明治・大正・昭和を歩んだ祖父の記録から
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- 明治・大正・昭和を歩んだ祖父の記録から (自然, 2008/1/28 21:41)
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投稿日時 2008/1/28 21:41
自然
居住地: 横浜(福井)
投稿数: 22
大正生まれながら4年後には昭和に改元し 時代を回顧するものと言えば父に寄り添った姉弟と いま一つは母に抱かれた姉か吾れか判別 しかねるニ葉が手元にあるだけだが その幼児も平成19年の今日では共々が傘齢《さんれい=80台》台代半ばを越えた翁媼《おうおん=おきなとおみな》
を忝 している次第だが 5月中頃だったが「明治44年」と記した母方祖父の日記がコピーされて届いたのである 百年の時の隔りは前・現・来三世の未だ現世に生まれる前の執筆で この時点では赤の他人さまの祖父51歳と母16歳少女が記入れているではないか 父と母が結ばれたのは大正8年だから奇である されど記録の内容は吾が一大転機を画した 戦前の朝鮮在住27年間を育くまれた寺院の創建記録《そうけんきろく》即ち「朝鮮開教誌」と題した第壱回から第三回までの現地行動は延べ153日に亘る大正元年10月23日までの延べ一年間に及んだ百頁に亘る 筆書き細字詰の記述には唯々驚き 漢文調の変体仮名に加えて熟語堪能な文章には 半年掛けて漢・ 和・書道字典を繰って解読に当たったが 慶応に生まれ明治 ・大正 ・昭和初期まで活躍した祖父の筆跡に接したのだから感激一入《ひとしお》
であった 行程は発地から列車で下関までの30時間 連絡船13時間の釜山港から南部の倭館へ3時間かけて南部の慶尚北道の倭館近郊及へ入り 地区によっては乗馬 に代えて訪ね 北部の平壌へも足を延ばしている
以下 時代に接し戴けばと原文を括弧書にして紹介すると 先ずは南鮮の拠点安東へは鉄道沿線の大邱・倭館・金泉以降は乗馬にて行動し 「10時発19時尚州城内に着守備隊御招待 楼上ニテ兵士二御演説 官民合同追悼会法会 御親教ノ後演錬」と 記し「6時安東二向カイ18時醴泉郡ニ一泊翌9時安東ヘ出発 (此間六里ナレバ12時頃ニ着ノ心算ニテ弁当不用ト断リテ出立ス而ルニ道路嶮悪ノ為時間ヲ消費ス 又空腹ニテ困難セリ迷惑如斯《めいわくかくのごとし》 漸ク四時安東地内ニ安着セリ 法筵ヲ開キ官民一致先死者法会」 と開教の基盤を施行している
続けて十里ほどの栄川・醴泉・尚州を馬で巡回し 尚州では天長節の11月3日の前日だったことからか「祝賀用タル掛行灯ノ狂歌ヲ書スルヲ依頼サレ其数凡ソ百個ヲ三方ニ書シ」 「翌三日朝大行灯ニ水中ヨリ日ノ半分昇ルヲ画キ天長節ヲ祝スト大字ヲ書シタリ」に続けて この当りについて「栄川郡ハ尚州・安東モ危 険地ナレバ我人も容易二往タルナシトテ停止セシヲ ピストルヲ借持シテ往タレバ所持金ハ勿論預入シテ往還セ シナリ カカル恐怖ノ用ヲ無事ニ帰尚シ特ニ天長節ニ値遇スルモノ ナレバ喜躍無窮《きじゃくむきゅう》ニアリタリ特ニ伊助招待シテ西洋料理ノ饗応ヲ受タリ」とある
この後終盤の11月中旬には本命たる平壌を訪れ 四日間滞在して一次の行程をえ二次のM45/4/25~6/16日の倭館・尚州・安東の開教を成した後 45年6月25日から29日に再訪した「平壌に寺院設立」を決定しているが 総括言「開教の至難なる処普通之談《ところふつうのだん》にあらざるわ人能く知処奈り・・」に始まる併合間ない土地での開拓につ いては「其局に当たり時機を失し資量に乏しきもの豈《あに》容易の業たるを得ん」 と認識 されど自らは「一片の丹心貫通するが佛祖加被力《ぶっそかひりょく》の恩なるを知る」と真情を表明し憚 らぬ決断の程が随処に記されている
ことの経過は終戦を契機にして総て消滅し遺された記録すら如何かを知る由もないが その衝にあった唯一の存命者たる吾は人生の貴重な一画を占める一大事に触れ得て 大正・昭和・平成との三暦年の大正期の気鋭の一片を披露しました
自然
居住地: 横浜(福井)
投稿数: 22
◎ 百年のときを経て交わる後日譚
百年前の1911年に書留めた日誌に「我が子孫の為之を
誌す」とて 未だ少女年頃の母が登場し 其の十年後に
は父と結縁 2年後に我れが子孫に連なった
やがて先の草稿は本稿に改定され 披見は2007年である
から 孫たる我は既に祖父を十歳も超えて一世紀後に及ん
で事細かに述べられた事実に接した
この外地居住は 父母の身罷った後も幼年から24年間に
及び 終戦を境に今日までの間 祖父に接した人達からは
何も聞く事無く「何故?」との自問を解く術べを失したが
記録に登場した亡き有縁の人達の真実の一々が想起され
それは自ずから「感応道交」の哲理を諦聴せしめ 総てが
心情豊かに解され 一々の文字を懐かしく拝しいる
百年前の1911年に書留めた日誌に「我が子孫の為之を
誌す」とて 未だ少女年頃の母が登場し 其の十年後に
は父と結縁 2年後に我れが子孫に連なった
やがて先の草稿は本稿に改定され 披見は2007年である
から 孫たる我は既に祖父を十歳も超えて一世紀後に及ん
で事細かに述べられた事実に接した
この外地居住は 父母の身罷った後も幼年から24年間に
及び 終戦を境に今日までの間 祖父に接した人達からは
何も聞く事無く「何故?」との自問を解く術べを失したが
記録に登場した亡き有縁の人達の真実の一々が想起され
それは自ずから「感応道交」の哲理を諦聴せしめ 総てが
心情豊かに解され 一々の文字を懐かしく拝しいる