[No.16045]
太宰治:津軽
投稿者:男爵
投稿日:2010/11/05(Fri) 20:32
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> 太宰治の「津軽」を読みました。
> この作品は、1944年5月から執筆依頼のため、3週間にわたって津軽半島を旅行したもので、一種の紀行文になっています。
> 終戦中の物資の乏しいときに、しかし、彼の一族は金持ちだったので、どこに行っても何とかお酒が飲めたようです。幸せでしたね。
> 太宰の亡くなった父親の出身の町、五能線の木造駅に降りる。
> 知り合いの家に寄ると貴重なお酒をご馳走になる。
いまはもう、木造にはコモヒ(雁木)はないとか。 行って確かめたいものです。
太宰がある雑誌社から「故郷に送る言葉」を求められ
「汝を愛し、汝を憎む」と返事をして
弘前に対する思いを語ったという。
この言葉は、津軽鉄道の列車の内側の壁に書かれてありました。
太宰が書いているように
代々の立派な城がある城下町弘前なのに、県庁は青森にいったことに、青森県の不幸があったのです。弘前も不幸となったのです。
(旧南部藩の盛岡に言わせてもらえば、津軽は奥羽越列藩同盟を裏切って官軍となったものの、旧南部藩の下北半島をくっつけられたから、新しい青森県の重心は弘前でも八戸でもあってはならず、青森に県庁所在地をもってこなくてはいけなかった。そこから青森県の悲劇が始まった、そういうことになります)
(裏切ったりしなければ、むかしの津軽藩そのままだったので、今もまとまっていたのではないか。今は選挙のたびに、津軽と南部の対立が続く)
とかなり一方的なことを書いてしまいましたが...... 要するに弘前は藩主の城があった町なのに県庁はないのです。
この旅行で
太宰は深浦町に泊まります。
深浦の町外れに円覚寺の仁王門があります。
その寺には国宝の薬師堂がありました。
お参りした太宰はこの町をひきあげようと思いながら
日も高いので子どもの顔を思い出し郵便局に行って
東京の家族にハガキを出します。
それから行き当たりばったりの宿屋に入り、汚い部屋に案内されます。
夕食に出されたお酒を二本飲んでまだ飲み足りない太宰は、もうお酒はないと言われ
教えられた料亭に行って続きを飲むことができました。
翌朝、宿屋の主人がきて
「あなたは津島さんでしょう」と聞きます。
はたして兄英治の中学校の同級生だった。
かくして兄のおかげて朝からお酒と鮑のはらわたの塩辛をごちそうになる。
当時のことを考えたら、こんなにお酒が飲めた太宰はなんと幸せだったのでしょう。
太宰治も宮沢賢治も、父親の権威や経済力を否定したのですが、結局はその庇護のもとに好きなことを言って恵まれた生活をおくっていたようで、私はやっぱりどことなくうさんくささを感じてしまうのです。