大正から昭和初期の平壌の小学校
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大正から昭和初期の平壌の小学校 (自然, 2005/6/13 13:31)
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Re: 大正から昭和初期の平壌の小学校 (リフレー, 2005/6/17 13:47)
- Re: 大正から昭和初期の平壌の小学校 (自然, 2005/6/18 12:45)
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Re: 大正から昭和初期の平壌の小学校 (リフレー, 2005/6/17 13:47)
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投稿日時 2005/6/13 13:31
自然
居住地: 横浜(福井)
投稿数: 22
「大正生まれ」で「昭和」四年に学童となる
生まれて半年も経たぬ秋 父の開教《かいきょう=海外で布教活動にあたる》新地の寺院へ母の 懐に抱かれて福井県の在
から遙々《はるばる》朝鮮に赴任したと言うと 西部劇の駅馬車語りめくが 否々! 既に平壌は都市化し 市電・水道・電話も
敷設され総督府《そうとくふ=植民地の役所》所在の京城に 次ぐ商工業都市となっていて かかる地への内地からの移住者は
都市生活に戸惑ったものだとの古老は語る
小学校入学時の装いは 学生帽・総皮のランドセール・紺サージのセーラーのダブル四つボタン の上着・半ズボン ・黒長
下 ・皮短靴の服装は 母の手の温もりと共に記憶に鮮やかである
内地人の小学校は市内に2校あり何れも千人に近い8学年の児童が学び校舎はレンガ建築2階建で 一階教室はぺーチカ
二階へはルーカス仕様の石炭暖房であつた それと中学一校が公設され 現地人のそれは小・中学と建築様式に差異無く
公・私立と内地人の倍以上に加え 専門 学校も所在した
この地で成人し 続いて衛戍聯隊《えいじゅれんたい=軍隊が同じ所に長く置く部隊》に入営 終戦処理後ソビエト聯邦への
強制抑留《よくりゅう=留め置く》付きまで関わり いま「平成」の今日に至る波乱万丈?とまではいかなくとも それなりの人生
を過ごして居る
自 然
平壌図
生まれて半年も経たぬ秋 父の開教《かいきょう=海外で布教活動にあたる》新地の寺院へ母の 懐に抱かれて福井県の在
から遙々《はるばる》朝鮮に赴任したと言うと 西部劇の駅馬車語りめくが 否々! 既に平壌は都市化し 市電・水道・電話も
敷設され総督府《そうとくふ=植民地の役所》所在の京城に 次ぐ商工業都市となっていて かかる地への内地からの移住者は
都市生活に戸惑ったものだとの古老は語る
小学校入学時の装いは 学生帽・総皮のランドセール・紺サージのセーラーのダブル四つボタン の上着・半ズボン ・黒長
下 ・皮短靴の服装は 母の手の温もりと共に記憶に鮮やかである
内地人の小学校は市内に2校あり何れも千人に近い8学年の児童が学び校舎はレンガ建築2階建で 一階教室はぺーチカ
二階へはルーカス仕様の石炭暖房であつた それと中学一校が公設され 現地人のそれは小・中学と建築様式に差異無く
公・私立と内地人の倍以上に加え 専門 学校も所在した
この地で成人し 続いて衛戍聯隊《えいじゅれんたい=軍隊が同じ所に長く置く部隊》に入営 終戦処理後ソビエト聯邦への
強制抑留《よくりゅう=留め置く》付きまで関わり いま「平成」の今日に至る波乱万丈?とまではいかなくとも それなりの人生
を過ごして居る
自 然
平壌図