シベリア抑留記 中村一成(88才)
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- シベリア抑留記 中村一成(88才) (編集者, 2010/1/12 9:45)
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投稿日時 2010/1/12 9:45
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
スタッフより
この投稿は、えーさん経由で中村一成様より頂戴した
手書きの原稿をテキスト化したものです。
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シベリア抑留記・1
H21.12.21
私は昭和13年4月1日、16才で陸軍少年飛行兵学校に入校。
昭和16年3月同校を卒業し、陸軍戦闘機PIROTとして南方方面ニューギニア、ガダルカナル方面に転戦し、昭和18年10月ソ連に備えて満州防空の任務に付いた。
昭和20年8月9日ソ連軍宣戦を布告、満州に機械化部隊を先頭に進入して来た。
之れを迎撃し多大の戦果を挙げた8月15日は、08:00時、四平飛行場を離陸し白城子、桃南方面に進入して来たソ連軍を攻撃
10:00時着陸し燃料補給し再度攻撃に行こうとしたら12:00時に重大放送があるから出発を待てという事であった。
12:00時に天皇陛下の玉音放送で終戦を知り張りつめていた気持ちがいっぺんに空白状態になった。
満州遼陽飛行場に帰り死を覚悟でいた戦争も終り生きて日本に帰れるぞと内心ホットしていた。
8月19日、関東軍から満州のハルピンで満軍の江上艦隊が反離を起こして在留邦人がひどい目に合っているから満軍の江上艦隊を攻撃せよとの命令がきた。
9機整備共で20名で出発し新京で燃料補給し攻撃に出発しようとしたら中佐の参謀が来て後10分後にソ連の軍使が乗った飛行機が来るからエンヂンを停止せよと言って来た。
燃料は満タンしたので九州迄無着陸で飛べたけど後に残った人達に申訳ないのでエンヂンをとめた。
すぐソ連の大型輸送機が着陸してソ連の兵士が我々の飛行機に自動小銃をつき付けた。すぐ新京駅迄逃げた。
この時点で軍の指揮系統は乱れて無統制であった。
新京駅も北満から来た開拓団の人達や在留邦人でごった返していた。
新京駅で何とか南満方面に行く貨物列車があったので貨車に飛び乗って遼陽に行かうとしたが四平街で止まってもう先はいけないとの事であった。
四平街で下車し我々20名はお寺にお世話になった。
広島の部隊が丁度中支から引き揚げて来ていて原爆で広島が被害が一番ひどいので広島の部隊を一番先に日本へ帰すという情報があったので広島の部隊に編入してもらった。
9月16日、四平街駅から貨物列車に乗り9月下旬黒河に着いた。
黒河からブラゴエスチェンスクと言う町へ着いた。
ウラジオストックから日本へ帰ると皆期待していたが俺は全然駄目だと思っていた。そんな親切なロシアでは無いと思っていた。
ブラゴエスチェンスクから貨車に乗せられ20日くらいかかって到着した所は中央アジアのカザヒスタン国のカラカンダと言う炭鉱の町であった。
10月半ばであったが、もう雪が積もっていた。
北緯50度で、カラフトと同緯度の所である。カラカンダ第6収容所に入る。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
収容所は満州からのよせ集めの集団で約1000名。
すぐ身体検査がありソ連の女性軍医の前に素っ裸で立ち肉付きの良い者から1級、2級、3級、オッカと4段階に分けられ1、2級は炭鉱入り、3級、オッカは炊事その他雑用係であった。
私は小隊長。50名程の指揮者になる。
1月を3分して夜勤の者、昼の者、其の他の者に分られ36炭鉱に入った。
今まで空を飛んでいたのが地下で石炭を掘る作業とは情けなかった。
意地の悪いロシア人の監督が居て喧嘩し乍ら毎日が地獄のような生活であった。
ロシア人は口では顔色を変えて怒るが絶対に暴力はなかった。
ノルマと言うものがあって100%の成果が無いと待遇が悪くなりロシア人の監督も100%成績が上がらないと下げられて昨日まで自分の部下であった者に逆にこき使われる。
我々日本人では想像もつかないようなシステムであった。
そこで俺は考えた。絶対に日本に帰るという大目的があるのでこんなところで死んではどうもならん。
ある日、ロシアの石炭のトロッコを何台出炭したかを数える人を買収することを考えた。
一日の作業を終えて帰る時に其の人に絶対二人だけの秘密だぞと念を押して毎日の出炭量を100%~110%ぐらいにサインしてもらうようにした。
お前も良いし俺も良いと二人だけの秘密にした。
もし、この事がばれて処罰を受けても部下の人達が無事に日本に帰れば本望だと思った。
ロシアにきて二年目、昭和22年5月頃病人から先に日本に帰すと言う情報が流れてきた。
ロシアでは外形が変わっているか、体温が37度以上ないと病人には認めてくれないので毎日医務室に通った。
軍医の目を盗んで体温計に息を吹きかけたり掛けたり体温計を摩擦して何とか37度以上を続けた。
その結果、第一次の帰国リストに乗った。
レントゲン検査を受ける事になり、結果は駄目になり帰国は取り消された。
しかしこのお陰で探鉱作業からコルホーズ(農業)の方に廻されて毎日ジャガ芋造りや建築作業をやらされた。
炭鉱よりは安全な仕事であった。
抑留三年目から民主運動が盛んになり洗脳教育が初まった。
全く自由の無い共産主義には馴染めず”物言えばつるし上げ”になるので無口になった。
我々の収容所では若い兵隊がオルグ(積極分子)になったようだ。
抑留も三年目昭和23年5月頃から又ダモイの噂が出て来た。
又毎日医務室に体温を計りに通って37度以上体温を続けTB(肺結核)という病名で帰国する事が出来た。
我々の収容所の主力は昭和24年に帰国したようだ。
8月29日ナホトカで日本船永徳丸の日の丸が見えた時は感激した。
乗船する迄は威張っていたオルグの連中は船がナホトカを出港すると隅の方で小さくなって気の毒なぐらいであった。
我々の時ではまだ日の丸組が80%ぐらいであった。
9月1日朝、日本の美しい山々が見えて来た時は涙が出る程嬉しかった。
2日ばかりで帰国の手続きをする。
俺の名前の上に赤鉛筆で生死不明と書いてあったのに少し驚いた。変な気持になった。
9月3日、名古屋駅に父と親戚の者が迎えに来ていて我が家に帰る。
まだ名古屋駅には戦争孤児が多くさん居て、ああ戦争に敗けたのだとつくづく思った。