暮らしも餓死寸前と大変だった その代表的人間の一人だと思っています。

    ヒマツブシ 今後とも大いに期待しています。



    > 任務終了すれば、後は用は御座いませんので、マカッサル市街地の「宿舎」に帰ります。
    > 其の用と言うのが、アマリ無いのです、一週間に、二、三度しか御座いませんので、アトはヒマ、宿舎でゴロゴロして遊んでました。
    >
    > 其の零式輸送機には俺の親友が乗ってました。
    > 其の当時の、俺のコールサインはカタカナの「ヤンラ」、離陸して間もなく、正常に離陸マカッサルに向かうと連絡があり、ノンビリと受信機の前に座ってました。
    > 突然「ヤンラ ヤンラ ・・・」と呼ぶモールス符号が聴こえて、後は何の連絡もなく通信が途絶しました。
    > その時、敵機B-24に遭遇したのです。
    > 到着予定時間になっても、着陸して来る気配はなく、日が暮れました。
    > 翌日になり、撃墜されたとの連絡が、陸上捜索部隊より入りました。
    > 根拠地隊の司令部より参謀が、俺の仕事場に来て、怒鳴り散らして帰りました。
    > 俺の運命は、此処に極まり、間もなく、南西方面艦隊、航空輸送部への移動の命令を受けました。
    > 敵機がウヨウヨ飛んでいる、珊瑚海、ニューギニアへの飛ぶ、ボロ輸送機の搭乗員にされてしまいました。(邪魔だから早く死ねとの命令と受け止めました)
    > 輸送経路図の画像を載せました。
    > こんな仕事を終戦までやらされていたのです。
    >
    > 本当は、マカッサルでの楽しかった”戦場のクリスマス”のオハナシでも書こうと思いましたが、暑さが急に緩んで涼しい風が吹き込んできましたので、こんなつまらないハナシになってしまいました。
    > 次は、彼女と一緒に防空壕に入ったお話でも・・・。
    > 突然、話題が変わり申し訳け御座いませんがぁ、オランダ語で、 Ik hou van jou.(イック ハウ ファン ヤウ)の意味、此の年になるまで知らなかったのです。
    > 此の”イック ハウ ファン ヤウ”って言葉が俺の脳の片隅に65年間くらい眠ってましたが、先日、フト思いだして Google で検索したんです。
    > あの時知ってればなぁ〜・・・、運命が変わっていたカモネ。
    > 長いヒマツブシで失礼を致しました。 


    [No.1295] ヒマツブシ(俺の戦争 其の2) 投稿者:BUP  投稿日:2010/09/09(Thu) 16:05
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    ご無沙汰を致しました。
    台風一過、やっと涼しくなって来たようですので、ヒマツブシでもやらせてください。
    今日は木曜日で、コナミのプールも定休日なんです。
    さて、帝国海軍は昭和17年(1942年)6月のミッドウエイ海戦で主力空母4隻とその艦載機を一挙に失い、それに代り豪北(豪州の北の意味)の島々に滑走路一本の航空基地を設営、作戦の継続を余儀なくされました。
    其の南海の占領地間の航空輸送のため、速成した人員を各基地にバラ撒くことになりましたが、俺も、其の一人でした。
    第二南遣艦隊の根拠地セレベス島のマカッサルに空路、到着したのが昭和17年8月のことであります。
    それからの俺の行状の一部が、前回の書き込みでアリマス。(前置きが長くてゴメン)

    俺の任務は、当基地を通過する輸送機との対空通信、人員は俺一人、他に誰も居ないのです。
    此の街から約20キロ離れたマンダイと言う村落に滑走路一本の航空基地が在ります。
    艦上攻撃機が2機ほどで、対潜哨戒をやってましたが、当部隊とは無関係。
    基地の片隅に椰子の葉っぱで屋根を漉き雨露を凌ぐ掘っ立て小屋に対空通信用の「空4号無線電信機」を置き、アンテナを張り、6210KC(KHZ)の短波で、俺の仕事が始まりました。
    任務は、隣の基地、北はメナド(今の地名はマナド)、南は爪哇島のスラバヤ、西はボルネオ島のバリックパパン、東はケンダリー、アンボン。
    (スラバヤには俺が赴任する予定だった南西方面艦隊の司令部が在ります、ケンダリーは、第23航空戦隊の基地、此処から豪州のダーウイン、ポートモレスビー爆撃の1式陸攻が発進しておりました、バリックパパンは油田・製油所が在り重要拠点でした)
    上記各地から飛んで来る陸上輸送機、大型飛行艇、連絡機、その他、航空機との通信連絡、敵機の行動の情報、基地周辺の気象情報、到着予定、その他の連絡事項の暗号通信が俺の任務でありました。
    其の全てを、17歳になる直前の俺にやらせたのですから、帝国海軍の考え方が、今もって俺には・・・ワカリマセン。
    例えば、着陸15分くらい前に、滑走路付近の風向風速の問い合わせが暗号で入ります。
    其れに依り滑走路への進入方向が変わるからです。
    何時もは、俺が、戦闘指揮所の吹流しを見て、北の風、5メートルとかを暗号で知らせるのですが、ある時、面倒くさいので、其の辺りに居た兵隊に、風向を訊いたら、そいつは勘違いして吹流しが南方向に流れているので、南の風って言ったので、そのまま打電したら、反対方向なので、危うくオーバーランするところでした。
    素人にやらせて、確認しなかった俺の失敗でした。
    初期の航空暗号はカタカナ、簡単で、憶えてしまうんですよ、天候を訊いて来れば、上空を見ながら、晴れ、雲量3、雲高 二千米、なんて頭の中で暗号を組み立てて打電してました。
    (その後は「空暗号」3数字を乱数表で変換して送るようになりましたが)
    出発基地を離陸して、当基地に着陸するまで、当基地を離陸して目的地に着陸すれば任務終了です。
    任務終了すれば、後は用は御座いませんので、マカッサル市街地の「宿舎」に帰ります。
    其の用と言うのが、アマリ無いのです、一週間に、二、三度しか御座いませんので、アトはヒマ、宿舎でゴロゴロして遊んでました。

    「伏見博英海軍大尉ケンダリー発マサッカル行きの飛行機に搭乗中、昭和18年8月21日に撃墜されて戦死」(数少ない皇族の戦死者の一人で、検索で沢山出てきます)迄は・・・。
    其の零式輸送機には俺の親友が乗ってました。
    其の当時の、俺のコールサインはカタカナの「ヤンラ」、離陸して間もなく、正常に離陸マカッサルに向かうと連絡があり、ノンビリと受信機の前に座ってました。
    突然「ヤンラ ヤンラ ・・・」と呼ぶモールス符号が聴こえて、後は何の連絡もなく通信が途絶しました。
    その時、敵機B-24に遭遇したのです。
    到着予定時間になっても、着陸して来る気配はなく、日が暮れました。
    翌日になり、撃墜されたとの連絡が、陸上捜索部隊より入りました。
    根拠地隊の司令部より参謀が、俺の仕事場に来て、怒鳴り散らして帰りました。
    俺の運命は、此処に極まり、間もなく、南西方面艦隊、航空輸送部への移動の命令を受けました。
    敵機がウヨウヨ飛んでいる、珊瑚海、ニューギニアへの飛ぶ、ボロ輸送機の搭乗員にされてしまいました。(邪魔だから早く死ねとの命令と受け止めました)
    輸送経路図の画像を載せました。
    こんな仕事を終戦までやらされていたのです。

    本当は、マカッサルでの楽しかった”戦場のクリスマス”のオハナシでも書こうと思いましたが、暑さが急に緩んで涼しい風が吹き込んできましたので、こんなつまらないハナシになってしまいました。
    次は、彼女と一緒に防空壕に入ったお話でも・・・。
    突然、話題が変わり申し訳け御座いませんがぁ、オランダ語で、 Ik hou van jou.(イック ハウ ファン ヤウ)の意味、此の年になるまで知らなかったのです。
    此の”イック ハウ ファン ヤウ”って言葉が俺の脳の片隅に65年間くらい眠ってましたが、先日、フト思いだして Google で検索したんです。
    あの時知ってればなぁ〜・・・、運命が変わっていたカモネ。
    長いヒマツブシで失礼を致しました。 


    [No.1294] ヒマツブシ(俺の戦争 其の1) 投稿者:   投稿日:2010/09/01(Wed) 18:49
    [関連記事URL:http://homepage2.nifty.com/bup/index.html


    画像サイズ: 642×608 (56kB)
    残暑お見舞い申し上げます。
    例により、ヒマツブシです、御読み捨て下さい。
    此の夏の暑さは、記録的と言われてますが、俺も戦争で昭和17年から21年まで、南の島に居りましたが、あっちの方がズーット過し易いと、想い出している、今日この頃であります。
    特にセレベス島のマカッサルと言う港町にいたときは、夕方になると涼しい海風が吹いて、夜中は毛布を被って寝てました。
    此処の海岸(ロサリビーチ)の出ているサイトが御座います。 ↓
    ロサリ海岸の夕陽
    http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/up/sunset.html
    此処の夕陽は「東洋一」と言われておりました(もっともマニラ湾の夕陽も同じように言われてましたが)
    此処に載せた、俺の作った拙い地図をご参照下さい。
    「宿舎」って書いてある家で寝てました。
    此の絵の左上に「プール」と「海岸の喫茶店」って書いてあるのが見えると思います。
    此のプールで泳いだあと、此の喫茶店の籐椅子で「レモナーデ」などを頂きながら夕陽を眺めるのです(午後6時頃)。
    何処かに「レモナーデ」って書いたら「レモナード」の間違いでは、と言われたことが御座いましたが、当時は300年のオランダの統治下、オランダ語が一般に使われていたのです。
    此の「海岸の喫茶店」のことは ↓ の画像をご覧下さい。
    海岸の喫茶店
    http://www5d.biglobe.ne.jp/~makassar/mks/makassar1942.html
    此の姉妹は、俺のガールフレンド、インドネシア語でオシャベリをしてました。
    昭和18年に入り、豪州からのB-24の空襲が激しくなり、あるときの空襲で、港の岸壁付近で密集していた人たちに爆弾が落ちて、多数の犠牲者が出ました。
    遺体の処理にプールを使用したあと、プールは閉鎖されました。
    喫茶店も閉鎖されました。
    あとから噂で聞いたのですが、喫茶店主の中国人系の現地人がスパイだったとか。
    真偽の程は不明です。
    宿舎と書いてある家から海岸に向かう道路は綺麗に舗装されて居り、子供たちがローラースケートで遊んでおりました。
    俺もガキの頃、ローラースケートで遊んでましたので、やりたくなり、子供さんに、何処で売ってるの?って聞いたら、港の付近の中華商店街の店で買えるそうで、早速、買い求め、子供さんたちと一緒に滑ることにしました。
    (もっとも、俺も子供だったけれどネ)
    言葉は通じるものですよ、一緒に遊んでいるうちに上達しました。
    インドネシア語です、もっとも当時はマレー語って言ってましたが。
    「宿舎」の隣に「W」って書いてある家が見えると思います。
    俺のスケート友達、小学生のジョニー君の家です。
    草臥れたので、又 アトでね。   (午前中はプールで泳いでましたので)
    (こんなこと書いてると、オマエ本当に戦争に行ったのか?って言われそうなんで、弱ってます)


    [No.1292] Re: ヒマツブシ(水泳 その2) 投稿者:ブーゲンビリア  投稿日:2010/08/28(Sat) 12:20
    [関連記事

    BUP様

    ブーゲンビリアの写真の掲載までありがとうございました。
    まるで南方の景色と見紛うような、見事な咲きっぷりですね。
    私の家にある鉢植えのブーゲンビリアも、例年ですと梅雨時に満開となって終わりなのですが、
    今年はこの湿気たっぷりの猛暑のせいで二度咲きしてびっくりです。
    花言葉である「秘めた想い」がぴったりの、何とも言えない真紅色をしています。

    戦場での体験談、とても興味深く読みました。
    どんな戦記本を読むより、貴重な記録、証言だと私は思います。

    > 俺は、コナミのプールで泳ぐとき、何時もこれを想い出しているんですよ。

    はたからは判らないけれど、きっと生きている折々に、ふっと戦地での出来事を思い出しているものなんでしょうね。思い出しても、決して口には出さずに。
    父にもきっとたくさん、たくさんあったんだろうなあと思いました。


    [No.1291] Re: ヒマツブシ(水泳 その2) 投稿者:BUP  投稿日:2010/08/26(Thu) 19:37
    [関連記事URL:http://bup7.blog37.fc2.com/


    画像サイズ: 1152×864 (85kB)
    コンバンハ 娘が来宅するので、夕食は時間待ちだそうで・・・
    従って、ヒマツブシの続きです。
    先日のテレビでキタジマ選手が子供さんに平泳ぎを教えている場面をヤッテマシタ。
    子供さんがキタジマ選手に、25米プールを1ストロークで行けるか?って言ったら、北島君、ヤッテミヨウカって、本当に1ストロークで泳ぎ切りました。
    俺もヤロウって決心して、以後、コナミに行くたびに挑戦してます。
    6ストロークまでは行くんですが・・・、1ストロークは、今のところ無理なようですよ。
    少しインチキをすると、結構行けるんですがぁ〜・・・。
    スタートして、プールの底、すれすれまで潜るのです、そのママ、手は伸ばしたまま、底で蹴り続けて、15メートルくらい先で顔を出して、ストロークするんです。
    もう少し潜り続ければ、キタジマ選手に追いつくカモネ?・・・。
    ソロソロ娘が着きそうなので・・・、これからビールでも。(一缶だけ)
    (画像はご近所のブーゲンビリアの綺麗な御宅です)


    [No.1290] Re: ヒマツブシ(水泳) 投稿者:BUP  投稿日:2010/08/26(Thu) 16:31
    [関連記事URL:http://homepage2.nifty.com/bup/84sai.htm


    画像サイズ: 628×518 (93kB)
    ブーゲンビリア様 皆様 酷暑が続いてますが、如何にお過ごしでしょうか。
    此処、小生のヒマツブシ用専用室みたいになってしまい申し訳け御座いません。 
    > そういう雰囲気がとってもいいんです。ぜひ、フリートークでこれからもお願いいたします。
    ブーゲンビリア様 お久しぶりです、 御元気なようで、何よりであります。
    お言葉に甘えて、言いたい放題でやらせて貰ってますが、たいした話題は御座いません。
    テレビでは”オザワさんがどうのこうの”って、やってますが、俺、全然関心がないんです。
    今日は木曜日、コナミは定休日、従って水泳はオヤスミ、駅前にセブンイレブンが開店して、おむすび50円引きとか、家内に命令されて、此の暑いのに自転車で買って来ました、ティッシュペーパー、一箱サービスで貰って来ました。(家内は、これが欲しかったらしいよ)

    帝国海軍って言ったって、皆さん水泳が得意って言うわけでは御座いません。

    航空機搭乗員は、仕事中、ライフジャケットを着用します。
    これは役に立ちました。
    昭和20年の春頃、海南島の三亜をサイゴンに向け夜中に離陸して、間もなく、右エンジンが故障、海上に不時着水しました。
    零式輸送機の搭乗員席は前列の左が操縦士、右が機関士、後列、左が航空士、右が通信士、航空士と通信士の間の上部に天蓋が在り、其処から脱出出来ます。
    着水は、いきなりで、急に高度を取れなくなりガツーンと海面に突っ込んだ感じでした。
    俺は、離陸完了と思い、仕事に取り掛かるため、鞄から暗号書と乱数表を出して、空3号無線電信機の上に置いた途端でした。
    オデコを無線機の何処かにぶつけて、イテーって思った瞬間です。
    左側の航法担当の航空士はチャート(航空用の地図)を広げる机を上に留めるピンにオデコをぶつけて血だらけになってました。
    急いで送信機を作動、不時着を基地に知らせたつもりでしたが、応答はありませんでした。
    客室との隔壁扉を開けて、乗っていたお客さん(高級士官ばかり)に、救命胴衣の着用を知らせて、天蓋を空けて、其処から脱出しました。
    真っ暗な海上でした。
    機外に出ると、すぐ其処にアンテナの支柱が立ってます。
    機はエンジンの重さで前かがみにジワリと沈んでゆきます。
    支柱からアンテナ線が尾翼に伸びております、それを伝って、浮いている尾翼の方に移動して行きました、なるべく水に浸かりたくなかったからです。
    尾翼にしばらく、しがみ付いておりましたが、やがて、水没、全員が海中に投げ出されました。
    バラバラにならないように、ロープでお互いに繋がって救助を待つことにしました。
    数時間後、次第に夜が明けて明るくなってきましたが、救助がくる気配は御座いません。
    南の海でも、長く浸かっていると、だんだん冷えてきます、其のうちに”胴震い”が始まりました、ガタガタと胴が前後に震えてくるのです。
    機長が、”オイ、若いやつ、二人(俺と航法担当)陸に向かって泳ぎ、救助を求めろ”との命令でした。
    泳ぎだしました、泳いでも、泳いでも、島影は遥かに遠く、近寄りません。
    ふと、俺の周りを見たら、黄色と黒の斑な海蛇がウヨウヨ泳いでいるんです。
    泡を食って、手で、あっち行けって、やりながら泳ぎ続けました。
    其のうちに、遥か彼方より、焼玉エンジン特有のポンポンポンと言う音が近付いて来ました。
    俺に向かって真っ直ぐ来るんです!、俺の救命胴衣を棒の先で引っ掛けて、ヒョイと救助艇のデッキに放り上げられました。
    ほかの者はって訊かれましたので、”その辺に居るよ”って、無責任な返事をしたと思ってます。
    全員救助され、迎えが来るまで、三亜での生活が始まりました、憶えているのは、
    紙幣を沢山持ってましたので、戸板の上で干しました。
    拳銃を中国人の時計屋さんに持って行き、手入れして貰いました。
    数日後、爪哇島の本部より迎えの輸送機が来てくれました。
    お客さんたちは椅子に座りましたが、俺たち4人は、輸送機の後部、便所(トイレ)の前の空間に救命胴衣を着けっぱなしで固まって座り込んでおりました。
    多分、又、落ちると思い込んでいたのかも知れません。
    爪哇島スラバヤの本部に帰り着き、数日の休みを頂きましたが、ソレダケ、・・・、再び、南の空に舞い戻りました。
    俺は、コナミのプールで泳ぐとき、何時もこれを想い出しているんですよ。
    (上達しない、言い訳けでした・・・)  今日もヒマツブシでゴメン。


    [No.1289] Re: ヒマツブシ(雑巾掛け) 投稿者:   投稿日:2010/08/26(Thu) 12:00
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    BUP様
    こんにちは。

    以前、父が通っていた目黒無線電信講習所の件で教えをいただいて以来、時々訪問しては、父と同年代の戦場体験者の方のお話を楽しみに読ませていただいております。(ただ読んでいるだけで申し訳ありません。)
    先日の終戦記念日の話も、この雑巾がけの話も、とても心に染み入るお話で、何度も繰り返し読みました。

    私の父は、アイロンかけや靴磨きが得意で、家族のものを一手に引き受けていました。何か壊れても、器用に自分で家の中にあるものを使って直し、何でもボロボロになるまで使っていたのは、兵隊生活やジャングルでの暮らし、また無線通信兵だったことも影響しているのかなと思ったりします。

    > 又、ヒマツブシの戦争記録でもやらせて頂きます。
    > 私が書くと、戦争をしていたのか、観光に行っていたのか分からなくなるので、不安ですよ

    そういう雰囲気がとってもいいんです。ぜひ、フリートークでこれからもお願いいたします。


    [No.1288] ヒマツブシ(雑巾掛け) 投稿者:BUP  投稿日:2010/08/24(Tue) 11:21
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    皆様
    残暑お見舞い申し上げます。
    (此の暑さ何時まで続く残暑かな)
    此の部屋、閑古鳥に付き無駄話でヒマツブシをやらせて頂いてます。
    全くのヒマツブシに付き、ご容赦下さい。
    今日のヒマツブシは「雑巾掛け」について。
    皆様のご家庭では、電気掃除機とやらで、お掃除をされていると拝察致します。
    当家でも、毎朝、電気掃除機でガーガーと煩い音を出して、座敷、廊下を擦り上げて、溜まったゴミを捨てて、完了で済ませておりました。
    思い起こせば、昭和初期、ガキの頃、各家庭では、そんなものは無く、箒で掃いて、ゴミは庭先に掃き出し、廊下などは雑巾掛けをしておりました。
    一月ほど前、想い出して、やって見ました。
    風呂場でバケツに水を汲み、雑巾を絞って、廊下、座敷を拭き上げました。
    集合住宅の狭い家ですので、30分もかかりません。
    雑巾を絞る度にバケツの水は黒く汚れます。
    水を換え換え、拭き上げました。
    以前は、スリッパを履いてましたが、素足で歩くと冷やりとして気持ちが良いのです。
    電気掃除機が普及して数拾年、あんまり気にしてませんでしたが、ある程度の埃は吸い上げても、こびり付いた汚れは取れていませんでした。
    以降は、朝の「雑巾掛け」は、俺の仕事になってしまいました。
    全身運動になりますよ。
    家中を拭き捲り、手足腰の全身運動、廊下を素足で歩いてもスベスベ、良いことだらけです。
    ガキの頃(昭和初期)オカーチャンに、言いつけられて豆腐屋に豆腐のオカラを買いに行かされました。
    一銭か、二銭だったと思います、食べるのでは御座いません、オカラを布袋に入れて、廊下、柱等、家の木部を吹き上げて、更に乾布で吹き上げて艶を出すのです。
    そうして、両親が磨き上げた家も戦火の犠牲になってしまいました。
    雑巾を硬く絞って、廊下を拭き拭き、そんなことを想い出しておりました。
    (電気掃除機不要論では御座いませんので・・・)
    今日のヒマツブシは此処まで、 これから近所のプールへ。
    昨日、テレビでキタジマ君の平泳ぎが写ってましたので、足の蹴り方が参考になりましたので、今日は、其の練習でも。


    [No.1287] Re: ヒマツブシ(終戦記念日) 投稿者:YKOMA  投稿日:2010/08/19(Thu) 08:48
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    BUPさん

    > 熱帯地域で4年ほど過し、戦後も何回か訪れましたが、暑いと思った記憶がないのです。

    おや、熱帯といえどもそうですか。

    まったく、この頃の世の中は、なにもかもメリハリっちゅうもんがなくなってしまった。

    年寄りだけが長生きして何になるのでしょうねえ。
    おやおや、愚痴になってしまったかな。


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