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[No.15922] 井上信興:野口雨情そして啄木 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/14(Thu) 06:53
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この著者も医師である。
広島県出身で、戦前函館に住み、盛岡で学生生活を送ったから
石川啄木研究に入るきっかけとなった等を、本の後ろの履歴書の項目に書いている。

すでに紹介した啄木研究家西脇巽とはライバル関係らしく
互いに相手の本を批評しあい、自説が正しく、相手の説は根拠がないと酷評しあっているのがおもしろい。

啄木に関する研究所を多く出してきたので、啄木研究はひとまず終えて
あらたに野口雨情の研究をはじめたいと、冒頭に書いてある。
例によってメモ書きで内容を紹介する。
・啄木と雨情 
  この本では、啄木と雨情を、札幌、小樽時代に限ってとりあげている。
・童謡「青い目の人形」と「赤い靴」
  赤い靴のモデルはアメリカ人宣教師に預けられ麻布十番の孤児院で亡くなった「きみちゃん」ということになっているが、それを否定する本も出ている。著者としては、歌のモデル探しは必要がないと思う。
・啄木と函館
  啄木にとって函館は重要である。「一握の砂」から函館に関する歌を無くしたら魅力は半減する。函館の友人たちは啄木が有名になる以前から支援したのである。
・小説「漂白」の原風景はどこか
  西脇巽の「住吉海岸説」は根拠がわからず説得力はない。これに対して、著者の「新川河口説」は明確な理由を示しているから読者にも了解されるだろう。
・「東海歌」に関する「三枝説」と「李説」
  三枝は「東海歌」がズームインして次第に小さくなっていき最後は蟹や涙になるという解説をしているが、この思考は李御寧「『縮み』志向の日本人」にヒントを得たのか本人独自の説なのか、いずれにしても著者は受け入れがたい。
    (あたりの情景を述べてから、ズームインして個人の形姿や花などに焦点を絞る方法は文学作品ではよく使われるのではないだろうか。たとえば手塚治虫の初期の漫画などにもあつかわれている)
・西脇巽「石若啄木東海歌二重歌格論」
  この本の中で西脇は井上の悪口が多い。西脇は、井上がすべて同感できて反論など書かせないような論考に力を入れるべきである。井上は個人攻撃をしているのではない、啄木の研究のためにしているのだ。


[No.15923] Re: 井上信興:野口雨情そして啄木 投稿者:男爵  投稿日:2010/10/14(Thu) 09:29
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> この著者も医師である。
> 広島県出身で、戦前函館に住み、盛岡で学生生活を送ったから
> 石川啄木研究に入るきっかけとなった等を、本の後ろの履歴書の項目に書いている。
>
> すでに紹介した啄木研究家西脇巽とはライバル関係らしく
> 互いに相手の本を批評しあい、自説が正しく、相手の説は根拠がないと酷評しあっているのがおもしろい。

雨情の三訓
その一 殺傷をしないこと 釣りも猟もしなかった。
その二 他人の作品について批評をしないこと 初心者には頼まれれば添削をしたが、既成詩人の作品には批評はさしひかえた。
その三 訪問者には快く会うこと
     学生の頃、文武の道に長けた人格者の乃木希典閣下に会いたくなり、突然訪問した。書生にどんな用件かと聞かれて、用件はないがただ会いたいから来たのだと言った。書生には閣下は忙しいのだから、用件がなければとりつぐことはできないと言われ、それではここで待つと上がりかまちに腰を下ろしてしまった。そのうちに軍服姿の乃木将軍が現れ応接室に招かれた。用もないのに来たのは君かと笑いながら、故郷はどこか、学籍は何かと聞かれ、和歌の勉強していますと答えると、閣下はひどく満足され格別勉強するようにと言ったという。

啄木の印象にもあるように
野口雨情という人は一見温和で、やさしく、気弱で内向的な印象を受けるが
実は芯は強い、こうと思ったことは最後までやりとげずにはおかない人である。

高松に旅行したら、たまたま旅館の前に「文芸講演会」のポスターが目についた。
よく見ると、その日の夜六時から高松公会堂で公開されることがわかった。
しかも講師の中に野口雨情が加わっていたので、思いがけないところで雨情にあえるのはまさに奇遇だと思って夕食もそこそこに会場の公会堂へ出かけた。
ところが会場の入口に行ったところ電気も消されて森閑としている。所と時間を間違えたかと思って町のポスターを見直してみても間違いではない。
不思議なことに主催者らしい人もいない。しばらくして公会堂の係員のような男が出てきたので聞いてみると「講演会は取りやめになった」と教えてくれた。
そのうちに主催者側らしい人が現れて、真相をただすと、当局の弾圧によって開催が不可能になったことが判明した。
さらに執拗に質問したところ「講師の中に赤の人がいるからだ」とのことだった。
そこで講師は今どこにいるのかと聞いたら「高松警察署にいます」というから、明日会見するはずの香川県知事に電話して、野口雨情という男は赤でもなんでもない。いま高松警察署にいるからすぐ釈放するように電話してくれと頼んだ。知事も野口さんを知っているからすぐ電話してくれた。待つほどもなく野口さんを先頭に秋田雨雀らその夜の講師たちがぞろぞろ刑事室から出てきた(斉藤仁)

雑誌「金の星」大正十一年一月号には次の記事がある。
子どもの情操を養う上からも童謡はもっと意義のあることという信念のもと、東京市内の貧民窟と称された場所を巡って、自ら路頭に立ち、その作品「人買船」に象徴されるような悲劇の存在する時代を生きねばならなかった子どもたちに、童謡を通して豊かな感性を育もうとしたのである。
路頭講演としては、貧民窟で有名な東京小石川西丸町の路傍に立って、童謡のお話をしたり、童謡を歌ったりして大勢の子どもたちに聞かせた。
子どもたちは野口先生の羽織や袖や袴につかまって、涙をうかべて聞いていた。野口先生も涙を浮かべて幾度も幾度も歌った。往来の人々もまた立ち止まって聞いていた。
かつては、第四皇子澄宮殿下に「千代田のお城のはとぽっぽ」を献上し、宮廷詩人とまでいわれた野口先生が、引き続きこうして東京市内の貧民窟を回り歩いて、童謡会に行くことのできない貧しい家の子どもたちに歌って聞かせるということは、野口先生でなければとうていできないことである。

この他、有段者の菊池寛と将棋をしたことが紹介されている。
菊池寛と将棋を指したところ、「まいりました。まいりました」と腰が低く、へりくだったように言いながら、雨情は菊池に攻めるだけ攻めさせて、攻守にばかりまわっている。
そのうちに攻勢に出た雨情はとうとう菊池を追い詰めて、菊池は負けてしまった。
試合は三番試合であったが、雨情二勝で菊池が一勝であった。
さりげなく一勝は菊池に譲った雨情であった。

> ・小説「漂白」の原風景はどこか
>   西脇巽の「住吉海岸説」は根拠がわからず説得力はない。これに対して、著者の「新川河口説」は明確な理由を示しているから読者にも了解されるだろう。

井上は砂丘のあったころの昔の大森浜を知っているから
砂丘などないという西脇の論考を頭から否定している。
さて、私としては
この井上自身が書いているように
 >   赤い靴のモデルについてはいろいろな説があるが....著者としては、歌のモデル探しは必要がないと思う。
歌のモデルはあってもなくてもかまわないと思う。
作者自身に聞いたとしても正確に、あれは○○のことですとは言い切れないだろう。
それまでの作者の経験や心に浮かんだことからの、その時の集大成として作品が生まれたわけで、同じ作者にしても別の機会には別の違った作品をつくるかもしれない。

この著者が述べているように
雨情の七つの子の七つの意味を問うことのむなしさや「波浮の港」は東南を向いているから夕焼けになるはずがないとか「夜霧に消えたチャコ」の一節「青いネオンが泣いている」のナンセンスなど、歌とはそういうものであり
あまり詮索してもしようがないものなのだ。(自然科学や医学の論文なら一語一語誤りがあってはいけないだろうが)
だから
啄木の「東海の」の歌も、どこで作られた歌だとか、どういう思いがあった歌なのかということは断定できないので、それを詮索しても議論してもどれが正しいということは結論が出ないのではないか。

もっとも、そういうふうに言ってしまえば、啄木の歌の研究や他の文学作品の論評などは、絶対的な価値がないということになる。
それらは詩歌や文学を考える上で手がかりになったり、作品を味わう上での助けになるかもしれないが、つまるところそれだけのことではないだろうか。
違う人が、他の解説者の意見に従わず、その人独自の解釈や感動があってもいいと思う。
人それぞれ生まれ育ちも違うし、それまでの環境条件が違うのだから、同じ作品を読んでも感想が異なるのはあたりまえであろう。

私がここにいたったのは最近読んだ奥本大三郎の本に
夏目漱石が外国文学を読む二つの方法を紹介していたからである。
その一
「言語の障害という事に頓着せず、明瞭も不明瞭も容赦なく、西洋人の意見に合うが合うまいが、顧慮する所なく、何でも自分がある作品に対して感じた通りを遠慮なく分析してかかる」方法
その二
「西洋人がその自国の作品に対しての感じ及び分析を諸書からかり集めてこれを諸君の前に陳列して参考に供する」方法


[No.16206] 西脇巽「石川啄木 東海歌二重歌格論」 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/03(Fri) 11:48
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井上信興:野口雨情そして啄木
> > この著者も医師である。
> > 広島県出身で、戦前函館に住み、盛岡で学生生活を送ったから
> > 石川啄木研究に入るきっかけとなった等を、本の後ろの履歴書の項目に書いている。
> >
> > すでに紹介した啄木研究家西脇巽とはライバル関係らしく
> > 互いに相手の本を批評しあい、自説が正しく、相手の説は根拠がないと酷評しあっているのがおもしろい。

井上信興
 広島県出身、戦前函館に住み、盛岡で学生生活を送った医師
西脇巽
 福井県出身、小学4年から高校卒業まで函館に住み、弘前大学卒業の医師
この二人は函館に住んだ時期は違うが、明治のころ啄木の散歩した大森浜を議論している。

大学の図書館に
西脇巽「石川啄木 東海歌二重歌格論」(2007)
を見つけたので読んでみました。

> > ・小説「漂白」の原風景はどこか
> >   西脇巽の「住吉海岸説」は根拠がわからず説得力はない。これに対して、著者の「新川河口説」は明確な理由を示しているから読者にも了解されるだろう。
>
> 井上は砂丘のあったころの昔の大森浜を知っているから
> 砂丘などないという西脇の論考を頭から否定している。

啄木の東海の短歌の場所を
大森浜に限定して、それ以外の海岸説を否定しているのは
井上信興と西脇巽である。ほかの研究者は大森浜以外の説らしい。

ところが
西脇巽の「住吉海岸説」

井上信興の「新川河口説」
は互いに相容れないものらしい。

啄木当時の大森浜や小説「漂白」の描写から
説明する西脇巽の「住吉海岸説」のほうが
私には納得できそうなのだが.....
まあ、そう感じるというくらいだが。

いろいろ説があって、決定的な証拠などないから
それぞれ楽しめて読者にはけっこうなことだが
当の本人にとっては眠れなくなるくらいの問題で
生きるばねになっているかもしれない。


[No.16212] Re: 西脇巽「石川啄木 東海歌二重歌格論」 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/04(Sat) 09:15
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> 井上信興
>  広島県出身、戦前函館に住み、盛岡で学生生活を送った医師
> 西脇巽
>  福井県出身、小学4年から高校卒業まで函館に住み、弘前大学卒業の医師
> この二人は函館に住んだ時期は違うが、明治のころ啄木の散歩した大森浜を議論している。

啄木の妹光子による
啄木妻節子と啄木一家を経済支援してくれた宮崎郁雨の不倫
いわゆる「節子の晩節問題」であるが
この不倫はあったとする研究者となかったとする研究者がいて
井上信興も西脇巽もなかったとする立場なのだが
節子と小姑光子の関係をめぐって
井上信興と西脇巽の意見は違うらしい。

井上信興説では
啄木の墓を立待岬に作ったときから
節子と光子の仲が急に悪くなったとする。
節子は盛岡に行ったりして、啄木の父の実家の平や啄木故郷の渋民に墓をつくることを検討するが
とても無理だということがわかって
おそらく宮崎郁雨のすすめもあって函館に啄木の墓を作ったのであろう。
そのとき、光子や啄木の父にも無断で墓を函館に作ったことから
光子の怒りが生じ、以後光子の節子糾弾が続くようになったとするのである。

いっぽう
西脇巽説では
啄木の墓をつくったことで
光子と節子の間は決定的に悪くなったが
それ以前から仲は悪かったこと、その原因は
宮崎郁雨の結婚にあったとするのである。
すなわち
郁雨は最初啄木の妹光子を妻にしたいと啄木に話したところ
啄木は郁雨の家族が多く、その複雑な家族関係の中では
勝ち気な光子の性格ではとてもつとまらないだろうと考えて断った。
そして、むしろ節子の妹のフキのほうが良いと考えてフキを勧めたという。
フキも父親から教えを受けて、大家族の中で苦労しながらも宮崎家でつくした。
後年、啄木は光子にフキは犠牲になったようなものだと語ったという。

しかし
光子の立場で言えば
どうやら自分不在のところで、啄木と郁雨が相談したらしい。
自分が断ったのならともかく、もしかすると郁雨の妻となれたかもしれなかった
ということは、人生をふりかえるとき、あのとき違っていれば(こうはならず、もっと幸せになっていたのではないか)
と思うことがあったのではないか。
光子は兄に文句を言いたくても言えず、しらずしらずに
それは節子のせいにするようになったのではないか
自分がなるはずだった郁雨の妻の座を節子の妹が占めたのだから
節子に怒りを向けたとしても不自然ではない。
という西脇巽の説明は私は納得ができるようです。
  最初から、啄木と郁雨は光子に相談すればよかった。そこで、光子が縁談を断れば光子は納得したろう。あるいは光子が郁雨の妻となったら、もしかすると一騒ぎも二騒ぎにもなったかもしれないが....

もうひとつ
啄木ファンの心理について書いておきます。
以前に紹介しましたが
金田一京助の息子春彦の啄木感です
>石川啄木については父京助は数少ない理解者の一人であったが
>京助の妻つまり著者の母親は激しく啄木を憎んでいた。
>貧しい学者の家に来て、借金を繰り返し、京助の妻の結婚時に持ってきた着物はすべて
>質屋の倉の中に消えた。それもこれも疫病神石川啄木のせいだと、幼い春彦に毎晩聞かせていたらしい
http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/wforum.cgi?no=15872&mode=allread#15872

啄木の文学的業績を評価する人がいる一方
反対に啄木の悪い面のみ強調する人がいるとして
啄木批判者の例としてあげられるのが金田一春彦です。

この著者は、金田一春彦は啄木理解者の父と啄木批判の母の両方の気持ちを大事にするから
どちらでもないと断っていますが
著者の気持ちとしては、金田一春彦は母親の気持ちを世に広めてほしくないようです。
啄木のせいで
ただでさえも苦しい学者の家計が一層経済的に悲惨になった。
それが事実としても、後年啄木の唯一の理解者であり親友であり同郷の人である
金田一京助は、啄木を題材に多くの書き物を残し、それから得た収入は啄木に費やしたものを上回ったのではないか。
そして
妻の着物を啄木が質に入れて全部返ってこなかったとしても
それは夫が友情を大切にしてしたことなので
直接の原因は啄木にあったとしても、それを認めた夫にこそ原因があったのだから
啄木を恨まず、京助を恨むべきだというのですが、これは現代の人が読むとどうなのでしょうか。
 イスラム社会では、妻が結婚の時に持ってきたものは妻のもので、離婚した時も持ち帰ることを保証されているのですが、日本はイスラム世界ではないといってしまえばそうなのですが....

もうひとつ、しつこいのですが紹介します。
昭和61年3月14日
上野商店街の歌碑の除幕式
この歌碑の書を揮毫し除幕式では除幕の幕引き役まで行った金田一春彦は、啄木文学の普及に協力した。
同じ昭和61年に小樽文学館で特別展「石川啄木・小樽ー北の旅」
学芸員玉川薫は準備のため
世田谷区の宮崎捷郎(郁雨長男)を訪ねる。そのとき啄木長女京子の長男石川玲児(啄木の孫)も同席する。
郁雨や啄木などの写真の貼ってあるアルバムを見せられる。
翌日に玉川は金田一春彦に電話する。
学会では若い玉川の発表に優しく声をかけてくれた金田一春彦だったが、厳しい電話の返事だった。
「啄木に関することには、一切ご協力することはできません」
「啄木が、私ども一家に、どれほど迷惑をかけたか、幼かった私も、それを今でも忘れることはできない」
「父は良かろう。父にとっては、啄木は確かに、生涯の親友でありましたでしょう。だが母は」
「母の苦労を間近に見ていた私たちは、私たちの家庭に、こんなに深い傷を負わせた石川啄木という人をけっして許すまい、と思ったのです」
「学者としてではない、個人的な感情からだ、と理解してくださってけっこうです」
 これから17年後に玉川は活字にして発表した。