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大正から昭和初期の平壌の小学校

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自然

通常 大正から昭和初期の平壌の小学校

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/6/13 13:31
自然  半人前 居住地: 横浜(福井)  投稿数: 22
「大正生まれ」で「昭和」四年に学童となる
 
 生まれて半年も経たぬ秋 父の開教《かいきょう=海外で布教活動にあたる》新地の寺院へ母の 懐に抱かれて福井県の在
から遙々《はるばる》朝鮮に赴任したと言うと 西部劇の駅馬車語りめくが  否々! 既に平壌は都市化し 市電・水道・電話も
敷設され総督府《そうとくふ=植民地の役所》所在の京城に 次ぐ商工業都市となっていて かかる地への内地からの移住者は 
都市生活に戸惑ったものだとの古老は語る
 小学校入学時の装いは  学生帽・総皮のランドセール・紺サージのセーラーのダブル四つボタン の上着・半ズボン ・黒長
下 ・皮短靴の服装は 母の手の温もりと共に記憶に鮮やかである
 内地人の小学校は市内に2校あり何れも千人に近い8学年の児童が学び校舎はレンガ建築2階建で 一階教室はぺーチカ 
二階へはルーカス仕様の石炭暖房であつた それと中学一校が公設され 現地人のそれは小・中学と建築様式に差異無く 
公・私立と内地人の倍以上に加え 専門 学校も所在した
 この地で成人し 続いて衛戍聯隊《えいじゅれんたい=軍隊が同じ所に長く置く部隊》に入営 終戦処理後ソビエト聯邦への
強制抑留《よくりゅう=留め置く》付きまで関わり いま「平成」の今日に至る波乱万丈?とまではいかなくとも それなりの人生
を過ごして居る
                         自 然



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