[No.9668]
Re: 夢野久作 ドグラ・マグラ
投稿者:男爵
投稿日:2016/08/25(Thu) 13:16
[関連記事] |
唐辛子紋次郎さん、夏子さん、みなさん こんにちは
> 夢野久作 ドグラ・マグラ - 青空文庫
> http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/2093_28841.html
> ざっと読んでみました。
> 20分くらいの斜め読み。
> そこでのいちおうのコメントです。
人間の意識というものは一種の錯覚もあります。
妄想というものもあると思います。
真実というものがあって、それとは別のことを人間が考えていると
その人にとっては真実は別のものとなります。
たとえばイリュージョン (奇術)
奇術のジャンルで、大掛かりな仕掛けを用いたもの。
たねもしかけもあるが、その真実を知らないから楽しい。
このドグラ・マグラはどこまでが主人公の妄想で、どこまでが真実かはわかりません。
推理小説によっては最後に謎をときあかして真実を読者に知らせるものもありますが、このドグラ・マグラはそうではありません。
アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」では
無人島に集められた人たちが、一人ずつ殺されたりしていなくなっていき
とうとう最後に誰もいなくなってしまう。
不思議 不思議 しかし、瓶の中に入れた手紙によって犯人は誰で、どうやって全員が死んでしまったかという説明がされます。 これを読んで読者は納得、了解。
仏教では唯識論というものがあります。
それに似たもので、西洋哲学では唯物論と唯心論。
あの養老先生なら唯脳論ですね。
つまり真実は人間の脳の中にある。
その人が死んでしまえば、もはや真実はない。 少なくともその人にとっては知覚も認識もできないので、その人にとっては何もなくなる。(魂があるじゃないかという人は養老先生と対決してください)
たとえば、花が咲いている。
でも、目の見えない人には、その花はないに等しい。
いや、何らかの機械的な刺激を感じるセンサーをもってきて、そのセンサーから脳細胞に刺激を与えたら、見えるようなもの。
という説明では、養老先生はしたりという顔で、だから刺激をキャッチした脳があればこそ、つまり唯脳論なのですと言うでしょう。 (脳がなければ、すべてなし)
我々が目で見て、手で触って、においをかいで等、感覚や認識の作用で
外界を理解するとき
我々のそういう機能が失われたら、当人にとって外界はないのも同然。
でも、外界はちゃあんと存在する。 他の人がしっかり認識していれば、その外界は認識されるから存在する。
等などと考えていくとわからなくなる。 どうもすみません。
昔から哲学者のテーマだったのでしょう。
作者は息子に ドグラ・マグラを読ませて感想を求めたところ
父のいわんとするところはポイントをおさえていたそうです。
しかし、「この阿呆陀羅経は長すぎるよ」と言ったとか。
私も、チャカポコチャカポコは長すぎと思います。
せいぜい、元の文章の1〜3割にしたらいいと思いました。
それにしても、こんな本を自費出版で出したというのは...
売れなくても後世に残るという自信があったのか
その費用くらいはいつでも出せたよという財産もちなのか
まあ、出版社でもこんな本を出すことには賛成しない可能性が高かったでしょうね。
○ ○ ○
ところで自分と自分のまわりの世界をどう認識しているかという点から考えると
うつ病(的な傾向)の人は、事態を悪い方に悪い方に考える傾向があります。
まあそういうくせになっているのでしょう。(それはそれで危機に対応する姿勢でもあるからいいこともある。転ばぬ先の杖)
うつ病には薬だとばかり薬物治療をする方法もありますが
認知行動療法(認知療法ともいいます)という方法も最近注目されています。
これは事態を悪い方に考えるくせの人に対して
ちょっと待った、本当はそう悪くはないんだよ。
いいこともあるじゃない、世の中は悪いことばかりではない、次には良いことも起きるんだと考え方の悪いスパイラルを直して
積極的に良いスパイラルに変えていこうとする治療法です。
宗教などもその一種の対処法かもしれません。 神や佛が護ってくれる。
人間は心の持ち方で気持ちも明るくなる。
良いことが起きる、良いことが起きるといつも念じていると本当にそうなるそうです。 (自分もうつで悩んだ精神科医が今は元気になり、本に書いています)
ということで、心の働きは複雑なもの。
せっかくの人生なのだから、前向きに生きたいものです。