ああ! 大廈、将(まさ)に顛(たお)れんとす
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ああ! 大廈、将(まさ)に顛(たお)れんとす (不虻, 2004/7/24 21:39)
- Re: ああ! 大廈、将(まさ)に顛(たお)れんとす (あんみつ姫, 2004/7/24 22:07)
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投稿日時 2004/7/24 21:39
不虻
投稿数: 20
大廈《たいか=大きい建物》、将(まさ)に顛(たお)れんとす《=大廈の倒れんとするは一木の支うるところにあらず、から》
昭和20年8月11日ころだったと思います。
横須加の街中でふと出会った先輩の某主計大尉が「戦争は終わるぞ。ポツダム宣言 を受諾することに決めたそうだ。」と囁《ささや》き教えてくれました。
【勿論戦後、知ったことですが、日本政府は8月10日に中立国スイス、スエーデンを通じ、ポツダム宣言受諾を連合国側に申し入れています。こんな秘密事項がいつの間にか直ぐに漏れているのですね。】
この時は半信半疑でしたが、そう言う目で新聞を見ていると「何かある」という兆候が幾つか読み取れました。日記に次のように記してあります。
『8月12日』
遂に日本は敗れたか。
(1)何故に今以てソ連に対し宣戦布告せざるや?
(2)今日の新聞に米国が緊急閣議を開いたことが報ぜられている。
*ストックホルム特電十日発至急報
ワシントン来電によれば米大統領トルーマンは十日夜緊急閣議を
開催した。
一方BBC放送は英国政府が近く重大発表をなすであろうと放送
した。
*リスボン十日発 同盟
ワシントン来電によれば米国政府は十日夜緊急閣議を開催した。
*チューリッヒ発 特電 十日発
米大統領トルーマンは閣議に引き続き陸海軍長官及び国務長官と
長時間協議した。
(3)十三日開催予定の国粋同盟本部の演説会は何故中止されしや?
俺《おれ》は如何《いか》になすべきか?死か、それとも生か。
卑屈なる屈服の汚点は日本の歴史から決して払拭することは出来ぬであろう
唯、大君《=天皇》の勅命を畏《かしこ》み、大御心を奉戴《ほうたい=謹んで
戴く》してゆくのみが残された道だ。
しかし……屈服は大東亜の正義の為に立った日本の道と言えるのだろうか ?
………★………★………★………
昭和20年に入って、日本がこの戦争に勝てると思っている人は、もういなくなったと思います。
1942年(昭和17)6月、ミッドウェイ海戦で日本海軍が敗北を喫して以来、1943年には2月ガダルカナル撤退(敗退)、4月山本連合艦隊司令長官の戦死、5月アッツ島山崎部隊玉砕。1944年には、3月末の古賀連合艦隊司令長官の殉職、無謀なインパール作戦の自滅、7月にはサイパン島失陥とその結果として11月からの本土空襲の激化などなど。
この当時、誰もが思っていたのは、「極力戦力を蓄え、ある時期に大反撃をして、一時的にでも敵にアッと言わせ、それを契機にして少しでも有利な条件で講和に持ち込むことのみが、日本に残されたただ一つの進路だ」と言うことだったと思います。
『昭和20年1月4日』の日記
家や福田さんへやっと年賀状を書く。大坂にいる友人達夫(陸軍)から手紙
で「20年こそは大反攻を行って貰いたいものだ。」と書いてきた。これが当
に一億国民の胸の中であろう。ドイツのあのルントシュテット元帥の大反撃を
見ると、最後までの粘り強い頑張りが如何に重要かを知る。
アメリカのような国を叩きつけるには、どうしても戦力を貯めに貯めた上で
それを一度に叩きつけなければ駄目だ。日々の第一線での激闘で、戦力を余す
余裕も無いのだろうか?
比島がいよいよ危なくなった。比島を敵に制せられたら、先ず日本は敗れた
と言って良い。先日、本間(軍令部で情報関係をやっている友人)は「戦争は
今年一杯だ」言っていた。誠に然り。日本の命運はこの年に決まる。
………★………★………★………
【ルントシュテット大攻勢のことは余程当時の新聞に出ていたのでしょうか。ヨー ロッパ西部戦線では1944年6月6日に連合軍がノルマンデイ上陸作戦実施、
8月25日にはパリを解放しています。これに対し、ドイツではヒトラー最後の賭けとして西部方面軍司令官、ルントシュテット元帥が最後の大反攻を試みました。
一時は連合軍をベルギーに押し戻し、私なども、あわや「ダンケルク」が再現するかと手に汗して見守っていましたが、結局は駄目でした。
ここでも「大廈の将に顛れんとするは 一木の支うる所に非ず」の言葉が生きていたのです。
そして1945年(昭和20年)になると、頽勢《たいせい=衰えるありさま》は一気に加速しました。1月米軍 ルソン島に上陸開始、2月、米軍硫黄島に上陸、3月と5月の東京大空襲で東京ほぼ壊滅、4月米軍沖縄に上陸、5月ドイツ無条件降伏、8月6日広島に原子爆弾投下、
(当初は新型爆弾と言い、熱戦爆弾の類か?と言っていた。トルーマン大統領が日本に原子爆弾を投下した旨9日に発表、以後原子爆弾と称されるようになった)
8日、ソ連対日宣戦布告、9日、長崎に原子爆弾投下。ここに至っては刀折れ矢尽き遂に手を挙げざるを得ませんでした。
いよいよ終戦の日、所謂《いわゆる》「玉音放送の日」を迎えるわけですが、私の日記は19日に飛んでいます。流石《さすが》に15日から数日は気もそぞろで書く気がしなかったのでしょう。19日の日記に「思い出し、纏《まと》め書き」がしてあります。その19日の日記を御覧に入れる前に、当時の気象状況などを簡単に御説明しておきます。勿論《もちろん》当時は気象状況などは発表されていませんので、戦後の資料によるものです。
昭和20年7月の東京の気温は平年より低め、雨の日が9日(うち、終日雨の日が3日)もあり、終日雨降りの6日、17日、21日には最高気温が20℃前後、むしろ薄ら寒いような日が続いていましたが、梅雨明けと見られる7月24日以降は約1ヶ月間晴天続き、特に8月3日以降は、ほぼ連日30℃を超える真夏日が続きました。広島に原爆を投下された6日は東京31℃、大阪33℃。長崎に投下された9日には東京30℃、大阪34℃、福岡31℃。そして玉音放送のあった15日は東京31℃、
大阪34℃でした。(以上は「昭和2万日の全記録【7】」講談社による。)
『8月19日』
昭和二十年八月十五日・正午、畏《かしこ》くも陛下《へいか=天皇》御自らマイクの前に立たせられ「戦争終結の詔書」を
下された。已《や》んぬるかな!万事が終わってしまったのだ。
あの防空壕のなかで詔勅を拝した時は、予期していたこととは言いながら、
涙滂沱《ぼうだ=流れ落ちるさま》として下り、
唯泣くのみだった。そして、遂に聖慮《せいりょ=天皇のお心》を安んじ奉り得ざりし我等は死してなお罪をまのがれず、と思っていた。
………………
部屋に戻って部下総員を集めて話した時も、最後はついに泣き伏してしまっ
た。何故《なぜ》かは知らず、ただ溢《あふ》れ来る涙のみであった。
八月十六日、思い悩みつつ久里浜の工作学校へ行き、古屋副官、岩間主計長
美原校長にお会いした。俺はその時、副官が既に自決を決意しておられるの
を知った。 │
副官は俺の問に答えて言われた。『生き抜くも忠なり。死するも忠なり。唯、
各人の所信に従え』と。そして十七日夜、自刃されてしまった。
海軍機関少佐、古屋副官は、俺には兄であり、師であり、恩人でもあった。
あの夜は、俺もお別れのつもりでお訪ねしたのだが、こんなに早く最後にな
とは思わなかった。
『それでは御壮健で!』
副官は淡々とそう言われて私室に入られた。これが最後の別れだった。
あの夜は、はじめは俺が持って行った茶を飲みながら、佐々木少佐と3人で色々なこ
を話し合った。そして佐々木少佐が自室に戻られてからは、二人とも裸になり、ビー
ルを飲みながら、民族について、日本の将来について、今度の戦争終結のこと
について語り続けた。
如何に身を処すべきなのだろうか? 大西中将の遺言には「生き抜いて聖旨《せいし》に添い奉れ」とあり、美原校長閣下は「生きて戦後の処理に全力を傾けよ」
と諭された。
古屋副官!私も今、ややもすれば生きていく希望を失いそうです。
………★………★………★………
これも戦後の資料によってですが、8月15日の敗戦とともに、多くの軍人が自決しています。その数は軍人、軍属《ぐんぞく=軍人ではないが軍に所属する人》合わせて600人を超えるとのことです。將官以上の自決者は阿南陸軍大臣他37名に上ります。(前出:昭和2万日の全記録より)
各機関で機密書類などの焼却処分が始まりました。町の方々で文書を燃やす煙が上がっていました。私の課は新設の部屋なので処分するような物はありませんでした。
流言蜚語《りゅうげんひご=無責任なうわさ、デマ》も飛び交っていました。一番心配したのは占領軍が日本に上陸してくると言うことでした。内務省警保局からは「控えよ婦女子の一人歩き、ふしだらな服装を慎もう」などの警告が出たり、これは当時は私は知りませんでしたが、性の防波堤としての施設作りなどがあったようです。
私たちの直接の仕事は、横須加周辺の海軍工廠《こうしょう》などに集められた多くの女子挺身隊員《ていしんたいいん》を如何《いか》に早く帰郷させることでした。もう余り詳しいことは忘れましたが、女子を帰すための特別列車を仕立てたのですが、既に客車などの手配は出来ず、有蓋《ゆうがい=おおいのある》、無蓋《むがい=覆いや屋根が無い》の貨車をかき集めようと、いうことになりました。途中のトイレをどうするかなどが問題になったことだけ、妙に記憶に残っています。
8月30日、マッカーサーは連合軍最高司令官として厚木飛行場に降り立ちましたが、横須賀には、沖縄で戦ってきた米・海兵隊1万3千人が上陸してきました。その辺の話はまた次回にでも。いつも長文で申し訳ありません。
昭和20年8月11日ころだったと思います。
横須加の街中でふと出会った先輩の某主計大尉が「戦争は終わるぞ。ポツダム宣言 を受諾することに決めたそうだ。」と囁《ささや》き教えてくれました。
【勿論戦後、知ったことですが、日本政府は8月10日に中立国スイス、スエーデンを通じ、ポツダム宣言受諾を連合国側に申し入れています。こんな秘密事項がいつの間にか直ぐに漏れているのですね。】
この時は半信半疑でしたが、そう言う目で新聞を見ていると「何かある」という兆候が幾つか読み取れました。日記に次のように記してあります。
『8月12日』
遂に日本は敗れたか。
(1)何故に今以てソ連に対し宣戦布告せざるや?
(2)今日の新聞に米国が緊急閣議を開いたことが報ぜられている。
*ストックホルム特電十日発至急報
ワシントン来電によれば米大統領トルーマンは十日夜緊急閣議を
開催した。
一方BBC放送は英国政府が近く重大発表をなすであろうと放送
した。
*リスボン十日発 同盟
ワシントン来電によれば米国政府は十日夜緊急閣議を開催した。
*チューリッヒ発 特電 十日発
米大統領トルーマンは閣議に引き続き陸海軍長官及び国務長官と
長時間協議した。
(3)十三日開催予定の国粋同盟本部の演説会は何故中止されしや?
俺《おれ》は如何《いか》になすべきか?死か、それとも生か。
卑屈なる屈服の汚点は日本の歴史から決して払拭することは出来ぬであろう
唯、大君《=天皇》の勅命を畏《かしこ》み、大御心を奉戴《ほうたい=謹んで
戴く》してゆくのみが残された道だ。
しかし……屈服は大東亜の正義の為に立った日本の道と言えるのだろうか ?
………★………★………★………
昭和20年に入って、日本がこの戦争に勝てると思っている人は、もういなくなったと思います。
1942年(昭和17)6月、ミッドウェイ海戦で日本海軍が敗北を喫して以来、1943年には2月ガダルカナル撤退(敗退)、4月山本連合艦隊司令長官の戦死、5月アッツ島山崎部隊玉砕。1944年には、3月末の古賀連合艦隊司令長官の殉職、無謀なインパール作戦の自滅、7月にはサイパン島失陥とその結果として11月からの本土空襲の激化などなど。
この当時、誰もが思っていたのは、「極力戦力を蓄え、ある時期に大反撃をして、一時的にでも敵にアッと言わせ、それを契機にして少しでも有利な条件で講和に持ち込むことのみが、日本に残されたただ一つの進路だ」と言うことだったと思います。
『昭和20年1月4日』の日記
家や福田さんへやっと年賀状を書く。大坂にいる友人達夫(陸軍)から手紙
で「20年こそは大反攻を行って貰いたいものだ。」と書いてきた。これが当
に一億国民の胸の中であろう。ドイツのあのルントシュテット元帥の大反撃を
見ると、最後までの粘り強い頑張りが如何に重要かを知る。
アメリカのような国を叩きつけるには、どうしても戦力を貯めに貯めた上で
それを一度に叩きつけなければ駄目だ。日々の第一線での激闘で、戦力を余す
余裕も無いのだろうか?
比島がいよいよ危なくなった。比島を敵に制せられたら、先ず日本は敗れた
と言って良い。先日、本間(軍令部で情報関係をやっている友人)は「戦争は
今年一杯だ」言っていた。誠に然り。日本の命運はこの年に決まる。
………★………★………★………
【ルントシュテット大攻勢のことは余程当時の新聞に出ていたのでしょうか。ヨー ロッパ西部戦線では1944年6月6日に連合軍がノルマンデイ上陸作戦実施、
8月25日にはパリを解放しています。これに対し、ドイツではヒトラー最後の賭けとして西部方面軍司令官、ルントシュテット元帥が最後の大反攻を試みました。
一時は連合軍をベルギーに押し戻し、私なども、あわや「ダンケルク」が再現するかと手に汗して見守っていましたが、結局は駄目でした。
ここでも「大廈の将に顛れんとするは 一木の支うる所に非ず」の言葉が生きていたのです。
そして1945年(昭和20年)になると、頽勢《たいせい=衰えるありさま》は一気に加速しました。1月米軍 ルソン島に上陸開始、2月、米軍硫黄島に上陸、3月と5月の東京大空襲で東京ほぼ壊滅、4月米軍沖縄に上陸、5月ドイツ無条件降伏、8月6日広島に原子爆弾投下、
(当初は新型爆弾と言い、熱戦爆弾の類か?と言っていた。トルーマン大統領が日本に原子爆弾を投下した旨9日に発表、以後原子爆弾と称されるようになった)
8日、ソ連対日宣戦布告、9日、長崎に原子爆弾投下。ここに至っては刀折れ矢尽き遂に手を挙げざるを得ませんでした。
いよいよ終戦の日、所謂《いわゆる》「玉音放送の日」を迎えるわけですが、私の日記は19日に飛んでいます。流石《さすが》に15日から数日は気もそぞろで書く気がしなかったのでしょう。19日の日記に「思い出し、纏《まと》め書き」がしてあります。その19日の日記を御覧に入れる前に、当時の気象状況などを簡単に御説明しておきます。勿論《もちろん》当時は気象状況などは発表されていませんので、戦後の資料によるものです。
昭和20年7月の東京の気温は平年より低め、雨の日が9日(うち、終日雨の日が3日)もあり、終日雨降りの6日、17日、21日には最高気温が20℃前後、むしろ薄ら寒いような日が続いていましたが、梅雨明けと見られる7月24日以降は約1ヶ月間晴天続き、特に8月3日以降は、ほぼ連日30℃を超える真夏日が続きました。広島に原爆を投下された6日は東京31℃、大阪33℃。長崎に投下された9日には東京30℃、大阪34℃、福岡31℃。そして玉音放送のあった15日は東京31℃、
大阪34℃でした。(以上は「昭和2万日の全記録【7】」講談社による。)
『8月19日』
昭和二十年八月十五日・正午、畏《かしこ》くも陛下《へいか=天皇》御自らマイクの前に立たせられ「戦争終結の詔書」を
下された。已《や》んぬるかな!万事が終わってしまったのだ。
あの防空壕のなかで詔勅を拝した時は、予期していたこととは言いながら、
涙滂沱《ぼうだ=流れ落ちるさま》として下り、
唯泣くのみだった。そして、遂に聖慮《せいりょ=天皇のお心》を安んじ奉り得ざりし我等は死してなお罪をまのがれず、と思っていた。
………………
部屋に戻って部下総員を集めて話した時も、最後はついに泣き伏してしまっ
た。何故《なぜ》かは知らず、ただ溢《あふ》れ来る涙のみであった。
八月十六日、思い悩みつつ久里浜の工作学校へ行き、古屋副官、岩間主計長
美原校長にお会いした。俺はその時、副官が既に自決を決意しておられるの
を知った。 │
副官は俺の問に答えて言われた。『生き抜くも忠なり。死するも忠なり。唯、
各人の所信に従え』と。そして十七日夜、自刃されてしまった。
海軍機関少佐、古屋副官は、俺には兄であり、師であり、恩人でもあった。
あの夜は、俺もお別れのつもりでお訪ねしたのだが、こんなに早く最後にな
とは思わなかった。
『それでは御壮健で!』
副官は淡々とそう言われて私室に入られた。これが最後の別れだった。
あの夜は、はじめは俺が持って行った茶を飲みながら、佐々木少佐と3人で色々なこ
を話し合った。そして佐々木少佐が自室に戻られてからは、二人とも裸になり、ビー
ルを飲みながら、民族について、日本の将来について、今度の戦争終結のこと
について語り続けた。
如何に身を処すべきなのだろうか? 大西中将の遺言には「生き抜いて聖旨《せいし》に添い奉れ」とあり、美原校長閣下は「生きて戦後の処理に全力を傾けよ」
と諭された。
古屋副官!私も今、ややもすれば生きていく希望を失いそうです。
………★………★………★………
これも戦後の資料によってですが、8月15日の敗戦とともに、多くの軍人が自決しています。その数は軍人、軍属《ぐんぞく=軍人ではないが軍に所属する人》合わせて600人を超えるとのことです。將官以上の自決者は阿南陸軍大臣他37名に上ります。(前出:昭和2万日の全記録より)
各機関で機密書類などの焼却処分が始まりました。町の方々で文書を燃やす煙が上がっていました。私の課は新設の部屋なので処分するような物はありませんでした。
流言蜚語《りゅうげんひご=無責任なうわさ、デマ》も飛び交っていました。一番心配したのは占領軍が日本に上陸してくると言うことでした。内務省警保局からは「控えよ婦女子の一人歩き、ふしだらな服装を慎もう」などの警告が出たり、これは当時は私は知りませんでしたが、性の防波堤としての施設作りなどがあったようです。
私たちの直接の仕事は、横須加周辺の海軍工廠《こうしょう》などに集められた多くの女子挺身隊員《ていしんたいいん》を如何《いか》に早く帰郷させることでした。もう余り詳しいことは忘れましたが、女子を帰すための特別列車を仕立てたのですが、既に客車などの手配は出来ず、有蓋《ゆうがい=おおいのある》、無蓋《むがい=覆いや屋根が無い》の貨車をかき集めようと、いうことになりました。途中のトイレをどうするかなどが問題になったことだけ、妙に記憶に残っています。
8月30日、マッカーサーは連合軍最高司令官として厚木飛行場に降り立ちましたが、横須賀には、沖縄で戦ってきた米・海兵隊1万3千人が上陸してきました。その辺の話はまた次回にでも。いつも長文で申し訳ありません。