韓国人、朴益悳氏の終戦記
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韓国人、朴益悳氏の終戦記 (団子, 2005/10/31 10:48)
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韓国人、朴益悳氏の終戦記 (団子, 2005/10/31 21:05)
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韓国人、朴益悳氏の終戦記 (団子, 2005/10/31 21:05)
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投稿日時 2005/10/31 10:48
団子
投稿数: 22
(一)
これは、北朝鮮からの引き揚げ記録の私の友人、野崎 博氏が発行した同窓会誌に特別寄稿された、北朝鮮時代の日本人学校でともに勉強した韓国人の記録です。発行者の許可を得て投稿させて頂きます。当時の北朝鮮の日本人学校には、少数ですが、北朝鮮の優秀な学生もともに学んでいたそうです。日本の敗戦と同時に開放された向学心に燃える彼等側から見た終戦の記録と言えるでしょうか。、、、、、、、、、、、団子
ーーーーー
特別寄稿
自由を尋ねた帆掛け船
機一回生 朴 益 悳 1996記
今から約五十年前、1946年9月初旬の或る日の事でした。
1945年8月15日、日本の敗戦によって、民族の解放の喜びと同時に、燃え上がる希望を胸にいだいて、故郷に帰って来た兄と二人で、故郷を離れて、ソウルに向かう事を決意して、故郷の家に別れを告げ、南に向って出発しました。もともと私の故卿は、北朝鮮の成興ですが、当時、私の家族は興南に住んでいました。家にはおばあさん・父・母・兄・弟二人・妹二人と私を含め全部で九人の大家族でした。今は最後の離別であるとはらはらと涙を流す80のおばあさんと、二度も地面に倒れながら離れて行く二人の息子との悲しい別れを惜しんで涙を流すなつかしい母の姿を後に、私達二人の兄弟は、簡素な着替えを入れた、小さな包み物を一づつ手にぶらさげて、夢にも忘れられない故郷の家の門を出たのであります。
その時、父と四人の弟と妹は、仲良く歩いて、私達を見送ってくれました。当時、興南の雲龍里駅で私達は、海が見える「内湖」と言う所まで行く為に、汽車に乗りました。そして、車窓を大きくあけて、窓の外へ力いっぱい半身を出しながら、遠く遠くその姿がだんだん小さく、そして、見えなくなるまで、私達は力のある限り手を振り、家族との別れを惜しみました。これが私達九人家族の最後の別離となりました。特に4人の幼い弟、妹達がその可愛い手を力一杯振りながら私達が見えなくなるまで見送ってくれたのが印象的で今でもまぶたに悲しく浮んでまいります。
やがて二人の兄弟は「内湖」に到着して、ひと晩を漁夫の家で泊り、その翌日、南に向かって出発する小さな帆掛け船に乗りました。荒波が押し寄せる暗い海岸で、何時また帰るかも知れない離別の運命の中で、私達はなつかしい港を出発して、海の上を航行しながら、南へ南へ!向かいました。その時が午前4時頃でした。
暫く経って、何時の間にか夜は明けて、海の上での第Ⅰ日目が始まりました。
ああ!何と珍らしく、何と見事な光景でしょう。
限りなき海の彼方《かなた》に、煌煌《こうこう》とまっかな太陽が登り始め、空には一片の雲も見えず、さっぱりと晴れた青空の下、そよ風をはらんで、帆掛け船は静かに海の上を滑るようにさわやかに走っていました。はるか彼方に遠く見える青い海原!陸地が近い東海の同乗者達は、既に食事は終えて或《あ》る中年紳士が歌う「春香歌」と言う韓国の古典民謡を聞きながら、船室の中で、静かに仰向け《あおむけ》に寝ていました。船室とは言え、それは、魚を貯蔵する倉庫として使われる小さな部屋でした。でも、私は何か神秘境の中で、恍惚《こうこつ=我を忘れてうっとりする》とした未知の世界を探して行くような、表現しがたい新しき希望と歓喜と期待が入り交じった感情が胸の中で沸き起こるような気持でした。今や若者の浪漫《ろうまん=ロマン》と夢を抱いた帆掛けけ船は、銀色のように美しくまばゆい朝日をたっぷり浴びながら平和な航行をつづけました。
順風を帆いっぱいに受けて南へ南へ向かって航行する運命の帆掛け船!何か私も知らない楽しい歓楽の世界が目の前に展開するような幻想の中で、私は静かに寝そべって船の上で聞こえてくる「春香歌」の哀れな唄《うた》声に耳を立てていました。このようにして第一日は無事過ぎ去り、やがて、海上での第二日日を迎えるようになりました。
第二日目も天佑神助《てんゆうじんじょ=天の助け、神の助け》と言えましょうか、一日中さっぱり晴れた秋の好天気でしたが、昼の12時頃、38度線を越える時には、空に「ソ連《=ソビエト社会主義共和国連邦》」の偵察《ていさつ》航空機が飛行していたので、甲板の上には船長一人だけ残して、その他の同乗者全員は、暗い船室の中にもぐり込んで姿をかくさなければならなかったのです。その後、時間はどんどん過ぎ去って、私達は何時の間にか海上での第三日目を迎えるようになりました。
第3日目は、風の方向が逆に変って、船は海の上でさ迷い、到底目的地へ進むことが難しくなっていました。そして何時のまにか、日没の時間には、或る小さな孤島(無人島)に着いていました。従って、船はやむなくその孤島の海岸近くに錨《いかり》を下して一晩泊ることになりました。
その日の夜は特に月が明かるく、高い空の上には数多くの星がきらきらとと輝いていました。私は甲板の上に登り、目の前に展開する小ささ孤島の姿を眺めました。島の海岸には、小波の中に大きな岩が聳《そび》えていました。そして、その岩の向こう側に、青い松林と芝が美しく生えている小さな山が見えました。同時に、この岩と、松林と、芝は、きらきら輝く星と月の光をいっぱいに受けて、丁度、仙境を思わせる美しき絵のようでした。しかも、その神秘的で恍惚なる全景は、実に筆舌につくし難い天然的な偉大な美感であり感動的でありました。それだけでなく、南の方から吹いてくるそよ風は、島の松林を通過して、その涼しい香りを誇っていました。私は兄さんと二人で、夜がふけるのも知らず、この美しき光景をうっとりして眺めながら、ひと晩を夢のように送りました。
その翌日、東海のはるか彼方に、再びまっかな太陽が登り始めると同時に、海上での第4日目が始まりました。四日目は風の方向がまた変り、天気もよくて、帆掛け船は、風をいっぱいはらんで、南へ南へ進みました。この日は私達が乗っている船に沿って、悠々と私達の船ぐらい大きなフカ(鰭)が泳いでいるのを見て、びっくりしました。それは実に生物の偉大なる存在を誇る海の驚嘆すべき光景だと言えましょう。
第5日目は、遠い海の上を、静かに泳いでいくクジラも見ることが出来ました。クジラはちょうど映画で見るような大きな姿で、小さな島が海の上に浮かんで流れて行くようでした。
このように、この世でまだ見た事もない、珍しいいろいろな風景を観賞しながら、第6日目も無事過ごしてやがて、次の第7日日の正午12時に、運命の帆掛け船は、韓国の江原道注文津の海岸に到着しました。
『やあ!大韓民国に来た!夢に見たなつかしき土だ!自由の
国だ!』
船の同乗者はみんな一斉に小躍りしながら、大きな声で叫びました。このようにして、私達二人の兄弟は、夢に見たあこがれの自由の土の上で、第一歩を力強く踏み出しました。その後、注文津警察署の案内を受けて、常時、注文津の浜辺に散在している「日本人収容所」 の天幕の一つを借りて、ひと晩を天幕収容所の中で、過ごすようになりました。
そこで、私達は満州、或いは北朝鮮の方から、毎日ほとんど徒歩でこちらまで来た数多き日本人の哀れな姿を見ました。幼な子を抱えた若き戦争未亡人、日に焼けて黒い顔をした若者達、みすぼらしくやつれた垢《あか》だらけの身なりをした男と女達、実にそれは敗戦国民の悲惨極まる姿そのものでした。然し、その悲惨なる状況に置かれた当時に比べて、今や経済大国として、全世界に君臨する日本を建設した日本人のその固き意志と勇気と屈しない団結心を思うと、実に驚嘆せずにはおられません。
その後、私達は「日本人収容所」 の天幕に2日間泊って居ましたが、或る日のお昼頃、若い日本の女性が三人訪れて来ました。二人は十九・二十ぐらいの未婚女性でまた一人は五・六才の男の子供を持っている二十四・五才の若い女性でした。
『こちらは韓国人の泊まる天幕ですか。』
『はい、そうです。』
『ちょっと中に入ってもいいでしょうか。』
『ええ、いいです。どうぞお坐りなさい。』
『ありがとうございます。お尋ね致しますが、もしも韓国の
人達がよかったら、私達三人は日本に行かず、こちらの韓
国で韓国の人といっしょに暮らしたいのですが、どうでし
ょうか。』
『まことにありがとうございます。然し、私達はみんなソウ
ルに行って学校に入って勉強しなければならない学生の身
ですから、今日本の女性と一緒に暮して行く能力も無く、
またそういう環境に置かれて居ません。ほんとうにすみま
せん。』
『ああ、そうですか。失礼しました。サヨウナラ。』
さびしく去って行く若い彼女達、実に哀れでみすぼらしい姿でしたが、その体とお顔には立派で上品な人間味が満ち溢《あふ》れて見える美しき女性でした。ああ、青い海原が見えるそよ風が吹く浜辺で、白い砂を踏みながらしずかに去って行ったあの美しき彼女達!青春を誇る花のように美しく、憧れ《あこがれ》と希望に燃える彼女達をこのように哀れな運命に落ち入らせた人々は一体誰なのでしょうか。
一方、当時悲惨な運命の岐路《きろ=分かれ道》でさ迷った彼女達は、今日本の何処《どこ》で何をしながら生きているのでしょうか。、、、、、、つづく
これは、北朝鮮からの引き揚げ記録の私の友人、野崎 博氏が発行した同窓会誌に特別寄稿された、北朝鮮時代の日本人学校でともに勉強した韓国人の記録です。発行者の許可を得て投稿させて頂きます。当時の北朝鮮の日本人学校には、少数ですが、北朝鮮の優秀な学生もともに学んでいたそうです。日本の敗戦と同時に開放された向学心に燃える彼等側から見た終戦の記録と言えるでしょうか。、、、、、、、、、、、団子
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特別寄稿
自由を尋ねた帆掛け船
機一回生 朴 益 悳 1996記
今から約五十年前、1946年9月初旬の或る日の事でした。
1945年8月15日、日本の敗戦によって、民族の解放の喜びと同時に、燃え上がる希望を胸にいだいて、故郷に帰って来た兄と二人で、故郷を離れて、ソウルに向かう事を決意して、故郷の家に別れを告げ、南に向って出発しました。もともと私の故卿は、北朝鮮の成興ですが、当時、私の家族は興南に住んでいました。家にはおばあさん・父・母・兄・弟二人・妹二人と私を含め全部で九人の大家族でした。今は最後の離別であるとはらはらと涙を流す80のおばあさんと、二度も地面に倒れながら離れて行く二人の息子との悲しい別れを惜しんで涙を流すなつかしい母の姿を後に、私達二人の兄弟は、簡素な着替えを入れた、小さな包み物を一づつ手にぶらさげて、夢にも忘れられない故郷の家の門を出たのであります。
その時、父と四人の弟と妹は、仲良く歩いて、私達を見送ってくれました。当時、興南の雲龍里駅で私達は、海が見える「内湖」と言う所まで行く為に、汽車に乗りました。そして、車窓を大きくあけて、窓の外へ力いっぱい半身を出しながら、遠く遠くその姿がだんだん小さく、そして、見えなくなるまで、私達は力のある限り手を振り、家族との別れを惜しみました。これが私達九人家族の最後の別離となりました。特に4人の幼い弟、妹達がその可愛い手を力一杯振りながら私達が見えなくなるまで見送ってくれたのが印象的で今でもまぶたに悲しく浮んでまいります。
やがて二人の兄弟は「内湖」に到着して、ひと晩を漁夫の家で泊り、その翌日、南に向かって出発する小さな帆掛け船に乗りました。荒波が押し寄せる暗い海岸で、何時また帰るかも知れない離別の運命の中で、私達はなつかしい港を出発して、海の上を航行しながら、南へ南へ!向かいました。その時が午前4時頃でした。
暫く経って、何時の間にか夜は明けて、海の上での第Ⅰ日目が始まりました。
ああ!何と珍らしく、何と見事な光景でしょう。
限りなき海の彼方《かなた》に、煌煌《こうこう》とまっかな太陽が登り始め、空には一片の雲も見えず、さっぱりと晴れた青空の下、そよ風をはらんで、帆掛け船は静かに海の上を滑るようにさわやかに走っていました。はるか彼方に遠く見える青い海原!陸地が近い東海の同乗者達は、既に食事は終えて或《あ》る中年紳士が歌う「春香歌」と言う韓国の古典民謡を聞きながら、船室の中で、静かに仰向け《あおむけ》に寝ていました。船室とは言え、それは、魚を貯蔵する倉庫として使われる小さな部屋でした。でも、私は何か神秘境の中で、恍惚《こうこつ=我を忘れてうっとりする》とした未知の世界を探して行くような、表現しがたい新しき希望と歓喜と期待が入り交じった感情が胸の中で沸き起こるような気持でした。今や若者の浪漫《ろうまん=ロマン》と夢を抱いた帆掛けけ船は、銀色のように美しくまばゆい朝日をたっぷり浴びながら平和な航行をつづけました。
順風を帆いっぱいに受けて南へ南へ向かって航行する運命の帆掛け船!何か私も知らない楽しい歓楽の世界が目の前に展開するような幻想の中で、私は静かに寝そべって船の上で聞こえてくる「春香歌」の哀れな唄《うた》声に耳を立てていました。このようにして第一日は無事過ぎ去り、やがて、海上での第二日日を迎えるようになりました。
第二日目も天佑神助《てんゆうじんじょ=天の助け、神の助け》と言えましょうか、一日中さっぱり晴れた秋の好天気でしたが、昼の12時頃、38度線を越える時には、空に「ソ連《=ソビエト社会主義共和国連邦》」の偵察《ていさつ》航空機が飛行していたので、甲板の上には船長一人だけ残して、その他の同乗者全員は、暗い船室の中にもぐり込んで姿をかくさなければならなかったのです。その後、時間はどんどん過ぎ去って、私達は何時の間にか海上での第三日目を迎えるようになりました。
第3日目は、風の方向が逆に変って、船は海の上でさ迷い、到底目的地へ進むことが難しくなっていました。そして何時のまにか、日没の時間には、或る小さな孤島(無人島)に着いていました。従って、船はやむなくその孤島の海岸近くに錨《いかり》を下して一晩泊ることになりました。
その日の夜は特に月が明かるく、高い空の上には数多くの星がきらきらとと輝いていました。私は甲板の上に登り、目の前に展開する小ささ孤島の姿を眺めました。島の海岸には、小波の中に大きな岩が聳《そび》えていました。そして、その岩の向こう側に、青い松林と芝が美しく生えている小さな山が見えました。同時に、この岩と、松林と、芝は、きらきら輝く星と月の光をいっぱいに受けて、丁度、仙境を思わせる美しき絵のようでした。しかも、その神秘的で恍惚なる全景は、実に筆舌につくし難い天然的な偉大な美感であり感動的でありました。それだけでなく、南の方から吹いてくるそよ風は、島の松林を通過して、その涼しい香りを誇っていました。私は兄さんと二人で、夜がふけるのも知らず、この美しき光景をうっとりして眺めながら、ひと晩を夢のように送りました。
その翌日、東海のはるか彼方に、再びまっかな太陽が登り始めると同時に、海上での第4日目が始まりました。四日目は風の方向がまた変り、天気もよくて、帆掛け船は、風をいっぱいはらんで、南へ南へ進みました。この日は私達が乗っている船に沿って、悠々と私達の船ぐらい大きなフカ(鰭)が泳いでいるのを見て、びっくりしました。それは実に生物の偉大なる存在を誇る海の驚嘆すべき光景だと言えましょう。
第5日目は、遠い海の上を、静かに泳いでいくクジラも見ることが出来ました。クジラはちょうど映画で見るような大きな姿で、小さな島が海の上に浮かんで流れて行くようでした。
このように、この世でまだ見た事もない、珍しいいろいろな風景を観賞しながら、第6日目も無事過ごしてやがて、次の第7日日の正午12時に、運命の帆掛け船は、韓国の江原道注文津の海岸に到着しました。
『やあ!大韓民国に来た!夢に見たなつかしき土だ!自由の
国だ!』
船の同乗者はみんな一斉に小躍りしながら、大きな声で叫びました。このようにして、私達二人の兄弟は、夢に見たあこがれの自由の土の上で、第一歩を力強く踏み出しました。その後、注文津警察署の案内を受けて、常時、注文津の浜辺に散在している「日本人収容所」 の天幕の一つを借りて、ひと晩を天幕収容所の中で、過ごすようになりました。
そこで、私達は満州、或いは北朝鮮の方から、毎日ほとんど徒歩でこちらまで来た数多き日本人の哀れな姿を見ました。幼な子を抱えた若き戦争未亡人、日に焼けて黒い顔をした若者達、みすぼらしくやつれた垢《あか》だらけの身なりをした男と女達、実にそれは敗戦国民の悲惨極まる姿そのものでした。然し、その悲惨なる状況に置かれた当時に比べて、今や経済大国として、全世界に君臨する日本を建設した日本人のその固き意志と勇気と屈しない団結心を思うと、実に驚嘆せずにはおられません。
その後、私達は「日本人収容所」 の天幕に2日間泊って居ましたが、或る日のお昼頃、若い日本の女性が三人訪れて来ました。二人は十九・二十ぐらいの未婚女性でまた一人は五・六才の男の子供を持っている二十四・五才の若い女性でした。
『こちらは韓国人の泊まる天幕ですか。』
『はい、そうです。』
『ちょっと中に入ってもいいでしょうか。』
『ええ、いいです。どうぞお坐りなさい。』
『ありがとうございます。お尋ね致しますが、もしも韓国の
人達がよかったら、私達三人は日本に行かず、こちらの韓
国で韓国の人といっしょに暮らしたいのですが、どうでし
ょうか。』
『まことにありがとうございます。然し、私達はみんなソウ
ルに行って学校に入って勉強しなければならない学生の身
ですから、今日本の女性と一緒に暮して行く能力も無く、
またそういう環境に置かれて居ません。ほんとうにすみま
せん。』
『ああ、そうですか。失礼しました。サヨウナラ。』
さびしく去って行く若い彼女達、実に哀れでみすぼらしい姿でしたが、その体とお顔には立派で上品な人間味が満ち溢《あふ》れて見える美しき女性でした。ああ、青い海原が見えるそよ風が吹く浜辺で、白い砂を踏みながらしずかに去って行ったあの美しき彼女達!青春を誇る花のように美しく、憧れ《あこがれ》と希望に燃える彼女達をこのように哀れな運命に落ち入らせた人々は一体誰なのでしょうか。
一方、当時悲惨な運命の岐路《きろ=分かれ道》でさ迷った彼女達は、今日本の何処《どこ》で何をしながら生きているのでしょうか。、、、、、、つづく