(紹介者より) 航空自衛隊随一の名パイロット 山岸文夫
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国防の第一線を担って 浅井満 (編集者, 2013/1/22 6:57)
- (紹介者より) 航空自衛隊随一の名パイロット 山岸文夫 (編集者, 2013/1/23 8:28)
編集者
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紹介者
航空自衛隊随一の名パイロット
元防衛庁技術研究本部第二研究所長 山岸文夫
我々が入学した昭和26年(1951年)は、戦後混乱がようやく収まりかけてきた頃で、電通大も新制の大学として発足(S24年)したばかりでした。我々の多くは、旧制中学1~2年の時に終戦となり、戦前(軍国主義への時代)・戦中(一億総決起の時代)・戦後(帝国主義から民主主義へと価値観が180度転換した時代)を経験し、さらに驚異的な経済復興の担い手となり、そしてその後のバブル崩壊を目の当たりにすると言う、まさに激動の時代を生き抜いて来ました。同期生は皆良く頑張ってきたと思います。
その同期生の中で、戦中の反動から戦後日陰者扱いをされてきましたが、国家存立の最重要事項である安全保障(国防)を担う自衛隊に於いて、ジェット戦闘機の名パイロットとして活躍したのが浅井満君です。
浅井君は、航空自衛隊の第3期幹部候補生試験(就職難のため競争率は極めて高かった)に合格、直ちに幹部候補生学校に入校。この時、同期の秀才興津英輔君(30T)も合格し入校。私は、防衛庁の文官試験(上級職)に合格し、同時期に入庁しました。
そして半年後、候補生学校の卒業序列(これは後の昇進に必ず付いて廻る厳しいもの)は、なんと浅井君が首席、興津君が2番でした。かくして、電通大の名を、創設間もない航空自衛隊に轟かせたのであります。その後、浅井君はパイロットの道を歩み、各操縦課程を優秀な成績で終了し、ついに難関中の難関F-104のテストパイロットへの道を進みました。このF-104は人間が乗る最後の戦闘機と言われた程、離着陸の速度が速く操縦の難しい戦闘機だったのです。浅井君は、米国に於いてF-104Jの飛行試験を実施した後帰国し、F-104Jの領収飛行や各種試験飛行に従事し、小松航空基地に於いては飛行隊長として、国籍不明の領空侵犯機へのスクランブルにも従事しました。これらはある意味で常に命を賭けた仕事でした。
また、浅井君について特記すべきは、その突出した操縦技能と共に射撃管制用レーダによる射撃の腕前でした。これは航空自衛隊随一で、未だにパイロット達の神話になっています。これには、浅井君が電通大出身と言う技術素養が大きく物を言っています。私が、技術研究本部の副技術開発官でミサイルの開発を担当していた時、同時に10機以上の各種ジェット機(航空実験団所属)を使って、日本海でミサイルの発射試験を行った事がありましたが、この時、浅井君は実験団の副司令で、技術的に高度な試験を全面的に支援してくれ、今でも感謝しています。
パイロットは女性的な仕事、看護婦は男性的な仕事と言われますが、まさにパイロットは繊細な神経と豪快な判断力を必要とし、天賦の才が必要です。この才に恵まれた浅井君でしたが、中部航空方面隊司令部幕僚の時に過労が基で長期入院となり、将来は航空幕僚長の最有力候補と言われた彼でしたが、まことに痛恨の極みでした。病気を克服した後は、航空実験団の計画部長や、副司令を務め、最後は航空安全管理隊の創設要員として、また司令(空将補)として、航空事故調査業務や、航空事故防止教育に従事して退官しました。
30年以上に亘り、国防のためにジェット戦闘機のパイロットとして命を賭けてきた同窓生がいると言う事をご紹介しました。