著者の青木健作は富山生まれで弘前在住 富山、東京、弘前と人生を三分ずつ住んできた。
五能線 東能代駅から川部駅までの147キロ 42駅がある。 普通列車で4時間半くらい、快速列車「リゾートしらかみ」ならもっと早い。 しかし、五能線を半日で走るような列車の旅では、旅をしたということにはならないのではないか。 駆け抜けるだけなら津軽も房総も越前も紀伊もたいして変わらない。 途中下車してゆっくりと宿に泊まったり、地域の人の話を聞いたりするのもいいものだ。 というわけで、著者は地元にいる強みで一年半の間に十数回五能線に乗り 地域の人の話を聞いて地域の苦労の歴史を考えたり、沿線の生活を 思ったのであった。 この本の出版社の月刊誌に連載した記事をまとめて出版した。 (著者の述べていることはまことによろしいのだが、やはり途中下車してそぞろ歩きをするには時間と費用が少々かかるから、私としてはリゾートしらかみで駆け抜けるしかない。ただ、そういう慌ただしい旅では知らない地域の歴史や文化を、この本で学び少しでも穴埋めしたい)
能代駅で降りて歩くと、海岸で釣り人に会い その人から聞くともなく聞いた話 子や孫が家に集まって還暦の祝いをすることになった。 女房は孫たちの好きなまぜご飯をこしらえた。 前の日から具を仕込んだりして一生懸命だった。 女房がそのまぜご飯入れたお櫃を台所から食堂に運ぼうとして 根太にけつまずいて転び、せっかく作ったのにぶちまけてしまった。 カッとなって怒鳴りつけたら、女房も口惜しがって泣き出したから 家を飛び出して床屋に行った。そして、まぜご飯の代わりにと 思って寿司の出前をたのんで帰ったら、女房は台所で死んでいた。 脳出血だった。転んだのは前兆だった。
能代の開拓地 昭和21年に34世帯の引き揚げ者が入植して 戦時中に使っていた兵舎や弾薬庫で共同生活をはじめた。 開墾しても収穫がなく将来を悲観して自殺者も出た。 千葉出身のTさん満州に渡った。長女が生まれたが 現地召集で兵役につく。敗戦で奉天で召集解除 苦労として家族と再会するが長女は二歳で病死。 日本に引き揚げてきて東京都の斡旋で能代市の開拓地に入植。 水利が悪い、土地が痩せている、最初の年は収穫は皆無 能代の篤志家たちが入植者の窮状知り食料を援助してくれた。 翌年能代の製材所から特別配給で材木を譲り受け家を建てる。 子どもも生まれ苦労しながら豚や鶏を飼い、数年後にわずかながら米も とれるようになる。 食べる物にもことかくその日暮らしをしながら 他にどこにも行けるところがないから頑張って苦労を続け なんとか落ち着いた。息子の代になり水田の転作で 野菜栽培をしながら大豆や野菜を出荷しているという。
七森のハタハタが最盛期の時はすごかった。 特に昭和15年の時は最高だった。当時は乗組員が一ヶ月働いて 20円ほどだったが、この冬は最盛期の一ヶ月でほぼ一年分の 220円稼いだ船乗りもいたという。
昔は白神山地に登山で入る人は少なかったが、世界自然遺産に 登録されたことで注目され、遠方からも登山者が訪れるようになった。
森田村にある弥三郎節の歌碑 江戸時代末期、鶴田町大開から木造新田下相野の弥三郎の家に嫁が来たが 弥三郎の親と気が合わずこき使われたあげく離縁されたという嫁いびり。 その後は下相野は森田村に編入されている。 弥三郎嫁いびりだんご だんご屋の栞に「....なお、現在当地に嫁いびりの風習はなく、 また意地の悪い姑もいないことを念のために申し添える....」 (おしんのブームのときには、佐賀県には嫁いびりはありませんとPRがさなれていた)
木造町吹原の弘法寺 たくさんの人形をお祀りしている。 お堂の中にたくさんの人形が祀られている。 ガラスケースに大振りな花嫁人形を納め、そのわきに 若くして亡くなった男性の写真が飾られている。 太平洋戦争で戦死した青年の親が、不憫な息子に嫁をもらって あの世で安らかに暮らしてほしいとねがった。 いまは交通事故や病気で若死にした若者のものが多いという。
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この本には車窓からの眺めについてはあまり書かれていない。 地域の人々の苦労や暮らしが庶民の目の高さから書かれている。 都会から来てリゾートしらかみで走り抜ける人々には決して見えない世界であろう。
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