国防の第一線を担って 浅井満
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- 国防の第一線を担って 浅井満 (編集者, 2013/1/22 6:57)
- (紹介者より) 航空自衛隊随一の名パイロット 山岸文夫 (編集者, 2013/1/23 8:28)
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投稿日時 2013/1/22 6:57
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
スタッフより
この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。
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国防の第一線を担って 大空を翔けた人生 浅井満
元自衛隊テストパイロット浅井満
はじめに:
同期の山岸文夫君から目黒会報の「人」欄に君を紹介するから原稿を書くように頼まれたものの「これと言った学問や技術上の成果を挙げてもいない私を指名するのは間違いでしょう」とお断りしたところ「卒業生の中で少し変わった職業を選択し、普通のサラリーマンにはない経験をしたではないか」と言われましたので、以下、私の職業選択の経験などについて簡単に紹介させて頂きます。
◇
航空自衛隊への入隊:
私は昭和30年のR卒ですが、たまたま就職難の時代でありました。卒業前に1通の資格はありましたが、それを活かせる職場がなかなか見つからなかったところ、今は故人となった同期の興津英輔君に航空自衛隊への入隊を誘われました。航空自衛隊へ入れば米軍譲りの最新のレーダや無線通信機器が扱えるということでした。入隊後の仕事や将来など深く考えもせず、幹部候補生採用試験を受けて入隊してしまいました。
◇
職業・人生の分かれ道:
昭和30年は航空自衛隊創設の翌年で、たまたま戦闘機のパイロットの養成が急がれた時代でした。入隊した幹部候補生全員が航空身体検査を受けさせられ、合格者は操縦課程に進むように指導されました。私は興津君と共に通信職域に進むつもりでしたが、身体検査に合格したため指導官から「飛行適性がなかったときに通信職域に進めばよい」と説得され、操縦課程に進むことになりました。
T-34練習機との出会い
初級操縦課程は航空機や航空交通管制用語等の英語教育から始まりました。毎週のように英語の聞き取りテストが行われ、テストに合格しない者は操縦課程から外されました。最初の操縦教育は山口県の防府基地で行われました。初めて見るT-34練習機、操縦席の色々な計器、操縦桿やレバー類、多数のツマミやスイッチ類に驚かされました。操縦教育では、まず操縦や点検手順の暗記と正確な動作が求められました。また、単独飛行前の技量評価で、所定の技量レベルに達していない者は操縦課程から外されました。私のクラスは最初25名でしたが終了できたのは15名でした。初めて単独飛行を許され、一人で操縦した喜びと感激を今でも思い出します。
◇
T-6練習機との出会い:
初級課程を修了した15名の仲間と宮城県の松島基地でT-6練習機による操縦教育を受けました。この練習機は古めかしい尾輪式のプロペラ機で、地上滑走と横風での離着陸の難しさを十分に経験させられました。この課程でも技量評価は厳しく無事終了できたのは7名でした。
◇
T-33A練習機との出会い:
T-6練習機の操縦課程を終了した7名の仲間と大分県の築城基地でジェット機による操縦教育を受けました。ジェットエンジンのすさまじい排気音と時速約200kmの離着陸速度に当初は大いに戸惑いました。しかし、地上でのフライト・トレーナー訓練で速い離着陸速度への対応や精密な計器飛行技量を習得することができました。この課程でも教育途中で1名が脱落し、一人前のジェット機操縦者としてウイングマークを取得できたのは6名でした。
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F-86F戦闘機との出会い:
ジェット機操縦者6名の仲間と静岡県の浜松基地でF-86F戦闘機の操縦教育を受けました。エンジンや機体の構造、搭載機器の取扱教育の後、単独飛行、空中戦技、射撃と言った戦闘機乗りとしての訓練を受け、約半年後にF-86F戦闘機操縦者の仲間入りをしました。また、高度一万メートルからの急降下で音速(Mach1)の壁を突破する体験をしました。
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F-86D戦闘機との出会い:
F-86F操縦者の仲間入りをした直後、福岡県の板付基地で米空軍から-F86Dの機種転換訓練を受けることになりました。F-86Dは夜間や雲中での要撃ができる全天候型戦闘機で、機首に機上レーダーを搭載していました。機上レーダーの操作は初めてで当初はかなり難儀をしましたが、フライト・シミュレーターのお陰でレーダー操作や計器飛行、緊急操作の訓練を地上で十分に予習することができました。この後、愛知県の小牧基地で約1年間F-86Dの操縦教官として後輩の操縦教育を担当しました。
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米空軍テストパイロット学校入校:
航空自衛隊の次期戦闘機としてロッキード社のF-104の導入が決定され、その技術審査要員として、米空軍テストパイッロト学校で約1年間教育を受けました。航空工学、飛行性能や操縦・安定性評価法、飛行試験計画法等の学科教育と飛行測、データ処理、報告書の作成法など、遊ぶ暇もない1年間の生活でした。教育終了後、在米技術審査団の一員として、新規開発のF-104 J用機上レーダーの性能評価試験に従事しました。F-104 Jは水平飛行で音速の2倍まで加速することができる、当時としては最速の戦闘機でした。離着陸時の速度は毎時約300kmで、まるで空飛ぶミサイルといった感じでした。
◇
おわりに:
以上、私の少し変わった職業・人生の始まりの部分についてごく簡単に紹介させて頂きましたが、たまたま巡り合った空の世界へ好奇心とチャレンジ精神で挑んでいた20歳代のことでした。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
紹介者
航空自衛隊随一の名パイロット
元防衛庁技術研究本部第二研究所長 山岸文夫
我々が入学した昭和26年(1951年)は、戦後混乱がようやく収まりかけてきた頃で、電通大も新制の大学として発足(S24年)したばかりでした。我々の多くは、旧制中学1~2年の時に終戦となり、戦前(軍国主義への時代)・戦中(一億総決起の時代)・戦後(帝国主義から民主主義へと価値観が180度転換した時代)を経験し、さらに驚異的な経済復興の担い手となり、そしてその後のバブル崩壊を目の当たりにすると言う、まさに激動の時代を生き抜いて来ました。同期生は皆良く頑張ってきたと思います。
その同期生の中で、戦中の反動から戦後日陰者扱いをされてきましたが、国家存立の最重要事項である安全保障(国防)を担う自衛隊に於いて、ジェット戦闘機の名パイロットとして活躍したのが浅井満君です。
浅井君は、航空自衛隊の第3期幹部候補生試験(就職難のため競争率は極めて高かった)に合格、直ちに幹部候補生学校に入校。この時、同期の秀才興津英輔君(30T)も合格し入校。私は、防衛庁の文官試験(上級職)に合格し、同時期に入庁しました。
そして半年後、候補生学校の卒業序列(これは後の昇進に必ず付いて廻る厳しいもの)は、なんと浅井君が首席、興津君が2番でした。かくして、電通大の名を、創設間もない航空自衛隊に轟かせたのであります。その後、浅井君はパイロットの道を歩み、各操縦課程を優秀な成績で終了し、ついに難関中の難関F-104のテストパイロットへの道を進みました。このF-104は人間が乗る最後の戦闘機と言われた程、離着陸の速度が速く操縦の難しい戦闘機だったのです。浅井君は、米国に於いてF-104Jの飛行試験を実施した後帰国し、F-104Jの領収飛行や各種試験飛行に従事し、小松航空基地に於いては飛行隊長として、国籍不明の領空侵犯機へのスクランブルにも従事しました。これらはある意味で常に命を賭けた仕事でした。
また、浅井君について特記すべきは、その突出した操縦技能と共に射撃管制用レーダによる射撃の腕前でした。これは航空自衛隊随一で、未だにパイロット達の神話になっています。これには、浅井君が電通大出身と言う技術素養が大きく物を言っています。私が、技術研究本部の副技術開発官でミサイルの開発を担当していた時、同時に10機以上の各種ジェット機(航空実験団所属)を使って、日本海でミサイルの発射試験を行った事がありましたが、この時、浅井君は実験団の副司令で、技術的に高度な試験を全面的に支援してくれ、今でも感謝しています。
パイロットは女性的な仕事、看護婦は男性的な仕事と言われますが、まさにパイロットは繊細な神経と豪快な判断力を必要とし、天賦の才が必要です。この才に恵まれた浅井君でしたが、中部航空方面隊司令部幕僚の時に過労が基で長期入院となり、将来は航空幕僚長の最有力候補と言われた彼でしたが、まことに痛恨の極みでした。病気を克服した後は、航空実験団の計画部長や、副司令を務め、最後は航空安全管理隊の創設要員として、また司令(空将補)として、航空事故調査業務や、航空事故防止教育に従事して退官しました。
30年以上に亘り、国防のためにジェット戦闘機のパイロットとして命を賭けてきた同窓生がいると言う事をご紹介しました。