空爆下の友情と誤算 菊池 金雄
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空爆下の友情と誤算 菊池 金雄 (編集者, 2012/12/17 9:06)
- 空爆下の友情と誤算 菊池 金雄 その2 (編集者, 2012/12/18 7:46)
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投稿日時 2012/12/17 9:06
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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はじめに
スタッフより
この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。
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あの戦争も今年で60年経った。私は戦前戦中戦後10年間大同海運㈱の貨物船に船舶通信士として乗り組み、戦争の真っ只中での九死に一生の体験は悪夢であり、永久に脳裏から消えることはない。しかし加齢とともに子孫へ遺言がわりに記録を残したいとの思いから一念発起、自分史に挑戦してみたものの手元には船員手帳以外何等の記録も無く、合併先の船会社に照会しても過去の資料が皆無とのことで、独力で資料あさりしなければならなかった。
幸い京浜方面に若干の元船友が健在なので藁にもすがる思いで手あたり次第情報収集に協力してもらい、何とか大筋の構築にこぎついた。
他方、福島県在住の昭豊丸(S19年10月25日スルー海で爆沈)で一緒だった谷津氏のすごい記憶力に支えられ、同船のたどった航跡を埋めることができたものの、終戦間際に北鮮の羅津港でソ連機大編隊に急襲された向日丸(むかひまる、6700総トン)に関しては当時の仲間と接触できず思案していたところ、偶然海保のOB会で出会った元上司の計らいから、羅津脱出後に護衛してくれた海防艦の艦名を確認できたので、多々不備ではあるがH14年拙著「硝煙の海」を刊行した次第である。
さて前口上が長くなったが、本稿では後段の向日丸に関わる同窓生軍人の献身的な友情と病身同僚の.現地入院の顛末について紹介したい。
那和正夫陸軍少尉(19/9-普2期)の友情
この秘話はS20年8月8日深夜、北鮮の羅津港に在泊していた向日丸等が突如ソ連機群の猛爆撃に曝された緊迫場面での那和陸軍少尉の決断と友情について述べるとともに、彼は昨年残念ながら病気のため他界されたので、往時のお礼をこめ追悼のことばに代えたいと思う。
再言するまでもなくソ連参戦一週間後、あの戦争は日本の無残な敗戦で決着したが、軍首脳以外の一般国民は戦局の劣勢はそれとなく感じていても、まさか日本が降伏するなどとは夢想だにしなかったことである。
当時同港には18隻の大型貨物船が在泊中で、関東軍抽出の武器、弾薬や満州から集積した大豆等雑穀類を本土に輸送のため搭載中でだった。夜間は米軍機と思っていたが、夜があけたらソ連機と確認。港内の各船は敵の爆撃目標になってしまった。
当然各船警乗の警戒隊(海軍)や船砲隊(陸軍)は搭載火器で一斉に応戦したが、何故か現地防衛部隊からの反撃は散発的で、被弾する船が増すばかりだった。
本船の警戒隊長○○少尉は敵機を軍刀で指し、打て一打て-と号令するも、衆寡敵せず隊員の負傷者が続出するばかりだった。
敵機編隊は9日も早朝から執拗に波状爆撃を続行。着岸中の船は身動きできず、いたずらに標的になるので西船長(60歳)は軍の停泊場事務所に離岸許可具申の伝令を出したが事務所は空っぽで連結がとれなかった。ところが敵の執拗な爆撃で船長が頸部負傷で陸軍病院に搬送される事態となり、田中晴一一等運転士がすぐ船長代行で指揮をとった。
当時小川肇次席通信士は肺結核のため船内で病臥中だったが、自船が被弾必至となったので船の幹部が協議、本人も同意のうえ、彼を陸軍病院に緊急入院させ、安全策を図った。
また船長不在後の保船対策を幹部で協議の結果「各科長・保船要員・警戒隊員」以外の者を陸上に一夜避難させ、犠牲者の抑止策をとることになった。私は局長なので当然在船組みであるが、たまたま通信連結将校として乗船中の前記那和少尉が「私が全責任を負うから先輩もどうか避難してください」と思いがけない助っ人が現れたので、私は彼の勇気を謝して小野明三席通信士と暗号書袋を担って付近の防空壕に避難したのであった。
一夜明けたら幸い向日丸は健在で、船長も応急手当のうえ復船。10日早朝やっと軍から脱出指令がでて、空爆下と被弾した僚船が邪魔で離岸に難儀するも、老練な西船長は見事な後進で離岸。港口に微速でさしかかったら忽ち敵機の集中爆撃を喰らったが本船の警戒隊が必至に反撃して無事港外に逃れ、全速で南鮮へ避航を開始した。
無線部は私と三通士のふたりだけで24時間当直を余儀なくし、私の脳裏は真っ白になった。
ところがまたまた那和少尉から「次席通信士代行」の申し出があり、彼の再度の友情に感泣するばかりだった。
当時、彼は軍務中であり、この種船務は越脱行為なので、もし上官に知れたら懲罰だったろうと彼の後日談を付す。
向日丸は対潜水艦回避のため、陸岸ぎりぎりのコースで航走中にエンジン故障で座礁中の午後4時半ころ北上してきた第82号海防艦と合流。同艦の協力で離礁。間もなくエンジンも復旧。同艦が元山まで護衛することになり、若し自船が撃沈されても海防艦が救出するであろうと心強かった。
それから間もなくソ連雷撃機編隊の追撃があり、第一波は遁れたが、第二波の来襲時、この海防艦が不運にも轟沈してしまった。おりから夕闇が迫り、敵機も退去したので本船は沈没現場に戻り、艦長森武少佐以下93名救助。戦死者は117名とのことであった。
同艦は城津が基地なので11日未明同港に全員を揚陸させ、本船は単独で元山に回航。同港から残存船約8隻船団で舞鶴向け避航して終戦2日後の8月17日無事舞鶴に帰還した。
ところが、献身してくれた那和少尉は知らぬ間に退船したため、彼に対しお礼のことばをかけないまま別れたので、同窓会名簿からナワ姓(漢字の姓不詳のため)を探して「名和」という方に電話してみたところ別人だったので、他の漢字姓を検索したら色々な漢字姓があることから一時追跡を中断せざるを得なかった。
しかるところ福島県の谷津透氏から同窓会名簿にある「那和正夫」氏に電話で打診方助言があったので半信半疑で当たってみたら当人と確認することができた。そこで一昨年5月、58年ぶりで再会。一夜観音崎のホテルに宿泊のうえ終夜昔日のお礼をこめ語り合った。
その後彼の羅病は承知し、お見舞いを申し出たが病状柄敬遠され、早期の快報を只管念じていたところ、昨年暮れに逝去されたむね、忌明けの去る1月にご遺族よりお知らせがあり、再度の対面が叶わず誠に痛惜に堪えないので、ここに戦火の狭間での勇気ある友情を謝し、謹んでご冥福を念ずる次第であります。
合 掌