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あの日、鴨緑江岸の街、安東で・・・。

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teddy

通常 あの日、鴨緑江岸の街、安東で・・・。

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2004/6/20 17:26
teddy  新米   投稿数: 5
 あの終戦の日、昭和20年8月15日、7歳の私は朝満国境の満州側の街、安東市にあった朝日国民学校の2年生でした。

この街は現在の中朝国境の中国側の街、丹東です。鴨緑江の河口にあって、対岸が朝鮮側の街、新義州です。安東の街は終戦の日迄は平和で静かな街でした。街の南東の郊外に『花園街』という日本人用の団地があって、そこから街中にあった朝日国民学校に徒歩で通っていました。3キロ近くあったと思いますから、子供の足では小1時間も掛かって、大変でしたが、何人かの友達と集団登校をしていました。

 この朝日国民学校は、煉瓦《れんが》造りの2階建でプール完備、水洗トイレの当時としては最新式の建物でした。現在は丹東市立第二中学となっていて、屈指《くっし=指折り》の進学校のようで、北京大学に進学する生徒も多いとか…。当時7歳の私は、自分の国が戦争をしていることも殆《ほとん》ど意識せず、楽しく日々を過ごしていました。学校でも戦争の話が出ることは殆どなかったように思います。この点は、日本におられた方とはかなり違う様に思います。勿論《もちろん》、忘れたこともあるのでしょうけれど…。

 それで、あの日の翌日、私は登校しました。夏休みだったはずなのですが、特別に呼び出されたのか、そのあたりの記憶は定かでありません。学校では担任の吉田先生(若い女先生)から、在籍証明書と言うのを渡され、日本に帰ったら、その証明書を居住する街の学校に提出するようにとのことでした。そして、学校は今日で閉鎖されるので自宅でよく勉強するようにと…。

 私たち家族が日本に帰ったのは昭和21年9月でしたから、その間1年間、私は学校に行くことが出来ませんでした。山口の父の郷里に帰って、母に付き添われて、そこの学校に行って、朝日国民学校で貰《もら》った在籍証明書を出して編入の手続きをしたら、1年間の空白があるが3年生に編入しても良いし、それが心配なら、1年遅れるが2年生に編入してもどちらでも良いとのことだったそうで、チビの私のことを案じた母がそれなら2年生にということで、1年遅れで私の学校生活が再開しました。
                   (以下、続く)

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