元海軍軍医中尉_神津康雄氏_インタビュー・続き
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元海軍軍医中尉_神津康雄氏_インタビュー (編集者, 2010/3/7 8:59)
- 元海軍軍医中尉_神津康雄氏_インタビュー・続き (編集者, 2010/3/8 8:28)
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――昭和19年末といえば、すでに10月のレイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅状態。軍医学校を出て、最初の勤務はやはり艦隊勤務ではなかったわけですね。
神津 軍医学校を出た私は、昭和20(1945)年1月20日の発令で、海軍軍医として知多半島にある第二河和海軍航空隊に任官いたしました。ここは水上機の基地ですが、この頃の河和航空隊は、すでに特攻隊の基地として再編成されていました。
25人いた隊員は皆、特攻隊員で、私は彼らと一緒に半年間過ごすことになります。
知多半島という場所は、太平洋に一番近い場所ですから、敵がやってくると、一番に敵を発見して出撃しなければならないわけです。
それだけに海軍の期待も大きかった。
水上特攻というのは、フロートを付けた零戦(二式水上戦術機)に爆弾を抱えさせて敵に突っ込んでいくのですが、敵艦にうまく当たらなければ意味がありません。
そのための訓練をしていたのが第二河和航空隊です。隊員たちは、模擬爆弾を抱え3000mの高さから急降下して、海面すれすれで機首を引き起こすという突入訓練を繰り返していました。
私が赴任した最初のうちは、水面に対して60度の角度で突っ込む訓練をしていました。
ところが、どうもうまく当たらないということで、隊長が「もう少し効率を上げよう」と言い出して、角度を30度にしたのです。
急角度になるとそれだけ風圧が強くなりますから、たちまちフロートが吹き飛び、翼も吹っ飛んでしまって海の中に落ちるという事故が続いていました。
私たちは「ウオーターハンマー」と言っていましたけれども、3000mの高さから落ちると、水はコンクリートと同じ硬さです。
遺体をみると、鼻の骨まで砕けてしまって、目玉なんかどこにいったかわからないような状態。頑丈な航空服を着ているので粉々になった遺体は飛び散らないで済むわけですが、海から引き揚げられた遺体はその中で濡れ雑巾のようにバラパラになっていました。
私が赴任していた間、25名の隊員のうち、訓練中の事故で亡くなったのは11名。
それ以外の隊員たちも、九州の方へ転属となって、その後特攻に出撃し、皆戦死してしまったようです。
――軍医として赴任した神津さんの目には、特攻隊員はどのよう映ったのでしょう。
神津 特攻の隊員たちというのは、とにかく皆自分から手を挙げて志願した人たちです。
国のために自分から死にに行くわけですから、人間のできた、今思い出してみても本当に立派ないいやつらだったなあと思います。
彼らと私とは年もほとんど同じくらいです。
どうせ死ぬんだから、とにかく死ぬときまでは楽しく過ごそうと考えていました。
特攻隊ということで、酒も食べ物も優先的にまわしてもらえましたから、河和基地での半年間は、こう言うと語弊があるかもしれませんが、楽しかった。
私が軍医だから、特攻隊員のことを傍観者として見ていたのだろうと思われるかもしれませんが、決してそんなことはありません。
当時の我々は誰もあのような形で戦争が終わると思っていませんでした。
負けるにしても、必ず本土決戦があって、日本の各地で軍人が最後まで戦って、一人残らず死んでから負けるものだと思っていたのです。
軍人にとっては、戦争に負けるということは死ぬということである、と。
ですから、軍医とはいえ、死ぬのが後になるか先になるかの違いだけであって、気持ちは特攻隊員と全く変わらなかったのです。
その後、私は四国の第五八四設営隊へ転勤となりました。
終戦間近の昭和20年8月10日頃でしょうか。
突然、第三航空艦隊司令から「設営隊3700人全員を自決させるから、青酸カリを用意しろ」と命じられました。
私は上官に「なぜですか」と尋ねたところ、「敵はまず四国を占領する」という情報が入ったとのことでした。
まず四国が占領される。
ならば、占領されたときに軍人は一人として残っていてはいけない、捕虜になってはいけない、ということでの「玉砕命令」です。
それで私は広島の呉まで青酸カリを受け取りに行きました。
「負けるということは死ぬこと」、私たちにとってはそれが常識だったんですね。
――8月15日の玉音放送のまさに直前ですね。その後の5日間というのはどのように過ごされたのでしょうか。
神津 青酸カリを受け取りに行った私は、途中の瀬戸内海で敵のグラマン戦闘機の機銃掃射を受けたりしながら、ようやく呉に辿り着きました。
私が薬剤中佐に「青酸カリ3700人分を第三航空艦隊司令の命令で受け取りに参りました」と言ったところ、「貴様のところは設営隊だろう。設営隊なんかにやる青酸カリはない。帰れ!」と怒鳴られました。
しかし、帰れと言われたところで、司令の命令ですから帰るわけにはいきません。
一瞬諦めて帰ろうかとも思いましたが、帰れば帰ったで、命令違反で軍法会議にかけられて、死ぬことになるかもしれない。
ならばこの辺で死んでしまおうか、と私は覚悟を決めまして、「青酸カリをいただくことができなければ、私は中佐の見ている前で死にます」と言って腰のピストルに手をかけました。
すると中佐は、こいつは本当に死ぬ気だということが分かったのでしょうね。
本来ならば740gのところを1000gも渡してくれました。
おかしな話ですけれども、これは本当にうれしかった。
あんなにうれしかったことはなかったというくらいです。
1000gの青酸カリを受け取って帰った私は、それから終戦の日まで、どうやって青酸カリを使うかということばかりを考えていました。
青酸カリを隊員たちに配るのは、敵が占領する前でなければなりませんが、私が飲めと言ったからといって隊員たちが素直に飲むでしょうか。
一人ひとり強引に飲ませてしまおうか、食事の中に入れて黙って食べさせてしまおうか――そんなことばかりを痩せる想いで一生懸命考えていました。
ですから、8月15日の玉音放送を聴いたときはうれしかったですね。
青酸カリを使わずに済んだということがうれしかったのです。
私にとっての終戦の喜びとはそういうもので、あとはただ虚無感に打ちのめされていただけでした。
――最後になりますが、戦争を知らない世代に伝えたいメッセージをぜひお聞かせください。
神津 戦争が終わって、日本がどうなったかというと、まずコーンパイプをくわえて飛行機から降りたマッカーサーがやってきました。
マッカーサーは散々てこずった日本が再び立ち上がれなくするために何をしたかと言いますと、一つ目に憲法を変えた。
そしてもう一つが教育です。
昭和22(1947)年に日教組を作らせ、続いて23(1948)年には教育勅語を廃止。
24(1949)年には、国を守るエリートを養成してきた旧制高等学校を廃止しました。
以釆、日本が現在に至るまで平和を享受し続けてきたことは事実ですが、しかし一方で、戦前の価値観が、すべてが悪いものとして捨て去られてしまっています。
幕末があり、明治維新があり、そして明治、大正、昭和と、日本人は少しでも豊かになろうと皆で頑張ってきた。
そして、近代化する一方で、では「日本人の本当の心」とは何なのか、真剣に考え続けてきたはずです。
私を含めて戦争に行った者は皆、散々な目に遭いましたし、国民も皆それぞれの立場で不幸で惨めな体験を強いられてもきました。
しかし、それでも戦前の価値観の中には、極めて真っ当で正しいものがあったということだけは伝えなくてはいけません。
戦前の価値観を見直すということは、戦争を賛美することとは全く違うのです。
私は今年、91歳になりましたが、残りの人生を掛けて、少しでもそのことを伝え、これからの日本に役立っていくことができればと思っています。
神津康雄(こうづやすお)氏
大正 8年、長野県志賀村に生まれる。
昭和19年、東北帝園大学医学部卒業。海軍軍医学校を経て海軍に入隊。
第二河和航空隊に赴任後、
昭和20年、8月の終戦を第五八四役営隊の軍医長として迎える。
昭和26年、青森県浪岡町立病院院長に着任。
昭和29年、院長を辞した後、東京都世田谷区若林に開院。
昭和52年、世田谷区医師会会長。
昭和54年、東京都医師会理事。
昭和57年、日本医師会常任理事。
平成 5年、東京校歌寮会長。
平成 9年、日本の高等教育を考える会専務理事。
平成11年、海軍櫻医会会長。
平成14年、日本寮歌祭会長。
平成16年、日本病院管理教育協会理事長など、
現在もさまざまな要職を兼務している。