「描き残したい昭和(新見 睦)」から 子どもの遊び
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- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 子どもの遊び 21 チャンバラ (編集者, 2015/12/7 6:38)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 子どもの遊び 22 縁台将棋 (編集者, 2015/12/8 7:33)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 子どもの遊び 23 紙芝居 (編集者, 2015/12/9 6:39)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 子どもの遊び 24 お化け屋敷 (編集者, 2015/12/10 9:34)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 子どもの遊び 25 学校のプール (編集者, 2015/12/11 7:49)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 子どもの遊び 26 自転車 (編集者, 2015/12/12 7:55)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 子どもの遊び 27 ウナギ掬い (編集者, 2015/12/13 6:53)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 子どもの遊び 28 けん玉 (編集者, 2015/12/14 7:22)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 子どもの遊び 29 ベーゴマ (編集者, 2015/12/15 6:58)
- 「描き残したい昭和(新見 睦)」から 子どもの遊び 30 模型飛行機 (編集者, 2015/12/16 6:33)
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棒があるとすぐチャンバラに 1953年
描き残したい昭和 「棒があるとすぐチャンバラに」 昭和28年(1953年)
子供らはチャンバラが好きだった。当時の子供の遊びの定番です。
嵐寛寿郎の鞍馬天狗、快傑黒頭巾の大友柳太朗、丹下左膳の大河内伝次郎など時代劇にはかっこいい役柄の名優がいた。
刺客に囲まれても立ち回りは貫録の構え。絶対に切られることはない。その強さは子供らの憧れだった。墨田区寺島町(現東向島)の白髭神社は戦災を免れて豊かな木立の境内だった。子供らの格好の遊び場。棒を振り回すのが大好きで、いつの間にかチャンバラになる。すっかり時代劇の主人公になり切って立ち回る。切る役も切られる役も映画で見た役回りを気取る。何度も遊んでいるうちにチャンバラの型も板についてきて、上手な身のこなしができるようになってきた。弱者をいたわる気心もこんな遊びで芽生えた。
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縁台将棋 1952年
描き残したい昭和「縁台将棋」昭和27年(1952年) 縁台という台があった。軒先や玄関先に置いてあって、ひとやすみしておしゃべり、植木鉢の手入れ、ちょっとした訪問客、子どもの遊び場。なんにでも使える便利な台だった。「碁がたきは憎さも憎し、懐かしし」将棋の仲間にも言えた。将棋の仇がやってくる。「おい、いっちょうやらねえか」たちまち縁台を見物人が取り囲む。「ソージャネーヨ」「アーア、ヤッチマッタ」まわりがうるさい。ヘタなくせに講釈だけは一人前のじいさん。やり取りを楽しむおにいさん。ギャラリーは自分でやるより楽しんでいなる手つきで「スー」と駒を動かす。下手にはそれが憎らしい。
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紙芝居 1950年
昭和25年ごろのこと。紙芝居がやってきます。僕はそれが来るのが大嫌いでした。せっかくやっている遊びを途中でやめなければならないし、それに紙芝居の只見のことで。タダミ。買わないで見る。仲間からも白い目で見られてしまう。たかが5円か10円なのだが衛生上の理由で母親から禁止された。内緒で買ったことがある。嬉しかったけれど後味悪い。離れて見ておわり待つしかない。しかし、メガネのどんちゃんの演技は面白かった。
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お化け屋敷 1955年
描き残したい昭和です。「お化け屋敷の設営」昭和37年(1962年)千葉県船橋市の船橋ヘルスセンターは1955年から1977年まで大規模健康ランドだった。「長生きしたけりゃチョイとおいでチョチョンのパ・チョチョンのパ」とザ・ドリフターズが賑やかに「8時だよ全員集合」を公開生放送した。1962年私はセンターのイベントハウスのうち「お化け屋敷」設営のアルバイト。
小屋を組み立て壁を立て小部屋を作る。背景を作り仕掛けを置いて怖そうな飾りつけを施す。居場所が決まるまでお化けたちは手に抱かれて所在無く待っている。暗い照明を下げ怖い音声をセットでOK試運転。こわさ度の調整をして開場を待つ。しかし天然ガスと温泉の湧出が減ってヘルスセンターは1977年閉鎖した。その後解体しららぽーと船橋SCに生まれ変わりました。
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学校には15mプール 1951年
墨田区立第二寺島小学校(二寺)は大正13年建設の鉄筋コンクリートの校舎。三遊亭歌奴(のちの円歌)や大相撲の出羽錦が卒業した。時々顔を見せ話もした。学校には15mプールがあった。小学校5年生の時、男子はみんな赤フンドシ(赤ふん)をつけていた。ちょっとうまくなると気取って青色にしたりした。ぼうずなので帽子はかぶらなかった。ちょうど日米対抗水上競技がきっかけで黒いぴったりしたパンツが売られるようになった。初めてひとりそのパンツをはいてきた子がいた。滝ヶ先勇二君。みんな注目した。みんな欲しがった。しかし水泳の速さは装着物には無関係だった。
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自転車 1952年
今の東向島の水戸街道。私は第二寺島小学校5年生でした。無謀にも私は道路をUターンしました。当時自転車は荷台が大きく重い大人の自転車で、子供は左足を突っ込んで三角乗りでした。左方から来た自転車。私の自転車に衝突。倒れ、右足が自転車の下敷きに。おじさんも驚いてあわてて起こしてくれ、測道に入って様子を見ていました。痛いけれども大丈夫だろう。おじさんはそれで行ってしまいました。おのあとみるみる腫れて内出血。くるびしにひびが。この痛かったこと忘れられません。
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ウナギ掬い 1947年
これは衝撃的でした。真間川。それは江戸川に注ぐ千葉県市川市の川。川幅は今も昔も変わっていません。普段は穏やかに流れています。ところが、水嵩が増して江戸川の水門が開けられると、一気に濁流となって流れ下ります。すると川の生物は流れに乗ってどっと下ってきます。ウナギです。こんなにたくさんいるのかと驚きました。水門が開けられると伝え聞くと、みんな川に繰り出してざるを持って川に入り、うなぎを掬う。バケツにいっぱい。天然のウナギがこんなにいたのです。
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けん玉 1953年
今も盛んなけん玉、昭和の時代もみんなやっていました。「剣玉五人抜きの技」昭和28年(1953年)明確に勝敗を分ける遊びだった。
我慢、技量、悔しさの振り払い方などいろいろ教えてくれた剣玉。「ロウソク、もしカメ、とめけん、飛行機、ふりけん、日本一周、世界一周、灯台」この基本技に加えてたくさんの組合わせ技がある。うまくなろうとみんな一所懸命練習した。5人抜き。
挑戦者はまず先鋒と対戦、勝てば次鋒へ。挑戦者は自分の得意技で挑む。三万通りあるという剣玉の技、大人になっても楽しめる。これ一本あればどこでも時間をつぶせる。
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ベーゴマ 1953年
描き残したい昭和です。ベーゴマほど面白くみんなが熱中するゲームはありませんでした。昭和28年(1953年)腰を落として重心を低くし、手首のスナップをきかせて跳ね上げ引き落とす。
ベーゴマに巻きつける紐の強さが肝心。
桜の花の形をした桜ベーは平たく重心が低いので、かち上げに強い。
丸六ベーは重心は高いが先を鋭く研ぐことができて、回転速度をあげられる。
桜ベーにまともに突き上げられると弾かれるが、大きく公転しながら桜ベーの花びら部を狙う。
紐は念を入れて巻きつける。紐の先には五円玉をつけ、それを指に挟んでストッパーにする。一斉に床に落として弾いて外に出た相手のベーゴマを獲得する。広辞苑によればベーゴマはバイゴマ(貝独楽)。バイは貝。貝の殻に溶かした鉛を流し込んで作ったということです。
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模型飛行機 1952年
描き残したい昭和、忘れられない思い出です。「楽しい模型飛行機」昭和27年(1952年)こどもは飛行機が大好き。学校の校庭は休みの日はヒコーキが舞いました。ライトプレーンという模型。プロペラを回して動力のゴムを巻き、風の具合を見て方向を定める。よく飛ぶヒコーキを夢見てこどもらはヒコーキ作りに励みました。ヒコーキが校庭を一周旋回した時の喜びはたとえようがありません。うまく飛ばずまた作り直しては飛ばし、友達と性能を競いました。モノづくりの楽しさです。