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Re: 内蒙古回顧の旅―1

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変蝠林

通常 Re: 内蒙古回顧の旅―1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2005/9/25 7:18
変蝠林  半人前 居住地: 横浜市 オオクラヤマ  投稿数: 22


《そ》の内に大同の大隊に戻されて暗号班勤務を命ぜられた。暗号室は将校と雖《いえど》も許可無く入室を禁ずの張り紙が扉《とびら》に掲げられて天国の世界、班室には寝に帰るだけだが斉立ビンタは一般並み。

天国暗号班も討伐となると当然同行が余儀なく《よぎなく=他の方法無く》《まわ》って来る。神戸時代の六甲ハイクが思い出されて全討伐行に率先参加した。最初の大同から渾源迄の二日の行軍は足裏総豆の大試練だった。(六十年後の最近はハイウェイ僅《わず》か二時間の行程)

渾源から懸崖寺を仰いで奥地への進軍は丘を越えると丘また丘の難行軍、途中の宿泊は殆ど《ほとんど》が所謂《いわゆる》ホートン(崖《がけ》を削って造った部屋の住居)だ。オンドル《=床下暖房装置》が設えてあるので快適であるのだが或《あ》る討伐行の折に背中四十度胸零度の朝に遭遇、発熱四十数度で出発の羽目に。国に残した嬰児《えいじ=生まれて間の無い子》の名を連呼しての一日行軍は今思い出しても良くぞの想い出。やがて米軍来襲に備えての転進《てんしん=退却》で上海近傍の大倉鎮に南進。酷熱四十数度の太湖畔で塹壕《ざんごう》用松材伐採の後、ソ連侵攻の報に急遽《きゅうきょ=急ぎあわてる》北上命令、御詔勅《ごしょうちょく=天皇の書かれた文書、ここでは終戦の詔勅》を南京で聞いたのだが其の儘《まま》北進、列車を連ねての北上だが我が列車のみ何故《なぜ》か新軍の攻撃を受け其の度に停車応戦、遂には前車が山海関を超えたのに我が列車のみは天津で下車、蒋介石軍の到着迄の天津警備で年末まで完全軍装にて郊外駐屯。御存知の通り天津は軍需廠《ぐんじゅしょう=軍事物資を集める場所》の大基地。蒋軍《しょうぐん=蒋介石軍》毛軍《もうぐん=毛沢東軍》に渡す前にと大判振舞い。毎日砂糖菓子米煙草が配給される。其の内に支那《しな》人が柵《さく》外から高粱酒《こうりゃんしゅ》を煙草と交換にと群がる。茶碗《ちゃわん》酒に煙草を点棒の博打《ばくち》が始まる。年末武装解除後は米軍使役に。彼等の倉庫には砂糖の山、レイション《=アメリカ軍の携帯用食糧》を開ければテキ缶に菓子、更に煙草が三本付き。乾麺《かんめん》に金平糖《こんぺいとう》《注、乾麺に金平糖は日本軍の携帯食糧》とは大違い。自動車の掃除には水でなくガソリン。

明けて三月に漸く帰国の指示が。LSTの待つ大沽港にて事件。中村姓の戦犯探しの為に別室に引致、朝鮮人らしき男が机に脚でウイスキーを呷《あお》り乍《なが》らの尋問《じんもん》、機嫌《きげん》次第で危うき一刻を逃れ漸く乗船。何日掛かったか覚えぬが着いた港が南風崎。白い粉《殺虫剤》を全身に峠を越えて兵舎様の建物に数日、三百円を手渡されて吃驚《びっくり》、列車に乗って蜜柑《みかん》を求めたら壱個拾円で又吃驚。

何日か走って静岡駅に着いたら駅頭に家族全員が出迎えで感涙。処が先方はキョロキョロ。無理も無い、当方六十キロの巨漢に。

幸いは続く。偶々《たまたま》会社が静岡に支店を。但し四大商社の社員が大八車を牽《ひ》いて松坂屋へ、自転車を走らせて清水港へ。

さて題名: 余りの変化に言葉無し。

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変蝠林

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