[No.15923]
Re: 井上信興:野口雨情そして啄木
投稿者:男爵
投稿日:2010/10/14(Thu) 09:29
[関連記事] |
> この著者も医師である。
> 広島県出身で、戦前函館に住み、盛岡で学生生活を送ったから
> 石川啄木研究に入るきっかけとなった等を、本の後ろの履歴書の項目に書いている。
>
> すでに紹介した啄木研究家西脇巽とはライバル関係らしく
> 互いに相手の本を批評しあい、自説が正しく、相手の説は根拠がないと酷評しあっているのがおもしろい。
雨情の三訓
その一 殺傷をしないこと 釣りも猟もしなかった。
その二 他人の作品について批評をしないこと 初心者には頼まれれば添削をしたが、既成詩人の作品には批評はさしひかえた。
その三 訪問者には快く会うこと
学生の頃、文武の道に長けた人格者の乃木希典閣下に会いたくなり、突然訪問した。書生にどんな用件かと聞かれて、用件はないがただ会いたいから来たのだと言った。書生には閣下は忙しいのだから、用件がなければとりつぐことはできないと言われ、それではここで待つと上がりかまちに腰を下ろしてしまった。そのうちに軍服姿の乃木将軍が現れ応接室に招かれた。用もないのに来たのは君かと笑いながら、故郷はどこか、学籍は何かと聞かれ、和歌の勉強していますと答えると、閣下はひどく満足され格別勉強するようにと言ったという。
啄木の印象にもあるように
野口雨情という人は一見温和で、やさしく、気弱で内向的な印象を受けるが
実は芯は強い、こうと思ったことは最後までやりとげずにはおかない人である。
高松に旅行したら、たまたま旅館の前に「文芸講演会」のポスターが目についた。
よく見ると、その日の夜六時から高松公会堂で公開されることがわかった。
しかも講師の中に野口雨情が加わっていたので、思いがけないところで雨情にあえるのはまさに奇遇だと思って夕食もそこそこに会場の公会堂へ出かけた。
ところが会場の入口に行ったところ電気も消されて森閑としている。所と時間を間違えたかと思って町のポスターを見直してみても間違いではない。
不思議なことに主催者らしい人もいない。しばらくして公会堂の係員のような男が出てきたので聞いてみると「講演会は取りやめになった」と教えてくれた。
そのうちに主催者側らしい人が現れて、真相をただすと、当局の弾圧によって開催が不可能になったことが判明した。
さらに執拗に質問したところ「講師の中に赤の人がいるからだ」とのことだった。
そこで講師は今どこにいるのかと聞いたら「高松警察署にいます」というから、明日会見するはずの香川県知事に電話して、野口雨情という男は赤でもなんでもない。いま高松警察署にいるからすぐ釈放するように電話してくれと頼んだ。知事も野口さんを知っているからすぐ電話してくれた。待つほどもなく野口さんを先頭に秋田雨雀らその夜の講師たちがぞろぞろ刑事室から出てきた(斉藤仁)
雑誌「金の星」大正十一年一月号には次の記事がある。
子どもの情操を養う上からも童謡はもっと意義のあることという信念のもと、東京市内の貧民窟と称された場所を巡って、自ら路頭に立ち、その作品「人買船」に象徴されるような悲劇の存在する時代を生きねばならなかった子どもたちに、童謡を通して豊かな感性を育もうとしたのである。
路頭講演としては、貧民窟で有名な東京小石川西丸町の路傍に立って、童謡のお話をしたり、童謡を歌ったりして大勢の子どもたちに聞かせた。
子どもたちは野口先生の羽織や袖や袴につかまって、涙をうかべて聞いていた。野口先生も涙を浮かべて幾度も幾度も歌った。往来の人々もまた立ち止まって聞いていた。
かつては、第四皇子澄宮殿下に「千代田のお城のはとぽっぽ」を献上し、宮廷詩人とまでいわれた野口先生が、引き続きこうして東京市内の貧民窟を回り歩いて、童謡会に行くことのできない貧しい家の子どもたちに歌って聞かせるということは、野口先生でなければとうていできないことである。
この他、有段者の菊池寛と将棋をしたことが紹介されている。
菊池寛と将棋を指したところ、「まいりました。まいりました」と腰が低く、へりくだったように言いながら、雨情は菊池に攻めるだけ攻めさせて、攻守にばかりまわっている。
そのうちに攻勢に出た雨情はとうとう菊池を追い詰めて、菊池は負けてしまった。
試合は三番試合であったが、雨情二勝で菊池が一勝であった。
さりげなく一勝は菊池に譲った雨情であった。
> ・小説「漂白」の原風景はどこか
> 西脇巽の「住吉海岸説」は根拠がわからず説得力はない。これに対して、著者の「新川河口説」は明確な理由を示しているから読者にも了解されるだろう。
井上は砂丘のあったころの昔の大森浜を知っているから
砂丘などないという西脇の論考を頭から否定している。
さて、私としては
この井上自身が書いているように
> 赤い靴のモデルについてはいろいろな説があるが....著者としては、歌のモデル探しは必要がないと思う。
歌のモデルはあってもなくてもかまわないと思う。
作者自身に聞いたとしても正確に、あれは○○のことですとは言い切れないだろう。
それまでの作者の経験や心に浮かんだことからの、その時の集大成として作品が生まれたわけで、同じ作者にしても別の機会には別の違った作品をつくるかもしれない。
この著者が述べているように
雨情の七つの子の七つの意味を問うことのむなしさや「波浮の港」は東南を向いているから夕焼けになるはずがないとか「夜霧に消えたチャコ」の一節「青いネオンが泣いている」のナンセンスなど、歌とはそういうものであり
あまり詮索してもしようがないものなのだ。(自然科学や医学の論文なら一語一語誤りがあってはいけないだろうが)
だから
啄木の「東海の」の歌も、どこで作られた歌だとか、どういう思いがあった歌なのかということは断定できないので、それを詮索しても議論してもどれが正しいということは結論が出ないのではないか。
もっとも、そういうふうに言ってしまえば、啄木の歌の研究や他の文学作品の論評などは、絶対的な価値がないということになる。
それらは詩歌や文学を考える上で手がかりになったり、作品を味わう上での助けになるかもしれないが、つまるところそれだけのことではないだろうか。
違う人が、他の解説者の意見に従わず、その人独自の解釈や感動があってもいいと思う。
人それぞれ生まれ育ちも違うし、それまでの環境条件が違うのだから、同じ作品を読んでも感想が異なるのはあたりまえであろう。
私がここにいたったのは最近読んだ奥本大三郎の本に
夏目漱石が外国文学を読む二つの方法を紹介していたからである。
その一
「言語の障害という事に頓着せず、明瞭も不明瞭も容赦なく、西洋人の意見に合うが合うまいが、顧慮する所なく、何でも自分がある作品に対して感じた通りを遠慮なく分析してかかる」方法
その二
「西洋人がその自国の作品に対しての感じ及び分析を諸書からかり集めてこれを諸君の前に陳列して参考に供する」方法