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宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 唐辛子 紋次郎

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2011/3/6 8:14
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

はじめに


 スタッフより

 この投稿(含・返信)は、メロウ倶楽部の公開サイト「大正の部屋」への投稿(2008/03/28)を、投稿者またはご家族(含・返信者)のご承諾を得て転載するものです。

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 この歌劇団誕生に大きな役割を果たしたのが、阪急電鉄の専務(当時)有名な小林一三だと聞く。明治の終わりに何もなかった田舎町、宝塚に、あらたに温泉場を作り、元号の変わった翌年の大正元年には、パラダイスという名の娯楽場までオープンさせた、とある。

 お客は連日押しかけ大盛況だったが、室内プールだけが不評。ここを改造して、ここでイヴェントをやった。その幕間にやったのが、少女たちによる唱歌だった。これが、後のワールドフェイマスな「ベルバラ」の舞台にまで発展するとは、誰も予測しなかった、と。

 あっしはこの方面には疎いが、大昔のスターには春日野八千代(大正4年生まれ)だの、音羽信子(大正13年生まれ)、淡島千景(大正13年生まれ)、月丘夢路(大正11年生まれ)などがいたとか。この方面にお詳しい、ありませんか?

  http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/sumireno_hana_sakukoro.htm
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2011/3/6 8:18
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 唐辛子紋次郎さん  こんにちは

 大正人ではありませんが(^_-)

引用:
あっしはこの方面には疎いが、大昔のスターには春日野八千代(大正4年生まれ)だの、音羽信子(大正13年生まれ)、淡島千景(大正13年生まれ)、月丘夢路(大正11年生まれ)などがいたとか。この方面にお詳しい、ありませんか?
 4~5才のころ(昭和11~12)兄と一緒に母に連れられてよく見に行った記憶があります。子供心にも覚えているのは天津乙女、春日野八千代、霧立のぼる、深緑夏代、越路吹雪などの名前です

 淡島千景、久慈あさみ、新珠三千代、月丘夢路などは戦後に映画スターになってからスクリーンで見ました

 宝塚大劇場は戦時中は海軍に接収され宝塚海軍航空隊の予科練生の宿舎でした。兄(昭和5年生)も予科練に志願してそこで訓練を受けていました

 そんな関係で宝塚歌劇と予科練は縁があり「すみれの花」と「荒鷲の歌」は一緒に歌われるころがあるそうです。宝塚大劇場に通じる「花の道」には元予科練生の寄贈した植樹があります

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2011/3/7 8:18
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 さんらく亭さん、みなさん、こんにちは。

引用:
4~5才のころ(昭和11~12)兄と一緒に母に連れられてよく見に行った記憶があります。子供心にも覚えているのは天津乙女、春日野八千代、霧立のぼる、深緑夏代、越路吹雪などの名前です
 深緑夏代や、越路吹雪は、シャンソン歌手としても超一流ですね。(^_-)-☆

引用:
淡島千景、久慈あさみ、新珠三千代、月丘夢路などは戦後に映画スターになってからスクリーンで見ました宝塚大劇場は戦時中は海軍に接収され宝塚海軍航空隊の予科練生の宿舎でした。兄(昭和5年生)も予科練に志願してそこで訓練を受けていました
 超硬派の予科練と宝塚が、親戚というのは、こら、おもろい。

引用:
そんな関係で宝塚歌劇と予科練は縁があり「すみれの花」と「荒鷲の歌」は一緒に歌われるころがあるそうです。宝塚大劇場に通じる「花の道」には元予科練生の寄贈した植樹があります
 予科練生の植樹、へ~そんな紋が、あるんですか?へ~~。(@_@;)知りませんでしたねぇ。あっしは今まで、宝塚といったら「おんなだけの世界」と思っていましたが、男も観にいったんですねぇ。むかしは若い女の子はみんな、スターのブロマイドを、自分の部屋にいっぱいしまい込んで、宝物のように大事にしていたようでうすね。

 あっしには、とても理解できない世界でしたが…。ところで、あの歌の「すみれ」はほんとうは「リラ」なんすて?
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2011/3/7 8:19
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 唐辛子紋次郎さん  変蝠林さん


 気になってググったらこんな記事がありました

 http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/yoka-takara.htm

 私もそこまでは知りませんでした

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2011/3/8 7:52
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 唐辛子 紋次郎さん、みなさん、こんにちは。

引用:
あっしには、とても理解できない世界でしたが…。ところで、あの歌の「すみれ」はほんとうは「リラ」なんですって?

 そうらしいですね。リラだと「ニワトコの咲ぁくころ~」で、さまにならないから宝塚の監督みたいな人が植え替えたんでしょう。
 パリではやる前はドイツで「白いフリーダがまた咲けば、・・」とかで流行ってたようです。

 昔のままでは皆さんの好みではないでしょうから、ディスコ・サウンド風のを聞いてください。

Wenn der weisse Flieder wieder blueht
http://jp.youtube.com/watch?v=IKeguU4cRZI&feature=related
Musik & Text: Franz Doelle / Fritz Rotter
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/8 7:55
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 小机 さん、みなさん、お早うござます。(^_-)-☆

引用:
昔のままでは皆さんの好みではないでしょうから、ディスコ・サウンド風のを聞いてください。Wenn der weisse Flieder wieder bluehthttp://jp.youtube.com/watch?v=IKeguU4cRZI&feature=relatedMusik & Text: Franz Doelle / Fritz Rotter

 Ganz gut!
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/9 9:08
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 唐辛子紋次郎さん さんらく亭さん  こんにちは

 大正人ですが(^_-)

 宝塚大劇場は就職直後に神戸支店勤務下命、早速脚を運びました。
 あの頃は電車を降りて櫻土手を往くと紫羽織の生徒達とサテンで同席。

 合宿所の先輩から淡島千景に小便掛けられたなんて話が・・・・ 彼女が重役さんの御嬢さんであって・・・

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2011/3/9 9:12
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 変蝠林(1917&大正6年-)さん 、さんらく亭さん、みなさん、今日は。(^_-)-☆

 引用:
宝塚大劇場は就職直後に神戸支店勤務下命、早速脚を運びました。あの頃は電車を降りて櫻土手を往くと紫羽織の生徒達とサテンで同席。

 紫羽織、う~ん、いいすねぇ。

 引用:
合宿所の先輩から淡島千景に小便掛けられたなんて話しが・・・・彼女が重役さんの御嬢さんであって・・・

 先輩が淡島千景に求婚ですか?これもスゴイ。しかし、彼女ってそんなにいい家柄なんですか?先輩の〇〇さん、さぞかし残念だったでしょうね。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/10 9:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 唐辛子 紋次郎さん、こんにちは。

 皆さん、よく宝塚の事をご存じですね。私めは大阪で戦災にあい、丹波に疎開し、そこから現役召集で海軍に行き、敗戦でまた丹波に帰り、その年の終わり頃に、宝塚まで引き返してきまして、3,4年間、栄町通りという歌劇の劇場の近くに住んでいました。
 
 宝塚ではコネがあって毎月のように歌劇を見に行き、時には新国劇なども見に行きましたが、もう60年も前のことですから、ほとんど忘れています。あの時分は、なんと言っても春日野八千代の時代で、彼女が舞台に立つとすごい拍手と声援で、敗戦後の窮乏生活は、この宝塚大劇場の中ではどこへ行ったかと云う感じでした。

 天津乙女は春日野よりも先輩で、貫禄がありましたね。私の印象深かったのは深緑夏代のカルメンで、赤い薔薇をもてあそびつつ唄うハバネラはいまも印象に残っています。

 春日野のあとに出てきた越路吹雪の人気もなかなかのものでしたね。やはり宝塚は男役に人気が集中していたよう思います。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/3/11 8:42
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 伸さん、みなさん、こんにちは。

引用:
皆さん、よく宝塚の事をご存じですね。私めは大阪で戦災にあい、丹波に疎開し、そこから現役召集で海軍に行き、敗戦でまた丹波に帰り、その年の終わり頃に、宝塚まで引き返してきまして、3,4年間、栄町通りという歌劇の劇場の近くに住んでいました。

 歌劇場のちかくですか、そりゃまたスゴイですね。(@_@;)

引用:
宝塚ではコネがあって毎月のように歌劇を見に行き、時には新国劇なども見に行きましたが、もう60年も前のことですから、ほとんど忘れています。あの時分は、なんと言っても春日野八千代の時代で、彼女が舞台に立つとすごい拍手と声援で、敗戦後の窮乏生活は、この宝塚大劇場の中ではどこへ行ったかと云う感じでした。

 春日野の人気は絶大だったんですね。(^_-)-☆

引用:
天津乙女は春日野よりも先輩で、貫禄がありましたね。私の印象深かったのは深緑夏代のカルメンで、赤い薔薇をもてあそびつつ唄うハバネラはいまも印象に残っています。

 う~ん、カルメンですか、赤いバラを口に咥えた姿はさぞ、かっこよかったでしょうねぇ。それにまた、あの唄はメロディーがいいですよ。蓮っ葉で、威勢のいいスペイン女が歌うには打ってつけですよ。

引用:
春日野のあとに出てきた越路吹雪の人気もなかなかのものでしたね。やはり宝塚は男役に人気が集中していたよう思います。

 女の子も男役に憧れたんでしょうね。しかも、宝塚はニッポン独自の文化で、西洋には、ああいう、女だけで演じる歌劇ってのはないです紋ね。(^_-)-☆やっぱ、スゴイですよ。(^_-)-☆
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