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父から聞いた「関東大震災の思い出」 大正14年生まれのY

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/6/9 7:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 父は震災の前年、大正11年《1922》に母と結婚、中央線大久保駅の近くに居を構えた。
 母は当時まだ18歳のうら若き娘であった。震災当日、父は勤め先であるM社のある丸ビルの六階でちょうど食事を始めようとするところだった。ここは会社の食堂になっていた。

 ここで未曾有《みぞう》の大震災に遭遇した父の話は、歳の行かない子供にとっては驚くことばかりだった。

 まだその年の4月に竣工《しゅんこう=落成》したばかりの丸ビルは、当時の最新技術を結集して三菱地所とフラー社が共同で建設したもので、見るからに頑丈そうな9階建て(地下をいれて)の近代的なビルだった。その大きさ、設備は東洋一と持て囃《はや》された。それが大揺れに揺れたばかりか、最初のひと揺れで、まずカレーの皿とフォークがテーブルから床に落ちた。さらに10分後に襲った大揺れで、この大ビルが胴震いし、外壁の化粧レンガのほとんどが、雨のように地面に落下したという。

 ビルの住人は慌てふためき、この地震から逃れようと、階段を上る人、降りる人でごった返し、踊り場でもつれ合い、折り重なって、各階ごとに軽傷者も出た。当日は、その後も何度も揺り返しが来たが、歩いて東京駅まえの丸の内から大久保の自宅へ戻った。残された家族はどうかと見ると、母は近所の人たちと一緒に、森の中に蚊帳《かや》をつり、茣蓙(ござ)の上に敷いた布団の上で、ブルブル震えていたそうだ。母などまだ、18の小娘でさぞかし怖かったことであろう。

 交通機関も大きな痛手を受け、その後一ヶ月間は電車も止まったまま。仕方なく毎日、丸の内の会社まで、歩いて通勤した。会社から証明書を書いて貰い、それを提示して、地下室でなにがしかの食料を受け取り、リュックに詰めて背負い、鉄橋の上も足元がふらつくのを我慢して歩き、家へ着いた時はもうあたりも暗くなっていた。こういう日々が何日も続くのでまるっきり仕事にならなかったらしい。

 関東大震災は9月1日の一日だけだと思ったら、大間違いで、二十日くらいは毎日のように、大揺れが来て、箪笥《たんす》から花瓶や本がバラバラと落ち、家では怖くて安眠できなかったと云う話だ。 


 テキスト作成者  Kazuo(記録提供者の弟) 

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編集者 (代理投稿)

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