玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )・2
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玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 ) (編集者, 2008/10/5 8:21)
- 玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )・2 (編集者, 2008/10/6 7:50)
- 玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )・3 (編集者, 2008/10/7 8:17)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
陣地を捨て 池の丘に進出
米軍陣地が一望出来る丘の上に中山二等兵と移動し転伏したトロッコを住居にし、昼間は潜み、夜間行動で食糧確保に勉めた パパイヤの根、オカガニ、ヤシガニ、稀に米軍食糧によって命をつないだが慢性の栄養失調になりつつあった。
遊兵《注1》と合流、アンガウル島《注2》脱出計画
正月を迎える。小指のようなサツマイモ、野鶏のスープ、ヤシガニで戦友中山と祝う。日本援軍は来ないがいつか来るだろうと祈っていた。米軍は飛行場を完成し米軍機は西へと飛んでいく。比国攻略の為だろうと考えていた。夜間トロッコから出て米軍陣地を見ていると岩陰を動く物体に気づいた。日本兵以外に居ないと思い近寄るのを待って誰何《すいか》する。
「照」と呼ぶと「神兵」と返事が返ってきた。友軍の木下兵長で沖縄兵二名と旧陣地内に潜んでいるという。合流して数日後、食糧難からこのままアンガウル島に居れば餓死するしか無い、島を脱出して北部の無人島へ渡ろうと考えていた私は脱出計画を提案した。しかし沖縄兵が山原(ヤンパル)出身で泳げないという。そこで一計を案じて筏を作り、つかまって足だけ泳がせペリリユー島を目指して夕刻出発し一時間に一キロメートル泳ぐ。
十二キロを泳ぎきれば夜明け前にべリリユー島西岸に着く。後は島伝いに適当な無人島に渡ろうと計画した。北東港に近い海に入り上げ潮に乗り北西に進んだ。やがて下げ潮にかかると逆潮によりグングン流された。必死で泳ぐが、三人を引っばつて体力のない二人の泳ぎでは無理なことであつた。ペリリユー島の灯が次第に遠のく。濡れた軍服が、地下足袋が重い。体力の限界を知り三時間の力泳後力尽きて西港近くに逆上陸した。
再び食料確保に出撃、二名射殺され、三名P・O・W(捕虜)に
旧陣地内に再び潜み、長期籠城に備えるべく食糧確保を考え夜間に西港へ出撃、米軍歩哨線のアンテナ(鉄篠網)に引っかかり沖縄兵二名と中山二等兵が死亡した。倉田・木下・沖縄兵の三名が後ろから撃たれると思い観念したが撃たれなかった。やがて米兵が集まり見せ者の屈辱。翌日米軍MPの尋問を受けた後、ペリリユー島へ渡る。
P・O・W・キャンプで船坂軍曹に逢う。
ハワイへゆくと、下園二等兵、板垣兵長、田中軍曹等が先着し私達がアンガウル島で生存していたことに驚く。
米国P・O・Wキャンプへ、そして復員
ペリリユーからヤップのウルシー、グアム、ハワイ、米大陸西岸のポートランド、サンフランシスコ、サクラメントを経てウィスコンシン州、そしてアイオワ州のクラリンダー郊外のP・O・W・キャンプに入る。大陸横断鉄道での移動である。やがて終戦、私は負傷者の一員として真先に日本に移送されることになり、昭和二〇年の十一月に横浜港に入り浦賀の重砲学校で復員した。
四年ぶりの祖国日本は富士山が美しかった。
注1:指揮系統から外れた兵隊
注2:南太平洋パラオ諸島の島
米軍陣地が一望出来る丘の上に中山二等兵と移動し転伏したトロッコを住居にし、昼間は潜み、夜間行動で食糧確保に勉めた パパイヤの根、オカガニ、ヤシガニ、稀に米軍食糧によって命をつないだが慢性の栄養失調になりつつあった。
遊兵《注1》と合流、アンガウル島《注2》脱出計画
正月を迎える。小指のようなサツマイモ、野鶏のスープ、ヤシガニで戦友中山と祝う。日本援軍は来ないがいつか来るだろうと祈っていた。米軍は飛行場を完成し米軍機は西へと飛んでいく。比国攻略の為だろうと考えていた。夜間トロッコから出て米軍陣地を見ていると岩陰を動く物体に気づいた。日本兵以外に居ないと思い近寄るのを待って誰何《すいか》する。
「照」と呼ぶと「神兵」と返事が返ってきた。友軍の木下兵長で沖縄兵二名と旧陣地内に潜んでいるという。合流して数日後、食糧難からこのままアンガウル島に居れば餓死するしか無い、島を脱出して北部の無人島へ渡ろうと考えていた私は脱出計画を提案した。しかし沖縄兵が山原(ヤンパル)出身で泳げないという。そこで一計を案じて筏を作り、つかまって足だけ泳がせペリリユー島を目指して夕刻出発し一時間に一キロメートル泳ぐ。
十二キロを泳ぎきれば夜明け前にべリリユー島西岸に着く。後は島伝いに適当な無人島に渡ろうと計画した。北東港に近い海に入り上げ潮に乗り北西に進んだ。やがて下げ潮にかかると逆潮によりグングン流された。必死で泳ぐが、三人を引っばつて体力のない二人の泳ぎでは無理なことであつた。ペリリユー島の灯が次第に遠のく。濡れた軍服が、地下足袋が重い。体力の限界を知り三時間の力泳後力尽きて西港近くに逆上陸した。
再び食料確保に出撃、二名射殺され、三名P・O・W(捕虜)に
旧陣地内に再び潜み、長期籠城に備えるべく食糧確保を考え夜間に西港へ出撃、米軍歩哨線のアンテナ(鉄篠網)に引っかかり沖縄兵二名と中山二等兵が死亡した。倉田・木下・沖縄兵の三名が後ろから撃たれると思い観念したが撃たれなかった。やがて米兵が集まり見せ者の屈辱。翌日米軍MPの尋問を受けた後、ペリリユー島へ渡る。
P・O・W・キャンプで船坂軍曹に逢う。
ハワイへゆくと、下園二等兵、板垣兵長、田中軍曹等が先着し私達がアンガウル島で生存していたことに驚く。
米国P・O・Wキャンプへ、そして復員
ペリリユーからヤップのウルシー、グアム、ハワイ、米大陸西岸のポートランド、サンフランシスコ、サクラメントを経てウィスコンシン州、そしてアイオワ州のクラリンダー郊外のP・O・W・キャンプに入る。大陸横断鉄道での移動である。やがて終戦、私は負傷者の一員として真先に日本に移送されることになり、昭和二〇年の十一月に横浜港に入り浦賀の重砲学校で復員した。
四年ぶりの祖国日本は富士山が美しかった。
注1:指揮系統から外れた兵隊
注2:南太平洋パラオ諸島の島