画像サイズ: 582×372 (26kB) | > 森鴎外・夏目漱石住宅 です。 > なんと、この家に > 時期は違うが、森鴎外と夏目漱石が住んでいたことがあるのです。
森鴎外 明治21(1888)年 26歳 7月ベルリンを出発してロンドン、パリを経由して9月帰国。
明治22(1889)年 27歳 3月海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚。 夏に根岸から下谷区上野花園町11番地に住む。 (この家は、池之端3丁目の水月ホテル鴎外荘に保存されています)
明治23(1890)年 28歳 9月長男於菟(おと)生まれる。妻登志子と離婚。 10月本郷駒込千駄木町57番地に転居。 この家は後に夏目漱石も住んだ家で、現在明治村にあるわけです。
夏目漱石は 1902年(明治35年)9月にロンドンを訪れた友人たちの間に 「夏目発狂」の噂が流れ、文部省もほおっておけず、漱石は急遽帰国を命じられ、 同年12月5日にロンドンを発つことになります。
(偶然ですが)帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、 精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したそうです。 (斎藤紀一の娘婿が斎藤茂吉で、孫にあたるのが斎藤茂太や北杜夫ですね)
漱石は英国留学から帰国後、1903年(明治36年)3月3日に、本郷区駒込千駄木町57番地に転入します(現在は日本医科大学同窓会館、敷地内に記念碑があります)。
東京帝大では小泉八雲の後任として学生を教えることになったが、 学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評でした。 また、当時の一高での生徒の中に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺したのです。 漱石は自分の厳しい言葉が藤村を自殺に追いやったのかと悩みます。
こうして日本に帰って来ても漱石を苦しめることが続き、神経衰弱に悩むのです。
そして、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆します。
明治村にある漱石の家にある日迷い込んできた猫 その猫をモデルに書いた「吾輩は猫である」 まことに、漱石の妻のいうとおり、幸運をもたらす猫だったのです。
ドイツで元気に留学生活を送った森鴎外に対し ロンドンで精神病におちいったと言われる夏目漱石
この二人の対比される留学に対して 片方(鴎外)は若い時の留学であるのに対し、もう片方(漱石)は37歳でロンドンに渡ったという違い (鴎外の若い柔軟なときの楽しいドイツ留学に対し、ある程度人生観もできていた漱石はなかなかロンドンの生活にとけこみにくかっのではないか) あるいは 片方は医学という実学なので成果は目に見えるが、もう片方は文学というなかなか成果の見えない世界(虚学)だったから などと分析する議論があります。
ロンドンで苦しんだ漱石は、英文学では得られなかった日本文学のあり方を 日本に帰ってから必死に求め、苦しみながら、日本の文学界をリードする成果を上げるのです。
イギリス留学は漱石に何の成果も上げなかった だから、日本に帰ってから漱石は苦しみながら独自の文学の世界を創造した イギリス留学は作家漱石にとって、日本の文学にとって必要なものであった そう分析する人もいます。 |