時計屋の息子 田多幸雄
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時計屋の息子 田多幸雄 (編集者, 2013/1/18 21:42)
- 時計屋の息子 田多幸雄 その2 (編集者, 2013/1/19 7:48)
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投稿日時 2013/1/18 21:42
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
スタッフより
この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。
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「ボオーン、ボオーン、ボオーン」
店内の柱や壁にぶら下った数個の時計が賑やかしく一斉に時を報せる。
大正15年、能登の輪島の時計屋の長男として、ボンボン時計の伴奏に乗って生を受けた(自宅で産婆さんにとりあげられた)私。物心のついたときは、両親に丁稚(でっち 弟子)のリョウチャン(父の弟)お手伝いのネエマそれに二つ年下の弟ヒデチャンの六人家族だった。
◆時計店
金沢で時計屋の丁稚奉公をして、輪島で店を引継いだ親父。当時輪島には時計店が二軒あり、大町通りが田多の時計屋。一等地の本町通り(現在、朝市で賑わいを見せている)のU時計店は大変商売繁盛していた。二等地の我が方は、販売で遅れをとったが職人肌の親父は時計の修理で頑張った。
◆日中戦争と時計
昭和12年私が小学校5年生のとき日中戦争が勃発した。腕時計がよく売れた。そのお客さんは召集令状を受けた人達で、セルロイド製のカバー(武装サックと言った)で覆った腕時計を身に付け戦地へ出征して行った。
◆蓄音機の修理
店では時計、眼鏡、宝石、蓄音機や懐中電灯の販売と修理をやっていた。特に蓄音機の修理は分解し、揮発油での手洗い、そして組み立て注油だ。ゼンマイを香箱に巻き込む作業は強い力が要る。油(グリス)で掌(てのひら)を真っ黒にし、歯を食いしばってやっている親父の姿は勇ましい。お茶の時間になると母が差し出すお菓子を手の甲で受けそれを口へ運び旨そうにぱくついていた。
修理が終わったら蓄音機の調子を見るためゼンマイを一杯巻いてレコード(SP盤)を回しその上に針のついたサウンドボックスをのせる。
「祇園小唄」、「酒は涙か溜息か」、「影を慕いて」、「日本橋から」の四曲が何時も繰り返し店先から流れ耳にタコが出来るほど聞かされた。今でもこの曲を聞くと、昭和初期ののんびりとした時代を思い出す。
◆船乗りに
学校で好きな科目は理科だった。特に電気に興味を持つようになり、店から絹巻き銅線と乾電池を持ち出し、釘に銅線を巻いた電磁石に乾電池をつなぎ線を遠くに延ばしブリキの切れ端を折り曲げたスイッチを断続させモールス通信を真似て感動した。
その時代、私の家の電気製品は懐中電灯位で電話もラジオも無かった。娯楽といえば漫画の本(のらくろシリーズ等)を読み、お寺の境内や墓地で「チャンバラごっこ」「兵隊ごっこ」そして「野球」をして遊んだ。長男であり当然、家業の時計屋を継がなければならなかったのだが、親父の背中を見て育った私は、時計屋を嫌い、モールス符号で無線通信をする職業即ち船舶の無線通信士に憧れ、無線電信講習所の門をくぐりその道に進んだ。親父は長男に家業を継がせなくても後続の弟達3人の誰かにでもと反対はしなかった。
太平洋戦争中、敵潜水艦からの攻撃の恐怖にさらされながら南方海域を航海したが、幸運にも生き残る事が出来た。