シベリア抑留記 ・2 中村一成(88才)
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シベリア抑留記 中村一成(88才) (編集者, 2010/1/12 9:45)
- シベリア抑留記 ・2 中村一成(88才) (編集者, 2010/1/13 8:16)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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収容所は満州からのよせ集めの集団で約1000名。
すぐ身体検査がありソ連の女性軍医の前に素っ裸で立ち肉付きの良い者から1級、2級、3級、オッカと4段階に分けられ1、2級は炭鉱入り、3級、オッカは炊事その他雑用係であった。
私は小隊長。50名程の指揮者になる。
1月を3分して夜勤の者、昼の者、其の他の者に分られ36炭鉱に入った。
今まで空を飛んでいたのが地下で石炭を掘る作業とは情けなかった。
意地の悪いロシア人の監督が居て喧嘩し乍ら毎日が地獄のような生活であった。
ロシア人は口では顔色を変えて怒るが絶対に暴力はなかった。
ノルマと言うものがあって100%の成果が無いと待遇が悪くなりロシア人の監督も100%成績が上がらないと下げられて昨日まで自分の部下であった者に逆にこき使われる。
我々日本人では想像もつかないようなシステムであった。
そこで俺は考えた。絶対に日本に帰るという大目的があるのでこんなところで死んではどうもならん。
ある日、ロシアの石炭のトロッコを何台出炭したかを数える人を買収することを考えた。
一日の作業を終えて帰る時に其の人に絶対二人だけの秘密だぞと念を押して毎日の出炭量を100%~110%ぐらいにサインしてもらうようにした。
お前も良いし俺も良いと二人だけの秘密にした。
もし、この事がばれて処罰を受けても部下の人達が無事に日本に帰れば本望だと思った。
ロシアにきて二年目、昭和22年5月頃病人から先に日本に帰すと言う情報が流れてきた。
ロシアでは外形が変わっているか、体温が37度以上ないと病人には認めてくれないので毎日医務室に通った。
軍医の目を盗んで体温計に息を吹きかけたり掛けたり体温計を摩擦して何とか37度以上を続けた。
その結果、第一次の帰国リストに乗った。
レントゲン検査を受ける事になり、結果は駄目になり帰国は取り消された。
しかしこのお陰で探鉱作業からコルホーズ(農業)の方に廻されて毎日ジャガ芋造りや建築作業をやらされた。
炭鉱よりは安全な仕事であった。
抑留三年目から民主運動が盛んになり洗脳教育が初まった。
全く自由の無い共産主義には馴染めず”物言えばつるし上げ”になるので無口になった。
我々の収容所では若い兵隊がオルグ(積極分子)になったようだ。
抑留も三年目昭和23年5月頃から又ダモイの噂が出て来た。
又毎日医務室に体温を計りに通って37度以上体温を続けTB(肺結核)という病名で帰国する事が出来た。
我々の収容所の主力は昭和24年に帰国したようだ。
8月29日ナホトカで日本船永徳丸の日の丸が見えた時は感激した。
乗船する迄は威張っていたオルグの連中は船がナホトカを出港すると隅の方で小さくなって気の毒なぐらいであった。
我々の時ではまだ日の丸組が80%ぐらいであった。
9月1日朝、日本の美しい山々が見えて来た時は涙が出る程嬉しかった。
2日ばかりで帰国の手続きをする。
俺の名前の上に赤鉛筆で生死不明と書いてあったのに少し驚いた。変な気持になった。
9月3日、名古屋駅に父と親戚の者が迎えに来ていて我が家に帰る。
まだ名古屋駅には戦争孤児が多くさん居て、ああ戦争に敗けたのだとつくづく思った。