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おさがり(お古)

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堅香子

通常 おさがり(お古)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2004/9/3 15:07
堅香子  常連 居住地: 北九州  投稿数: 55
 
 写真撮影は、物心ついてから二度目であった。
奉安殿《ほうあんでん=ご真影、勅語などを置くための設備》のあった場所とは反対側の校舎をバックに、1組総勢50名の生徒と教師が満開の桜の木の下に勢揃いした。
スノコを大型にした板状のものが幾枚か敷き詰めてあった。国民学校入学の記念撮影である。
(翌年、学制改革により「小学校」と改称され、のちにユニセフから粉ミルクが支給されるようになる《=学校給食の始まり》

みんな素足で先生の指図に従う。S子は言われるままにスノコの最前列に正座した。雪の日に庭でモンペ《=袴の足首を絞ったような形のズボン》姿で家族揃《そろ》って撮って以来なので大変緊張していた。

小豆色のビロードのワンピースに身を包んだS子。後あきの丸襟《えり》で胸のあたりに同系色の糸でスモックを施した姉の「お下がり」であった。
衣服はいつも姉のおさがりであったが、この洋服は大のお気に入りであった。

 教科書も「おさがり」であった。
入学する前には年上の近所の人、親戚《しんせき》の人などを頼って教科書を譲り受けるために予約をとっておかなくてはならなかった。それでも入手できない者は隣席の人と共用していた。
そうして得た教科書はところどころ墨で塗りつぶされていた。

持ち主の名前も男名前、女名前ありでそれを棒線で消して自分の氏名を書き加えていった。しばらくして質の悪いザラ紙に印刷したものも使用した。

 ランドセルだけは「おさがり」ではなかった。姉の手作りであったから。
母が街から買いだしに来た人に頼んで大事なお米と交換して得た黒繻子(じゅす)の帯を解いて作ってくれたのだった。
フタの部分には鈴に猫がじゃれている金糸の刺繍《ししゅう》がしてあり、今にも跳び出しそうな立体感にあふれS子は上機嫌だった。

S子は嬉しくて入学式の前から何度も背負って玄関を出たり入ったりしてその日を待ちこがれていた。
入学式は、紋付姿の母に連れられて4キロ(1里)の道を登校したのだった。
 終戦の翌年1946年(昭和21年)4月のことである。


どちらも15年ほど前に甥《おい》や姪《めい》に書き残そうと思い書いたものに、手を加えました。

     1946年(昭和21年)国民学校入学  北九州市 女性

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