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思い出に寄せて 高橋 清

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/1/21 6:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 スタッフより

 この投稿(含・第二回以降の投稿)は「電気通信大学同窓会社団法人目黒会」の「CHOFU Network」よりの抜粋です。
 発行人様のご承諾を得て転載させて頂いております。

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 目黒会報(13-1)の中に旧海軍航空機用VHF無線機「一式空三号隊内無線電話機」の記事があり、随分世話になり又運用した者としで懐かしく思わず筆を執った次第です。

 私たちは昭和21年4月敗戦直後の極めて世情不安定また食料事情の劣悪のさなか、板橋、藤沢の各地に入学し、その後目黒に併合し勉学に励んだ学生でした。級友一同は旧制中学卒、在学中の者又軍歴経験者(予科練、海兵、陸士、海機などの復員者)で構成され、年齢差は7~8歳以上の多士済々且つ価値観も違うメンバーでした。特に軍歴経験者の中には、敗戦濃厚な当時、生命を賭して決戦に参加し、食うが食われるかの航空作戦を経験し、昭和20年8月15日の終戦を迎えた者も約10数名は在籍していた。

 会報に掲載された無線機「一式空三号隊内無線電話機(空三号と呼称)」及び「一式空三号無線帰投方位測定機(方探と呼称)」を駆使して、援護の無いなかの攻撃、哨戒、索敵などの各種航空作戦に参加した搭乗員(偵察員)或いは大型攻撃機の操縦士もおり、思い出多い無線機であり、まさに「空三号、方探」は命を守る身体の一部の機器であった事は間違いない。私も関係した一人であったが、この無線機に助けられた友、また直接取り扱った同級生も多分多くいたことと思われる。その性能、使用方法、また当時の「二号」との比較についても話を聞いてみたいと思っている。なお、当時太洋漁業捕鯨母船団では「三号、四号(電探か)」を使用していたとも聞いている。入学後、海軍時代に同じ釜の飯を食い、一時期苦労を共にした同期生が、病気で兵役を去ったが、退役直後無線講に入学、卒業していて先輩として我々の前に現れた時には、全く奇遇で生き残って同じ学び舎で会えた事は、無上の喜びであり、また宿命を痛切に感じた。

 昭和24年3月の卒業当時は就職戦線は非常に厳しく、特に船舶通信関係などは乗る船舶も皆無の状態ではあったが、なかには連絡船の船舶通信士として勤務でき、その後、太洋漁業南極捕鯨船団の母船通信士要員として、10数年勤務し南極行も果たし、記念として金時計を頂戴した同級生もいたと聞いている。

 卒業後海運会社に在籍していたものの、経験したパイロットの夢は捨て去ることは出来ず、航空再開の希望を胸に抱きながら、国際線航路の通信士要員として乗回り、西回りと世界を駆け巡る生活ではあったが、時機到来を一日千秋の思いで待っていた。

 その折り日付変更線付近航海中に航空再開のニュースを自らキャッチし、チャンス到来とばかりに横浜入港と同時に休暇申請、海上警備隊パイロット幹部要員に応募し、幸いに採用され長年の夢を達成することが出来、世話になった海運会社とも円満退職の運びとなった。

 入隊後横須賀での短期速成講習を終了し、配属された基地はかって海軍時代の思い出懐かしい鹿屋基地に決定し着任した。横須賀時代はハワイ作戦等に従事した歴戦の先輩の班に入れられ、大変勉強になった事を思い出す。

 鹿屋基地では無線従事者資格者不在だったため、電波監理局の全無線局定期検査対応にも当たったが、間もなく防衛庁設置法により無線局定期検査対応は無くなり、兼任勤務から解放され本業のパイロットとして、若手パイロット要員の教育訓練に専念することになり、隊員と一緒に汗を流して一日でも早く一人前になるよう訓練指導に当たった。

 その後、民間航空に転出したが、ここでも無線局定期検査対応業務があり、時には各電波監理局に入局していた同級生の検査官による検査も受けることもあり、大変なご理解とご指導になったことには感謝している。検査飛行には検査官搭乗のもとに自ら操縦して、希望する方面に飛行したが、北アルプス上高地上空を低空での旋回(見物)は、現在では一寸考えられない飛行であったので、特に思い出に残ることだが、当日の検査官は同級生ではなかった。

 我々昭和21年4月入学組も殆どがリタイヤしており、クラス会も地域的には実施しているが、全国的には未だ展開してなく、非常に残念なことと思っている。思えば同級生は前述の様に多士済々の混成混合組であり、纏める幹事には大変ご苦労もあることと思うが、あと僅かの人生「無線講」での思い出を胸に懇談を重ね、傘寿、米寿まで健康で語りあって行きたいものである。今後とも是非お骨折りを重ねてお願いする次第です。

 空三号の思い出から「個人の生きざま」までエスカレートしてしまったが、老トルの戯言とご理解頂ければ幸いである。

 最後になりましたが目黒会、電気通信大学の益々のご発展をお祈り致します。
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