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[No.16212] Re: 西脇巽「石川啄木 東海歌二重歌格論」 投稿者:男爵  投稿日:2010/12/04(Sat) 09:15
[関連記事

> 井上信興
>  広島県出身、戦前函館に住み、盛岡で学生生活を送った医師
> 西脇巽
>  福井県出身、小学4年から高校卒業まで函館に住み、弘前大学卒業の医師
> この二人は函館に住んだ時期は違うが、明治のころ啄木の散歩した大森浜を議論している。

啄木の妹光子による
啄木妻節子と啄木一家を経済支援してくれた宮崎郁雨の不倫
いわゆる「節子の晩節問題」であるが
この不倫はあったとする研究者となかったとする研究者がいて
井上信興も西脇巽もなかったとする立場なのだが
節子と小姑光子の関係をめぐって
井上信興と西脇巽の意見は違うらしい。

井上信興説では
啄木の墓を立待岬に作ったときから
節子と光子の仲が急に悪くなったとする。
節子は盛岡に行ったりして、啄木の父の実家の平や啄木故郷の渋民に墓をつくることを検討するが
とても無理だということがわかって
おそらく宮崎郁雨のすすめもあって函館に啄木の墓を作ったのであろう。
そのとき、光子や啄木の父にも無断で墓を函館に作ったことから
光子の怒りが生じ、以後光子の節子糾弾が続くようになったとするのである。

いっぽう
西脇巽説では
啄木の墓をつくったことで
光子と節子の間は決定的に悪くなったが
それ以前から仲は悪かったこと、その原因は
宮崎郁雨の結婚にあったとするのである。
すなわち
郁雨は最初啄木の妹光子を妻にしたいと啄木に話したところ
啄木は郁雨の家族が多く、その複雑な家族関係の中では
勝ち気な光子の性格ではとてもつとまらないだろうと考えて断った。
そして、むしろ節子の妹のフキのほうが良いと考えてフキを勧めたという。
フキも父親から教えを受けて、大家族の中で苦労しながらも宮崎家でつくした。
後年、啄木は光子にフキは犠牲になったようなものだと語ったという。

しかし
光子の立場で言えば
どうやら自分不在のところで、啄木と郁雨が相談したらしい。
自分が断ったのならともかく、もしかすると郁雨の妻となれたかもしれなかった
ということは、人生をふりかえるとき、あのとき違っていれば(こうはならず、もっと幸せになっていたのではないか)
と思うことがあったのではないか。
光子は兄に文句を言いたくても言えず、しらずしらずに
それは節子のせいにするようになったのではないか
自分がなるはずだった郁雨の妻の座を節子の妹が占めたのだから
節子に怒りを向けたとしても不自然ではない。
という西脇巽の説明は私は納得ができるようです。
  最初から、啄木と郁雨は光子に相談すればよかった。そこで、光子が縁談を断れば光子は納得したろう。あるいは光子が郁雨の妻となったら、もしかすると一騒ぎも二騒ぎにもなったかもしれないが....

もうひとつ
啄木ファンの心理について書いておきます。
以前に紹介しましたが
金田一京助の息子春彦の啄木感です
>石川啄木については父京助は数少ない理解者の一人であったが
>京助の妻つまり著者の母親は激しく啄木を憎んでいた。
>貧しい学者の家に来て、借金を繰り返し、京助の妻の結婚時に持ってきた着物はすべて
>質屋の倉の中に消えた。それもこれも疫病神石川啄木のせいだと、幼い春彦に毎晩聞かせていたらしい
http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/wforum.cgi?no=15872&mode=allread#15872

啄木の文学的業績を評価する人がいる一方
反対に啄木の悪い面のみ強調する人がいるとして
啄木批判者の例としてあげられるのが金田一春彦です。

この著者は、金田一春彦は啄木理解者の父と啄木批判の母の両方の気持ちを大事にするから
どちらでもないと断っていますが
著者の気持ちとしては、金田一春彦は母親の気持ちを世に広めてほしくないようです。
啄木のせいで
ただでさえも苦しい学者の家計が一層経済的に悲惨になった。
それが事実としても、後年啄木の唯一の理解者であり親友であり同郷の人である
金田一京助は、啄木を題材に多くの書き物を残し、それから得た収入は啄木に費やしたものを上回ったのではないか。
そして
妻の着物を啄木が質に入れて全部返ってこなかったとしても
それは夫が友情を大切にしてしたことなので
直接の原因は啄木にあったとしても、それを認めた夫にこそ原因があったのだから
啄木を恨まず、京助を恨むべきだというのですが、これは現代の人が読むとどうなのでしょうか。
 イスラム社会では、妻が結婚の時に持ってきたものは妻のもので、離婚した時も持ち帰ることを保証されているのですが、日本はイスラム世界ではないといってしまえばそうなのですが....

もうひとつ、しつこいのですが紹介します。
昭和61年3月14日
上野商店街の歌碑の除幕式
この歌碑の書を揮毫し除幕式では除幕の幕引き役まで行った金田一春彦は、啄木文学の普及に協力した。
同じ昭和61年に小樽文学館で特別展「石川啄木・小樽ー北の旅」
学芸員玉川薫は準備のため
世田谷区の宮崎捷郎(郁雨長男)を訪ねる。そのとき啄木長女京子の長男石川玲児(啄木の孫)も同席する。
郁雨や啄木などの写真の貼ってあるアルバムを見せられる。
翌日に玉川は金田一春彦に電話する。
学会では若い玉川の発表に優しく声をかけてくれた金田一春彦だったが、厳しい電話の返事だった。
「啄木に関することには、一切ご協力することはできません」
「啄木が、私ども一家に、どれほど迷惑をかけたか、幼かった私も、それを今でも忘れることはできない」
「父は良かろう。父にとっては、啄木は確かに、生涯の親友でありましたでしょう。だが母は」
「母の苦労を間近に見ていた私たちは、私たちの家庭に、こんなに深い傷を負わせた石川啄木という人をけっして許すまい、と思ったのです」
「学者としてではない、個人的な感情からだ、と理解してくださってけっこうです」
 これから17年後に玉川は活字にして発表した。


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