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[No.14553] 五能線みちくさ紀行 投稿者:男爵  投稿日:2010/01/16(Sat) 08:04
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著者の青木健作は富山生まれで弘前在住
富山、東京、弘前と人生を三分ずつ住んできた。

五能線  東能代駅から川部駅までの147キロ  42駅がある。
普通列車で4時間半くらい、快速列車「リゾートしらかみ」ならもっと早い。
しかし、五能線を半日で走るような列車の旅では、旅をしたということにはならないのではないか。
駆け抜けるだけなら津軽も房総も越前も紀伊もたいして変わらない。
途中下車してゆっくりと宿に泊まったり、地域の人の話を聞いたりするのもいいものだ。
というわけで、著者は地元にいる強みで一年半の間に十数回五能線に乗り
地域の人の話を聞いて地域の苦労の歴史を考えたり、沿線の生活を
思ったのであった。
この本の出版社の月刊誌に連載した記事をまとめて出版した。
(著者の述べていることはまことによろしいのだが、やはり途中下車してそぞろ歩きをするには時間と費用が少々かかるから、私としてはリゾートしらかみで駆け抜けるしかない。ただ、そういう慌ただしい旅では知らない地域の歴史や文化を、この本で学び少しでも穴埋めしたい)

能代駅で降りて歩くと、海岸で釣り人に会い
その人から聞くともなく聞いた話
子や孫が家に集まって還暦の祝いをすることになった。
女房は孫たちの好きなまぜご飯をこしらえた。
前の日から具を仕込んだりして一生懸命だった。
女房がそのまぜご飯入れたお櫃を台所から食堂に運ぼうとして
根太にけつまずいて転び、せっかく作ったのにぶちまけてしまった。
カッとなって怒鳴りつけたら、女房も口惜しがって泣き出したから
家を飛び出して床屋に行った。そして、まぜご飯の代わりにと
思って寿司の出前をたのんで帰ったら、女房は台所で死んでいた。
脳出血だった。転んだのは前兆だった。

能代の開拓地
昭和21年に34世帯の引き揚げ者が入植して
戦時中に使っていた兵舎や弾薬庫で共同生活をはじめた。
開墾しても収穫がなく将来を悲観して自殺者も出た。
千葉出身のTさん満州に渡った。長女が生まれたが
現地召集で兵役につく。敗戦で奉天で召集解除
苦労として家族と再会するが長女は二歳で病死。
日本に引き揚げてきて東京都の斡旋で能代市の開拓地に入植。
水利が悪い、土地が痩せている、最初の年は収穫は皆無
能代の篤志家たちが入植者の窮状知り食料を援助してくれた。
翌年能代の製材所から特別配給で材木を譲り受け家を建てる。
子どもも生まれ苦労しながら豚や鶏を飼い、数年後にわずかながら米も
とれるようになる。
食べる物にもことかくその日暮らしをしながら
他にどこにも行けるところがないから頑張って苦労を続け
なんとか落ち着いた。息子の代になり水田の転作で
野菜栽培をしながら大豆や野菜を出荷しているという。

七森のハタハタが最盛期の時はすごかった。
特に昭和15年の時は最高だった。当時は乗組員が一ヶ月働いて
20円ほどだったが、この冬は最盛期の一ヶ月でほぼ一年分の
220円稼いだ船乗りもいたという。

昔は白神山地に登山で入る人は少なかったが、世界自然遺産に
登録されたことで注目され、遠方からも登山者が訪れるようになった。

森田村にある弥三郎節の歌碑
江戸時代末期、鶴田町大開から木造新田下相野の弥三郎の家に嫁が来たが
弥三郎の親と気が合わずこき使われたあげく離縁されたという嫁いびり。
その後は下相野は森田村に編入されている。
弥三郎嫁いびりだんご 
だんご屋の栞に「....なお、現在当地に嫁いびりの風習はなく、
また意地の悪い姑もいないことを念のために申し添える....」
  (おしんのブームのときには、佐賀県には嫁いびりはありませんとPRがさなれていた)

木造町吹原の弘法寺 たくさんの人形をお祀りしている。
お堂の中にたくさんの人形が祀られている。
ガラスケースに大振りな花嫁人形を納め、そのわきに
若くして亡くなった男性の写真が飾られている。
太平洋戦争で戦死した青年の親が、不憫な息子に嫁をもらって
あの世で安らかに暮らしてほしいとねがった。
いまは交通事故や病気で若死にした若者のものが多いという。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

この本には車窓からの眺めについてはあまり書かれていない。
地域の人々の苦労や暮らしが庶民の目の高さから書かれている。
都会から来てリゾートしらかみで走り抜ける人々には決して見えない世界であろう。


[No.14555] Re: 五能線みちくさ紀行 投稿者:   投稿日:2010/01/17(Sun) 16:55
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> 五能線  東能代駅から川部駅までの147キロ  42駅がある。

弘前近くの板柳駅で
著者はわざわざ降りる。

昭和24年網走で生まれた永山則夫は
六歳の時、自分を置き去りにして板柳で暮らしていた母親に引き取られる。
このとき永山則夫が汽車から降りたのは、板柳駅のホームであろう。
精神病院に入院中の姉に会うために九歳で家出して北海道へ向かったときも
集団就職で上京したときも、板柳駅から出発したにちがいない。

彼は上京した四年後の昭和四十四年四月に「連続射殺犯」として
警視庁に逮捕された。

貧しく悲惨だった生い立ち
辛い半生のあと殺人犯となって、とうとう死刑になってしまった。
この本を読んで、五能線の板柳駅も通ったことのある私は
永山のことを思い出したのでした。


[No.14564] Re: 五能線みちくさ紀行 投稿者:男爵  投稿日:2010/01/19(Tue) 08:23
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> > 五能線  東能代駅から川部駅までの147キロ  42駅がある。
>
> 弘前近くの板柳駅で
> 著者はわざわざ降りる。

高見盛は板柳町の出身でした。
地元のテレビでは
郷土出身の力士の星取り情報を流していました。


[No.15000] 五能線木造と太宰治 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/29(Mon) 20:55
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太宰治の「津軽」を読みました。
この作品は、1944年5月から執筆依頼のため、3週間にわたって津軽半島を旅行したもので、一種の紀行文になっています。
終戦中の物資の乏しいときに、しかし、彼の一族は金持ちだったので、どこに行っても何とかお酒が飲めたようです。幸せでしたね。

太宰の亡くなった父親の出身の町、五能線の木造駅に降りる。
知り合いの家に寄ると貴重なお酒をご馳走になる。
私がはっと思ったのは
木造はまたコモヒの町である、と書いてあったこと。
コモヒとは、家々の軒を一間ほど前に延長させて頑丈に永久的に作ってある
一種の通路です。雪国の冬の通り道になります。
コモヒは小店(こみせ)が訛ったものであると言われているが
太宰治は隠瀬(こもせ)あるいは隠日(こもひ)などという字を当てたほうがわかりやすいと述べています。

つまり、これは北陸の雁木ですね。
黒石や弘前ではコミセと呼ばれています。黒石には立派なコミセが保存されていますが、弘前にはほとんど残っていません。数えるほどしかありませんでした。
川端康成の雪国や松本清張の小説に、雁木のことが出ています。

それでは、機会をみつけて、木造に行ってみないといけませんね。
なるべく冬に行ってみたいものです。

この「津軽」の最大の見せ場は、太宰を育ててくれた乳母の「たけ」に会うことです。
彼は実際にたけと会ったのですが、事実と小説は違っているそうです。
小説はうまくまとめているが、実際に太宰はそんなに劇的な再会をして文学的な感動の場面に立ち会ったようではないみたいです。いっぱり歩き回って他の知り合いに会うのとお酒を飲むのに忙しかったみたい。

インターネットに全文が載っています。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2282_15074.html


[No.16045] 太宰治:津軽 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/05(Fri) 20:32
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> 太宰治の「津軽」を読みました。
> この作品は、1944年5月から執筆依頼のため、3週間にわたって津軽半島を旅行したもので、一種の紀行文になっています。
> 終戦中の物資の乏しいときに、しかし、彼の一族は金持ちだったので、どこに行っても何とかお酒が飲めたようです。幸せでしたね。

> 太宰の亡くなった父親の出身の町、五能線の木造駅に降りる。
> 知り合いの家に寄ると貴重なお酒をご馳走になる。

いまはもう、木造にはコモヒ(雁木)はないとか。 行って確かめたいものです。

太宰がある雑誌社から「故郷に送る言葉」を求められ
「汝を愛し、汝を憎む」と返事をして
弘前に対する思いを語ったという。
この言葉は、津軽鉄道の列車の内側の壁に書かれてありました。

太宰が書いているように
代々の立派な城がある城下町弘前なのに、県庁は青森にいったことに、青森県の不幸があったのです。弘前も不幸となったのです。
(旧南部藩の盛岡に言わせてもらえば、津軽は奥羽越列藩同盟を裏切って官軍となったものの、旧南部藩の下北半島をくっつけられたから、新しい青森県の重心は弘前でも八戸でもあってはならず、青森に県庁所在地をもってこなくてはいけなかった。そこから青森県の悲劇が始まった、そういうことになります)
(裏切ったりしなければ、むかしの津軽藩そのままだったので、今もまとまっていたのではないか。今は選挙のたびに、津軽と南部の対立が続く)
  とかなり一方的なことを書いてしまいましたが...... 要するに弘前は藩主の城があった町なのに県庁はないのです。

この旅行で
太宰は深浦町に泊まります。
深浦の町外れに円覚寺の仁王門があります。
その寺には国宝の薬師堂がありました。
お参りした太宰はこの町をひきあげようと思いながら
日も高いので子どもの顔を思い出し郵便局に行って
東京の家族にハガキを出します。
それから行き当たりばったりの宿屋に入り、汚い部屋に案内されます。
夕食に出されたお酒を二本飲んでまだ飲み足りない太宰は、もうお酒はないと言われ
教えられた料亭に行って続きを飲むことができました。

翌朝、宿屋の主人がきて
「あなたは津島さんでしょう」と聞きます。
はたして兄英治の中学校の同級生だった。
かくして兄のおかげて朝からお酒と鮑のはらわたの塩辛をごちそうになる。
 当時のことを考えたら、こんなにお酒が飲めた太宰はなんと幸せだったのでしょう。

太宰治も宮沢賢治も、父親の権威や経済力を否定したのですが、結局はその庇護のもとに好きなことを言って恵まれた生活をおくっていたようで、私はやっぱりどことなくうさんくささを感じてしまうのです。


[No.16046] Re: 太宰治:津軽 投稿者:男爵  投稿日:2010/11/05(Fri) 21:09
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> > 太宰治の「津軽」を読みました

> この旅行で
> 太宰は深浦町に泊まります。

> 行き当たりばったりの宿屋に入り、汚い部屋に案内されます。
> 夕食に出されたお酒を二本飲んでまだ飲み足りない太宰は、もうお酒はないと言われ
> 教えられた料亭に行って続きを飲むことができました。
>
> 翌朝、宿屋の主人がきて
> 「あなたは津島さんでしょう」と聞きます。
> はたして兄英治の中学校の同級生だった。
> かくして兄のおかげて朝からお酒と鮑のはらわたの塩辛をごちそうになる。

思いがけず歓待を受けた深浦の宿

のちに太宰は終戦間際に
妻の実家の甲府で焼け出されたので
妻子を連れて津軽の金木に向かった。
東能代まできて、もう五所川原は近いというところで
(五能線に乗り)わざわざ遠回りをして深浦にたどりつく。
どうしても、この宿に泊まりたかったのだ。
http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/wforum.cgi?no=15497&reno=15478&oya=15181&mode=msgview
>川部でもう一度乗り換えれば五所川原につけるというときに
>太宰は能代から五能線に乗り深浦泊まりにしようと言い出した。
>疲れて早く実家にたどりつきたい妻美知子であったが
>太宰が深浦に泊まりたい目的も知っていたのでやむをえずついていった。

太宰一家が約一時間も駅から歩いて苦労してその宿に泊まった
秋田屋旅館はそれから改装され、2004年に「ふかうら文学館」として観光客を迎えている。