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韓国人、朴益悳氏の終戦記

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団子

通常 韓国人、朴益悳氏の終戦記

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2005/10/31 21:05
団子  半人前   投稿数: 22
(二)

その翌日、私達は再び着物を入れた小さな包み物を手にぶらさげて、警察署の好意で無料でソウルに行く荷物トラックに乗ることが出来ました。ガタガタと音を立てる荷物トラックの後の方に乗って、長い長い自動車旅行で、大関嶺と言う雲の上に聳える高い峠を越えて、そして、江原道の春川を経て、私達は夢に見たソウルの街に到着しました。然し、はなやかな美しきソウルの街々は、銭一文もない我我には、あまりにも非情極まる冷たい街でした。

けれども、その非情なる人々の中でも、私達二人の兄弟に、家賃も貰《もら》わず無料で部屋を惜してくれた心の暖かい恩人がおりました。私達はこの恩人の家の部屋で、自ら木片を組み合わせて、寝台を作り、自炊生活を始め、時には新聞配達、時には家庭教師等をしながら、苦学の道を仙《たど》り始めました。然し、私達二人の兄弟は、このすべての苦難と力強く闘いました。時には非常なる街の一角に立ち止まって、寒さに凍えた身をふるわせ、生の恐怖におののいた瞬間もありました。また空腹になつた腹をかかえながら、飢餓に瀕《ひん》して、冷たい道ばたをさ迷う時もありました。

然し、何と不思議な事でしょう!その時には常に、目に見えない恩人が何処《どこ》からか現われて、私達を助けてくれました。

数多き人々が次々と死んで行ったあの民族の悲劇、六・二五動乱の時には、道ばたに溢《あふ》れる避難民の中で、二人の兄弟は別れ別れになってしまいました。そして、お互い生死もわからない中で、長い間悲しくさびしい日々を過ごしましたが、奇蹟《きせき》といいましょうか、それから約二年後、私は韓国南端の港町釜山で、当時陸軍工兵隊に入隊して陸軍少尉の肩章もあざやかに立派な軍人になった兄さんと感激の再会をしました。このようにして、民族の悲劇と言う悲しき運命の中でも偉大なる自由を尋ねた私達二人の兄弟は、

 『ソウルに行けば、どんな事があっても必ず大学に入って、
  大学校の全課程を終えるようにせよ。』

と何度も繰り返しておっしゃった父の最後の言葉を、自ら実践することが出来ました。

その後、歳月は矢の如く過ぎ去りました。その間、兄さんと私は、大学を卒業した後、自ら学費を調達しながら再び兄は大学院を、私は教育大学院を終了して、兄は陸軍士官学校の教授になり、私は高等学校及び女子中学校の教師になりました。

私達兄弟は、楽しい夏休みを迎えると、しばしばあの注文津の海岸に行きます。注文津の海岸の松の木と砂場と波の音は、昔のそのままで、少しも変っていませんでした。

私達は五十年前のその浜辺の砂場を静かに踏んで歩きます。そして海原のはるか彼方《かなた》、見えない故郷の空を眺めながら、時の経つのを忘れてなつかしき思い出を語り合います。

またお正月と韓国の名節の日である「秋夕」には、兄弟の全家庭が朝早く兄さんの家に集って、今はこの世の人でないと思われる父と母の御霊に対してお祈りをします。
その間、休戦線を境に、南と北、国境でなき国境を作り、二つの国に別れた悲しい民族の運命!今はるか彼方の故郷の空の下で、なつかしき弟と妹、そして彼等の家族は何をしながら生きているのでしょうか。故郷を離れてここに五十年!想像さへも出来なかったこの長い歳月を、波乱万丈の人生の中で強く生きて来た私達は、今はこの自由の国であまりにも幸福です。然し、この『自由を尋ねた帆樹け船』の追憶は一生片時もわすれません。 

                         完


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