元海軍軍医中尉_神津康雄氏_インタビュー
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元海軍軍医中尉_神津康雄氏_インタビュー (編集者, 2010/3/7 8:59)
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投稿日時 2010/3/7 8:59
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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スタッフより
この記事は「Jシップス(イカロス出版)」39号に掲載された下記によるものです。
シリーズ! 艦長・乗員スペシャルインタビュー
【第十六回】元海軍軍医中尉 第五八四設営隊軍医_神津康雄氏
転載につきましては、神津康雄様、および、Jシップス編集部のご了承を得ております。
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サイレン・トネイビー。黙して語らない---、
そんな海軍軍人の美学を私たちはこう呼んでいる。
だが、果てしない海のロマン、また様々なまた様々な戦歴の数々、船乗りとして語りつくせない思いは、誰の心も熱くさせてやまないことだろう。
当連載では、元海軍軍人、海上自衛官の方々にご登場いただき、その思いの一端に迫っていきたい。
――今回は大戦末期に学徒動員で海軍に入隊し、軍医を勤められた神津廉雄氏をお招きしてお話を伺います。
神津 軍医であったとは言いましても、私が海軍に入隊したのは東北帝国大学医学部に在学中の昭和19(1944)年、学徒動員でのこと。
たった一年半ほどの経験ですし、軍艦で勤務したわけでもなく、南方で米兵相手に苦しい戦いをしたわけではありませんから、果たして皆さんの期待されるようなことをお話できるかどうか。
ただ、戦後の風潮なのでしょうが、どうしても間違って伝えられていることを、私が当時やっていたことをお話しすることで、少しでもその「誤解」を解くことができればいいのですけれども……。
――「誤解」と言いますと、例えばどういったことでしょうか。
神津 いま私は「学徒動員」で入隊したと申し上げましたが、たとえばその「学徒動員」も、誤った印象で語られることが多いように思います。
戦後の映画やドラマでは、たいていの場合、動員された学生はいつも「戦争によって夢を断たれた悲劇の存在」で、「国家のために戦うことに批判的なインテリ」といった感じですよね。しかし実際にはそういう受け止め方はほとんどありませんでした。
中には徴兵拒否して逃亡した挙句に逮捕されるような者がいたことも確かですが、それはごくごく一部のことです。
否応もなく、と言えばそうなのですが、国が負ければ日本人全てが滅亡するかもしれないというときに――当時はそう思っていたわけですから、そんなことは言っていられません。
日本人の多くは、欧米のやり方に対して不満を持っていましたし、中国大陸で日本人居留民が惨殺されたと聞けば憤慨もしていました。
私も含め、ほとんどの学生たちは皆、「俺たちがやるしかない」という気持ちだったはずですよ。
一一確かに。当時としては、お国のために戦争に行くのは当たり前だったわけです。そういう当時の人々の感じ方というものに、戦後の人間はあまりにも無関心で、勝手な解釈をしすぎているのかもしれません。
神津 だと思います。私も、海軍に行くと決まったときは実に晴れやかな気持ちでした。
私の父親なども大変な喜びようでしたよ。
出征前、これが最後と帰省したとき、お守り代わりの刀を手渡すと、父はじっと私を見つめ一言言いました。
「これで、5人分死んでこい」と。
「わが家には男が5人いるが、兵隊になってお国のために働くのはお前だけだ。おそらくお前は死ぬことになるだろうが、ほかの兄弟たちの分も……」ということでしょう。
私の4人の男兄弟たちは皆、結核にかかってしまって軍隊に行っていなかったのですから。
--そもそも神津家は長い歴史を誇る名家と聞いております。父君の一言は今聞くと実に激しい言葉ですが、それも長い伝統を身近に感じていた当時の人たちの考え方では、普通だったのかもしれませんね。
神津 神津家は長野県北佐久郡志賀村(現:佐久市)で400年ほど続いた家で、代々名主をしていた家柄です。
佐久の地で「赤壁の家」と言えば、おそらくどなたもご存知なのじゃないでしょうか。
いわゆる豪農の本家筋で、私はそこで10人兄弟の2番目、四男坊として生まれました。
父の猛は地元で名士として知られ、島崎藤村の著作にも名前が出てきます。
もちろん、「破戒」や「夜明け前」で知られる藤村です。
藤村という人は、明治から大正、昭和と、日本が大国へと向かって近代化していく時代に「日本人の心」を追求した人です。
私の父は、その藤村と生涯にわたって心を許しあう親友であり、精神的な同志でした。
藤村がお金に困ればたびたび出資もしてあげていたようですから、パトロンのような存在でもあったのでしょう。
ちょうど司馬遼太郎の「坂の上の雲」がNHKでドラマ化されて話題になっておりますが、明治から昭和にかけては、日本が大国になるという夢に向かって、皆が力を合わせていた時代です。
ところが長野の田舎では、国のためにできることなど限られています。
父は藤村と天下国家のことを熱く語ったのでしょうが、惣領を継いだということもあって、簡単には身動きが取れない。
歯がゆくてもどかしい想いがどこかにあったのだろうと思います。
だから父は、私が海軍に進むと聞いて本当に喜んでくれました。
出征前に手渡してくれたお守りの刀は、実は家宝として神津家に伝わる「関の兼永」の銘刀です。
この日本刀は、戦後国宝にするんだと言って国に持っていかれてしまいましたが--。
それほど大事な刀と一緒に私を送り出し、国を護る使命を私に託したのです。
「5人分死んでこい」の言葉と気迫に、私は深く感動したことを覚えています。
――お父様は、神津さんが海軍で大活躍することをずいぶんと望んでいらしたんでしょうね。海軍に進まれたのには、何か理由がおありだったのでしょうか。
神津 私が海軍に入ったのは昭和19年でしょ。
すでに戦局の行く末もだいぶ見えていた頃ですから、活躍はしようにもできる状態ではないんです(笑)。
海軍に入ったのも大それた理由などありませんでしたね。
学徒動員のとき、当時私は東北帝国大学で医学部に在学中で、陸軍軍医学校か海軍軍医学校か選ぶことができたのです。
東北大学では学生寮に入っていたのですが、そこには陸軍や海軍に進んだ卒業生たちがよく顔を出しにきていました。
そこで彼らを見ていて思ったのが、「海軍のほうが格好いい」ということ(笑)。
陸軍に進んだ先輩たちはどうも威張り散らすのですが、海軍の方はと言えば行動もスマートでしたし、何よりも詰襟の軍服が格好良かった。
本当に、そういう単純な理由で海軍を選んでしまったんです。
ところが、軍服に憧れて海軍に入ったものの、支給されたのは作業服みたいなカーキ色の三種軍装だけ。
「ネイビー」ともてはやされた詰襟の一種軍装はもちろん、白い二種軍装も、私たちには支給されませんでした。
私は本当にがっかりしましてね。友人たちと「これなら陸軍に行ったほうがマシだったな」なんて笑っていましたよ。
写真には残っていますが、私がいかにも海軍らしい詰襟を着ることができたのは、たまたまのことです。
高校の一期下の者がどうしても学生服が着たいということで、私に向かって「自分の持っている詰襟の軍服と交換してくれ」って言ってきたわけです。
私は「これはありがたい」と喜んで交換、それからは誇らしげに詰襟を着ていましたよ。
そういうことでもなければ、私は海軍の詰襟を着ることもなく終戦を迎えたはずです。
考えてみれば、国が軍服さえ支給できないほど日本は追い詰められていたんですね。
ともあれ、昭和19年の7月から12月までの半年間、私は海軍軍医学校で鍛えられました。
――海軍軍医学校というのは、どういうことを教えるのでしょうか。
神津 本来ならば臨床医学と合わせて軍陣医学についても教えるところなのでしょうが、それらしいことはまったく教えてもらえませんでしたね。
「貴様たちは軍医として、全員が戦艦、駆逐艦、輸送艦、その他の艦艇に乗艦しなければならない」と言われましたが、その頃の海軍ではほとんどの艦艇が撃沈されていましたから、そもそも軍医の乗る船がないのです。
訓練中のことでしたが、ある教官などは「貴様たちにとっては戦争に行って死ぬのがいいんだろうが、乗る船がない。ならばここで死んでしまえ」なんて言ってね。
思いっきりぶん殴られて、意識不明になって死にかけたこともありました。
敗戦が間近に迫ってきた昭和19年ともなると、教官たちも、一度は死ぬつもりで出征して、それから内地へ戻ってきたような人たちばかりです。
どうやって戦死するのかということばかり考えてきて、国のために死ぬことが目的となっていたような人が、いきなり生徒を教えろだなんて言われれば、すさんだ気持ちにもなるのでしょう。
そんな教官ばかりでしたから、学科なんか一つも教わっていません。
国のため、立派に死ぬには、どうやって鍛えるか。
そして、死ぬときには海軍軍人らしく潔く死ぬ――軍医学校は、そのことだけを徹底的に教わった場所でしたね。