元イギリス人空軍兵士生野町訪問・後篇
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元イギリス人空軍兵士生野町訪問 (編集者, 2010/2/15 8:55)
- 元イギリス人空軍兵士生野町訪問・後篇 (編集者, 2010/2/16 7:57)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
59年ぶりの出会い
終戦の前の年の春、当時中学生だった私達は、今日捕虜が大勢生野に来ると言うので、中猪野々の上の方で待っていた。みどり橋(現在の奥猪野々の橋)を渡った一角は捕虜収容所として武装の衛兵が橋の両側に立ち、爆撃に備えて屋根いっぱいにPW (捕虜収容所)と白字で書かれた数棟のバラックは、鉄条網が張りめぐらされた板塀の中にあった。
やっと夕方近くになって縦隊を組んだ捕虜の一団がアコーディオンやギターを鳴らしながらまるで楽団が来るようににぎやかにやってきた。戦争に楽器などと口々に言ったが、正直西洋の国を垣間見たようで驚きだった。
それからは朝の登校途中には決まって扇山あたりで衛兵に監視されながら金香瀬に入坑する長い捕虜の列と行き交った。当時はどちらも徒歩だったので、片言の英語で挨拶すると気さくに返事が返ってきた。中に『トーマス』という若いイギリス人がいて、お互いに大きな声で相手になりあった。一方、中学校では三菱重工の三輪製作所が疎開で生野鉱業所に来ており、我々は学徒動員として選鉱所の建物の中で旋盤を使ってV2というロケット弾の部品をつくる仕事をしていたが、そこにも捕虜がいて、旋盤を使ったり機械の搬入に上裸でかぐら巻きの仕事などをしていた。どの捕虜も大きな身体で、日本人が貧弱に見えた。竹村健一君が絶好の機会とばかり、盛んに捕虜と英会話していた。
そして8月15日、立場が逆転した彼等は、自由に町内を出まわり、町民には何をされるかわからないという不安もあったが、それは杞憂に終わり、鉱山のプールで見事な飛込みをして見せたり、自転車を借りて周辺の農家に出かけた。
そして8月の終わりごろ、米軍の輸送機が数機来て救援物資を扇山から白口の山中に投下した。低空でたくさんのパラシュートが落下する様は、物凄かった。それを拾いに行った者もあったが、いけないと言う触れで自粛した。それからは、当時手に入らないチョコレートやバター、チューインガム、タバコなどを持って、『エッグ、エッグ』と言って卵や鶏と交換にやってきた。パラシュートについている絹のベルトをもらって、腰のバンドを作るのが流行った。
そうして9月9日彼等は、それぞれの母国に帰ったのであるが、先日頂戴した「捕虜と通訳」 (著者 小林一雄氏‥元生野収容所通訳)と言う本に思いがけないことが書いてあるのに驚いた。
それは、帰国の一週間まえに生野鉱業所長らが主催する「収容者激励お別れパーティー」が鉱業所の集会ホールで開かれ、鉱業所、警察署、役場のそれぞれの幹部が参加し、捕虜側は各国の上級将校らが招かれ、和気藹藹うちに盛大に開催され昨日の敵は今日の友、すき焼きに日本酒、ビールで幾度となくエールが交歓されたとあるが、またそれとは裏腹に、収容所に関係した軍人達は最高責任者だけを残して後は全員どこかへいち早く姿を消してしまったが、どうやら生野駅付近の旅館に集団で身をひそめていたらしいと書いてある。
そこで、私は、日下旅館の日下義忠氏に当時のことを尋ねると、軍人達が二階に隠れるよう集まっているところへ捕虜があいさつにきた。祖母が軍人などいないと押問答していると、それをきいた軍人が二階から飛び下りて捕虜と出会ったと話された。 勝者と敗者は歴史の常と言いながら、劇的な一瞬である。
ところでこの度、来町した四人のうち三人は坑内削岩の仕事で、削岩機がないかと言っていたが、シルバー生野の坑内にあると懐かしそうにこれで岩を削っていたと格好してみせたが、カンテラを頼りにマスクも十分でないままの地下労働はきつかっただろう。
そして、もう1人は鉄索(廃石を大きなバケツに入れてロープケーブルで山越しに宮の谷に廃棄する仕事)と言った。生野の人でさえ今は鉄索を知らない人が多いのに、日本語で『テッサク』と言ったのには驚いた。ある時山から下りてくる空のバケツに山で採った花が入っていた。それを収容所に持ち帰り部屋に飾るとみんな喜んでくれたと話した。
また彼等の1人が三菱のマークを見て、『俺は未だ三菱から賃金をもらっていない』と冗談を言って笑わせたが、先述の本の中に『捕虜になってからは労働に従事した者にはそのつど支払われていた労賃と階級に応じて支給される給料が大束の郵便貯金通帳に全部蓄えられていた』と書かれており、国際法に従った待遇がされていたことが判る。
銃剣の監視下で各地を転々と3年以上もの捕虜生活はきつかったに違いないが、その愚痴はひと言も言わず、ただ人生の終わりを迎えるにあたって、もう一度あの生野を訪ねて、意味深い経験をしたいという思いがはるばるイギリスからの旅となったのである。
生野駅での別れの力強い握手に、やっとこれで安堵したと言う彼等の思いがひしひしと伝わってきた。
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スタッフより
写真上: 佐藤文夫さんの年齢は当時のものです。
写真下: 「捕虜と通訳 (小林 一雄)」」の表紙
本の内容は、このメロウ伝承館の「実録・個人の昭和史」に収録させていただいています。
終戦の前の年の春、当時中学生だった私達は、今日捕虜が大勢生野に来ると言うので、中猪野々の上の方で待っていた。みどり橋(現在の奥猪野々の橋)を渡った一角は捕虜収容所として武装の衛兵が橋の両側に立ち、爆撃に備えて屋根いっぱいにPW (捕虜収容所)と白字で書かれた数棟のバラックは、鉄条網が張りめぐらされた板塀の中にあった。
やっと夕方近くになって縦隊を組んだ捕虜の一団がアコーディオンやギターを鳴らしながらまるで楽団が来るようににぎやかにやってきた。戦争に楽器などと口々に言ったが、正直西洋の国を垣間見たようで驚きだった。
それからは朝の登校途中には決まって扇山あたりで衛兵に監視されながら金香瀬に入坑する長い捕虜の列と行き交った。当時はどちらも徒歩だったので、片言の英語で挨拶すると気さくに返事が返ってきた。中に『トーマス』という若いイギリス人がいて、お互いに大きな声で相手になりあった。一方、中学校では三菱重工の三輪製作所が疎開で生野鉱業所に来ており、我々は学徒動員として選鉱所の建物の中で旋盤を使ってV2というロケット弾の部品をつくる仕事をしていたが、そこにも捕虜がいて、旋盤を使ったり機械の搬入に上裸でかぐら巻きの仕事などをしていた。どの捕虜も大きな身体で、日本人が貧弱に見えた。竹村健一君が絶好の機会とばかり、盛んに捕虜と英会話していた。
そして8月15日、立場が逆転した彼等は、自由に町内を出まわり、町民には何をされるかわからないという不安もあったが、それは杞憂に終わり、鉱山のプールで見事な飛込みをして見せたり、自転車を借りて周辺の農家に出かけた。
そして8月の終わりごろ、米軍の輸送機が数機来て救援物資を扇山から白口の山中に投下した。低空でたくさんのパラシュートが落下する様は、物凄かった。それを拾いに行った者もあったが、いけないと言う触れで自粛した。それからは、当時手に入らないチョコレートやバター、チューインガム、タバコなどを持って、『エッグ、エッグ』と言って卵や鶏と交換にやってきた。パラシュートについている絹のベルトをもらって、腰のバンドを作るのが流行った。
そうして9月9日彼等は、それぞれの母国に帰ったのであるが、先日頂戴した「捕虜と通訳」 (著者 小林一雄氏‥元生野収容所通訳)と言う本に思いがけないことが書いてあるのに驚いた。
それは、帰国の一週間まえに生野鉱業所長らが主催する「収容者激励お別れパーティー」が鉱業所の集会ホールで開かれ、鉱業所、警察署、役場のそれぞれの幹部が参加し、捕虜側は各国の上級将校らが招かれ、和気藹藹うちに盛大に開催され昨日の敵は今日の友、すき焼きに日本酒、ビールで幾度となくエールが交歓されたとあるが、またそれとは裏腹に、収容所に関係した軍人達は最高責任者だけを残して後は全員どこかへいち早く姿を消してしまったが、どうやら生野駅付近の旅館に集団で身をひそめていたらしいと書いてある。
そこで、私は、日下旅館の日下義忠氏に当時のことを尋ねると、軍人達が二階に隠れるよう集まっているところへ捕虜があいさつにきた。祖母が軍人などいないと押問答していると、それをきいた軍人が二階から飛び下りて捕虜と出会ったと話された。 勝者と敗者は歴史の常と言いながら、劇的な一瞬である。
ところでこの度、来町した四人のうち三人は坑内削岩の仕事で、削岩機がないかと言っていたが、シルバー生野の坑内にあると懐かしそうにこれで岩を削っていたと格好してみせたが、カンテラを頼りにマスクも十分でないままの地下労働はきつかっただろう。
そして、もう1人は鉄索(廃石を大きなバケツに入れてロープケーブルで山越しに宮の谷に廃棄する仕事)と言った。生野の人でさえ今は鉄索を知らない人が多いのに、日本語で『テッサク』と言ったのには驚いた。ある時山から下りてくる空のバケツに山で採った花が入っていた。それを収容所に持ち帰り部屋に飾るとみんな喜んでくれたと話した。
また彼等の1人が三菱のマークを見て、『俺は未だ三菱から賃金をもらっていない』と冗談を言って笑わせたが、先述の本の中に『捕虜になってからは労働に従事した者にはそのつど支払われていた労賃と階級に応じて支給される給料が大束の郵便貯金通帳に全部蓄えられていた』と書かれており、国際法に従った待遇がされていたことが判る。
銃剣の監視下で各地を転々と3年以上もの捕虜生活はきつかったに違いないが、その愚痴はひと言も言わず、ただ人生の終わりを迎えるにあたって、もう一度あの生野を訪ねて、意味深い経験をしたいという思いがはるばるイギリスからの旅となったのである。
生野駅での別れの力強い握手に、やっとこれで安堵したと言う彼等の思いがひしひしと伝わってきた。
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スタッフより
写真上: 佐藤文夫さんの年齢は当時のものです。
写真下: 「捕虜と通訳 (小林 一雄)」」の表紙
本の内容は、このメロウ伝承館の「実録・個人の昭和史」に収録させていただいています。