マルチメディア館 

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  • [No.13396] それから日韓交流会、山人さん 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/08(Mon) 13:58
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    > モラエスの資料は徳島の眉山公園にあるモラエス館に展示されてあります。
    >
    > 阿波おどり会館では偶然ですが
    > オリンピックのシンクロチームが集まっていました。

    このときは
    実は祖谷のかずら橋を見に行った後でした。
    大歩危小歩危の近くをちらっと見てから列車で徳島に移動です。
    徳島のモラエス館見学をしてから高速バスで大阪にたどりつき
    日韓交流会に参加したのです。

    このときは天橋立の思い出があります。
    日本三景の天橋立は私にとっても初めてでした。


    [No.13395] 阿波おどり会館のシンクロチーム 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/08(Mon) 13:52
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    モラエスの資料は徳島の眉山公園にあるモラエス館に展示されてあります。
    ロープウェイを利用すれば簡単に山頂にいかれますが
    私はふもとの阿波おどり会館に立ち寄ったため
    そこで時間がたくさんとられて
    山頂のモラエス館についたら見学時間は閉館まで30分を切っていました。
    それでも、なんとか少し見学時間の延長を認めていただき
    館内を駆け足で見学しました。

    阿波おどり会館では偶然ですが
    オリンピックのシンクロチームが集まっていました。
    どうやら音楽に阿波踊りのリズムを取り入れたので
    それに対して感謝状が贈られたようです。


    [No.13394] モラエス 投稿者:   投稿日:2010/03/07(Sun) 15:07
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    そういえば マカオと日本をつなぐポルトガル人がいたことを思い出しました。
    日本人女性と暮らして、彼女が亡くなると四国徳島で彼女の墓を死ぬまで守った知日家です。

     モラエスの簡単な履歴書
    1854年にポルトガルの首都リスボンに生まれる。
    海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官として奉職。
    1889年に初来日。マカオ港務局副司令を経て、外交官となる。
    1899年に日本に初めてポルトガル領事館が開設されると在神戸副領事として赴任、のち総領事となり、1913年まで勤める。

    モラエスは1902年から1913年まで、「コメルシオ・ド・ポルト(ポルト商業新聞)」に当時の日本を紹介して、それらは「Cartas do Japão(日本通信)」という6冊に本にまとめられた。

    神戸在勤中に芸者ヨネ(本名福本ヨネ)と出会い、ともに暮らすようになる。
    1912年にヨネが死ぬと、13年に職を辞し引退。ヨネの故郷である徳島市に移住した。
    ヨネの姪である斎藤コハルと暮らすが、コハルにも先立たれる。
    1929年、徳島市で死ぬ。


    [No.13393] 媽閣廟 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/07(Sun) 07:56
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    > いまもなおマカオ関係の本を見ています。
    > 菊間潤吾「マ> カオ歴史散歩」新潮社(2004)

    香港がアヘン戦争で暴力的にイギリス領になるまで
    マカオは唯一外国人の利用できる港町であった。香港以前のイギリスもマカオを港としていた。
    種子島の鉄砲伝来もマカオがなくては歴史上なかったであろう。
    ザビエルの右腕の遺骨も日本に安置されるはずだったがキリシタン受難の日本では無理だということになり、結局マカオの教会に納められた。
    アメリカ船もマカオを利用して、マカオから日本人漂流民を乗せたアメリカのモリソン号が出帆したという。
    モリソン号は結局鎖国の日本には追い返され受け入れられなかったが
    この事件をきっかけに高野長英や渡辺崋山は幕府の鎖国政策を批判し
    彼らの犠牲の上に日本は開国に向かう時代の流れとなる。

    さて
    ポルトガル人はこの港町を利用するようになって
    媽閣廟に祀る航海の女神「阿媽(アーマー)」の名にちなんで
    この町を「阿媽の湾(アマガウ)」と呼ぶようになった。
    それがしだいに簡略化されてマカオになったという説が紹介されている。
    なお中国名は澳門(オームン)である。

    航海の安全を守る阿媽、ときには媽祖と言われたり天后と呼ばれたりする。
    媽祖廟は香港にもあったが見る機会がなく、シンガポールの歴史博物館で
    その信仰の歴史を見ることができた。
    日本には横濱媽祖廟がある。


    [No.13386] Re: マカオから 投稿者:男爵  投稿日:2010/03/06(Sat) 09:57
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    画像サイズ: 620×570 (68kB)
    昨年11月に思いがけず行った
    マカオ
    滞在時間はわずか半日。

    それでも見てきたものを復習整理するため
    いまもなおマカオ関係の本を見ています。
    菊間潤吾「マカオ歴史散歩」新潮社(2004)

    この本にはさすがに歴史には詳しい
    そして
    日本との関係を他の本よりよく述べている。

    香港がアヘン戦争で暴力的にイギリス領になったのとは違い
    1557年ごろまでにポルトガル人のマカオ定住が広州の官憲に認められたことである。
    この定住許可の理由として、ポルトガル人による周辺海賊討伐の功績が認められたためとか、広州の官憲へ賄賂を贈ったためであるとか諸説があるが
    いずれにせよ、以後ポルトガル人は東アジアでの交易と布教の拠点を得たのであった。

    しかし、マカオの繁栄も1640年前後までであとは衰退に向かう。
    その原因は、日本の鎖国による日明間の中継貿易の利益消失であった。なにしろ1639年に江戸幕府はポルトガル船の来航を禁止し、オランダのみが日本と交易できる唯一のヨーロッパの国となったから。
    回りをみると、(ポルトガルとスペインの関係が悪くなり)スペイン領フィリピンとの貿易も途絶えたし、ポルトガル支配のマラッカもオランダにより陥落したのでマカオは孤立して衰退に向かっていった。

    アヘン戦争のあと、香港はイギリスの植民地となってから、マカオもそれまで払っていた地代を払わなくなり1887年にポルトガル領土となった。

    第二次世界大戦の時は、香港は日本に占領されたが、マカオは中立地帯となっていた。
    本国ポルトガルが中立政策をとったことに加え、日本は戦略的にマカオを中立化することで情報や物資を入手できる裏ルートを利用したとみることもできる。
    孫文も政治活動の出発地をマカオと考えることもできる。長い間、広州とマカオはヨーロッパ文化の窓口であった。

    写真は
    香港からのフェリーがマカオを到着するところ。
    これから簡単な入国手続きをしてマカオの町に入ります。
    写真だけだと、福岡からフェリーで釜山に入港するのと変わりありません。


    [No.13238] Re: マカオから 投稿者:ポテト  投稿日:2009/11/19(Thu) 17:13
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    > > ポルトガル語の読める唐辛子 紋次郎さんと一緒だったら
    > > もっとよく歩けたと思います。

    ガイドブックや地図をてらしあわせると
    この教会は聖ドミンゴ教会のようです。


    [No.13226] Re: マカオから 投稿者:ポテト  投稿日:2009/11/13(Fri) 20:14
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    > > これは恐らくペンニャ教会(西望洋聖堂)だろうと思うのですけど、

    案内してくれた人に聞いたら
    やはりペンニャ教会でした。


    [No.13221] Re: マカオから 投稿者:ポテト  投稿日:2009/11/10(Tue) 22:08
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    画像サイズ: 816×612 (68kB)
    > ポルトガル語の読める唐辛子 紋次郎さんと一緒だったら
    > もっとよく歩けたと思います。

    教会の中はこうでした。
    雰囲気は良かったです。
    思わずヨーロッパにいた自分を確認。


    [No.13220] Re: マカオから 投稿者:ポテト  投稿日:2009/11/10(Tue) 22:06
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    画像サイズ: 1000×738 (64kB)
    唐辛子 紋次郎さん こんばんは

    旧市街の町の広場で
    教会に入りました。
    とてもよい雰囲気でした。

    ポルトガル語の読める唐辛子 紋次郎さんと一緒だったら
    もっとよく歩けたと思います。


    [No.13219] Re: マカオから 投稿者:ポテト  投稿日:2009/11/10(Tue) 21:51
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    画像サイズ: 698×677 (82kB)
    唐辛子 紋次郎さん

    >  しかし、ポテトさんのおかげで紋爺もベンキョウしました。このマカオというのは単に歓楽の都であるばかりか、この日本にも関係が深いのですね。
    >
    >  秀吉などの弾圧を逃れて、海を渡った多数のキリシタンが、この地で教会建設などに汗を流したしたのだとか。
    >
    >  また、この世界遺産のファッサードの近くに、あの年端の行かない天正少年使節たちがヨーロッパ訪問の途次、足を休めたなどと聞くと、なにかマカオが、ぐっと身近に感じられてきます。

    ここに
    たくさんの日本人たちがいたのでしょう。  来たのでしょう。
      暑くてたいへんだったろうと思います。
    キリスト教 南蛮貿易
    しかし
    いまの私にとって、まだマカオは遠いのです。
    簡単にいくためには入国手続きが大変でした。


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