広見校集団疎開の「献立表」 ぱらむ
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- 広見校集団疎開の「献立表」 ぱらむ (編集者, 2016/12/28 20:53)
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投稿日時 2016/12/28 20:53 | 最終変更
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
いずみ ――名古屋・学童疎開を記録する会 機関誌―――より
★うれしいこともかなしいことも草しげる(山頭火)一一今年も8月を迎えました。いかがお過ごしでいらっしゃいましょうか。周知のとおり今年は戦後70年、感慨も新たなものがございます。戦争のない平和な日常を是が非でも守りぬきたいものです。
★前号において少しふれましたが、本号と次号は名古屋市立広見国民学校の集団疎開「献立表」の特集としたく思います。この「献立表」を丹念に記録されました田村はつ子先生は「広見校集団疎開の「献立表」のこと」のなかで書きましたように、偶然にも私の旧友のご母堂にあたるお方でした。そのことを知られた先生のご長男夫人から〈何というご縁でしょうか!めぐりめぐって必要な方の元へ届いたようで大変うれしく思います〉 というお便りをいただきました。
★添付の文字は本号収載の広見国民学校集団疎開の「献立表」の表題文字(原寸)です。
広見校集団疎開の「献立表」のこと
前号で少し紹介しましたとおり、名古屋市立広見国民学校(中川区)の集団疎開当時の「献立表」を掲載したく思います。
この「献立表」は、昭和20年4月26日より同年11月22日まで、同校付添教師であった田村はつ子先生により毎食(朝昼夕の三食)記録されたものです。
広見国民学校は、昭和19(1944)年8月8日、愛知県碧海郡富士松村(現在刈谷市)の各寺に集団疎開しましたが、昭和20年4月、愛知県額田郡山中村(順念寺・伝道寺)、藤川村(徳性寺)、竜ヶ谷村(長福寺)に再疎開しました。
再疎開の理由は地震の影響によるもので、昭和20年2月21日付『中部日本新聞』には「再疎開する学童/震災被害寮の再疎開地決る」として次のような記事が見られます。
愛知県碧海、幡豆両郡内に疎開中の中京十三校のうち震災被害のあった寮の再疎開地は次の如く決定、すでに草薙、堀田、杉村、伝馬、英、明治、豊田、大手、飯田、江西の各校学童は、再疎開地に落着きつつあるが広見、波寄、岩塚各校も近日中に移転を完了する。
そして、広見国民学校の再疎開については〈△広見校(四一七名)額田郡山中村方面へ移転〉 と記されている。なお、記事中の〈震災被害〉については、昭和19年12月7日に東南海地震、明けて昭和20年1月13日には三河地震が発生しています。この両地震、特に後者の三河地震による被害が大きく、その該当校は再疎開を余儀なくされました。
さて、広見国民学校が最初疎開した碧海郡富士松村での学童の生活に関する資料はある程度残されているものの、再疎開した額田郡山中村、藤川村、竜ヶ谷村(現在岡崎市)での学童たちの状況については、この田村先生の記録による「献立表」を除けば、現在のところほとんど何の記録も残されていないかのように思われます。
あるいはと考え、『新編岡崎市史 近代4』(平成3年3月発行)の「太平洋戦争末期の教育」の項を読んでみましたが、〈一九四四年には、空襲をさけての大都市圏での学童疎開も本格化した。そのため岡崎市域関係でも以下のように名古屋市からの疎開児童をうけいれた〉として今池国民学校、葵国民学校、神戸国民学校、千年国民学校の名は記されているものの、広見国民学校についての記録はまったく見られませんでした。
現在、私の手許にあるこの「献立表」は、田村はつ子先生のご長男夫人がご姑(田村先生)の遺品を整理されているとき、夫人の目にふれ、お知り合いのI先生の手にわたり、さらにN先生を通じて、あいち・平和のための戦争展実行委員会にもたらされました。そして、さらに実行委員会のY先生を通じて私達の戦争展担当の小島鋼平氏に手渡されたのでした。
受け取ってその「献立表」についていろいろ考えをめぐらしていたとき、あることからふと田村先生ご長男夫人が今は亡き私の旧友のご親族のお方ではないかと気づき、その旨を夫人に問い合わせましたところ、それに相違ないということでした。
すなわち「献立表」の記録者である田村はつ子先生は、私の旧友(次男)のご母堂だったのでした。また、ご長男夫人の手から「献立表」が結果的に巡回されることになりました、I先生、N先生、Y先生の三先生は、現在ともに愛知県史編さん委員会の委員をされており、ときおり私はその会議でお会いする間柄の先生がたでした。 (木下 信三)
「献立表」メモ
広見国民学校集団疎開の「献立表」を閲覧して気のついたことを少々。昭和20年4月といえば、集団疎開の開始された前年の昭和19年に比べて食料事情がずいぶんと悪くなってきた時期である。むろん地域差はあろうと思われるが、広見国民学校の集団疎開児童が再疎開した額田郡の山中村、藤川村、竜ヶ谷村でも、やはり前年と比較すればかなり食糧事情は劣っていたことであろう。
そんなことを想像しながら「献立表」を一覧したわけであるが、五月になるとわらびの他にタンポポの葉とセリの胡麻(味噌)和えが4回ほど昼食に出されている。私の参加した集団疎開(岐阜県恵那郡福岡村田瀬)でもときどき野草摘みをして食糧としたが、タンポポの葉は食べた憶えがない。
6月に入ると急にうどんの夕食が増加して、半月ほどは連日うどんばかりである。おそらくこれは小麦の収穫期と無関係ではないであろう。そして、7月は雑炊の増加とともに、馬鈴薯の代用食が目につき、これも馬鈴薯の収穫期と係わりあることであろうし、また同時にますます食糧事情がひっ迫してきた証左と言えようか。私も疎開地での昼食が馬鈴薯の代用食であったこと、何度も体験している。
そしてさらに、7月下旬より豆、胡瓜、茄子、人参、南瓜などの雑炊の日々が急増するのも目を引くところであろう。私の集団疎開先でも連日食事は雑炊がほとんどであったが、干した南瓜だけしか入っていない日が多く、いわば天井の映るようなシャビンシャビンの雑炊であった。シャビンシャビンというのは私たち疎開児童が雑炊を指して言った形容で、つまりどんぶりに入った雑炊の表面が平らになるほど水分が多かったということである。
山間の集落であったので耕地両棲は狭く食糧も十分に生産できなかったのである。
なお、上部欄外に“おやつ” が記されているが、エデックとは当時の栄養剤で角砂糖を一回り小さくしたほどの立方体(淡紅色)で感触は柔らかく、私の記憶ではお菓子のようにおいしかった。それは昭和19年の春ごろであったか、まだ私が集団疎開に行かなかった時期であるが、希望者のみエデックと肝油の栄養剤が供されていた。タラやサメの肝臓に含まれる液体からつくった肝油は、直径5ミリほどの黄褐色の球形で、口中ではじけると何とも臭い嫌な味わいで、私はニデックのみ摂取していた。
それはともあれ、ついでにまた私たちの疎開地と比較すれば ”おやつ” はほとんどなく、
ほんのたまに炒り豆(大豆)15粒ぐらいずつ寮母さんから掌に貰ったものである。1粒1粒を大切にじっくり時間をかけて味わったことであった(木下信三)
★うれしいこともかなしいことも草しげる(山頭火)一一今年も8月を迎えました。いかがお過ごしでいらっしゃいましょうか。周知のとおり今年は戦後70年、感慨も新たなものがございます。戦争のない平和な日常を是が非でも守りぬきたいものです。
★前号において少しふれましたが、本号と次号は名古屋市立広見国民学校の集団疎開「献立表」の特集としたく思います。この「献立表」を丹念に記録されました田村はつ子先生は「広見校集団疎開の「献立表」のこと」のなかで書きましたように、偶然にも私の旧友のご母堂にあたるお方でした。そのことを知られた先生のご長男夫人から〈何というご縁でしょうか!めぐりめぐって必要な方の元へ届いたようで大変うれしく思います〉 というお便りをいただきました。
★添付の文字は本号収載の広見国民学校集団疎開の「献立表」の表題文字(原寸)です。
広見校集団疎開の「献立表」のこと
前号で少し紹介しましたとおり、名古屋市立広見国民学校(中川区)の集団疎開当時の「献立表」を掲載したく思います。
この「献立表」は、昭和20年4月26日より同年11月22日まで、同校付添教師であった田村はつ子先生により毎食(朝昼夕の三食)記録されたものです。
広見国民学校は、昭和19(1944)年8月8日、愛知県碧海郡富士松村(現在刈谷市)の各寺に集団疎開しましたが、昭和20年4月、愛知県額田郡山中村(順念寺・伝道寺)、藤川村(徳性寺)、竜ヶ谷村(長福寺)に再疎開しました。
再疎開の理由は地震の影響によるもので、昭和20年2月21日付『中部日本新聞』には「再疎開する学童/震災被害寮の再疎開地決る」として次のような記事が見られます。
愛知県碧海、幡豆両郡内に疎開中の中京十三校のうち震災被害のあった寮の再疎開地は次の如く決定、すでに草薙、堀田、杉村、伝馬、英、明治、豊田、大手、飯田、江西の各校学童は、再疎開地に落着きつつあるが広見、波寄、岩塚各校も近日中に移転を完了する。
そして、広見国民学校の再疎開については〈△広見校(四一七名)額田郡山中村方面へ移転〉 と記されている。なお、記事中の〈震災被害〉については、昭和19年12月7日に東南海地震、明けて昭和20年1月13日には三河地震が発生しています。この両地震、特に後者の三河地震による被害が大きく、その該当校は再疎開を余儀なくされました。
さて、広見国民学校が最初疎開した碧海郡富士松村での学童の生活に関する資料はある程度残されているものの、再疎開した額田郡山中村、藤川村、竜ヶ谷村(現在岡崎市)での学童たちの状況については、この田村先生の記録による「献立表」を除けば、現在のところほとんど何の記録も残されていないかのように思われます。
あるいはと考え、『新編岡崎市史 近代4』(平成3年3月発行)の「太平洋戦争末期の教育」の項を読んでみましたが、〈一九四四年には、空襲をさけての大都市圏での学童疎開も本格化した。そのため岡崎市域関係でも以下のように名古屋市からの疎開児童をうけいれた〉として今池国民学校、葵国民学校、神戸国民学校、千年国民学校の名は記されているものの、広見国民学校についての記録はまったく見られませんでした。
現在、私の手許にあるこの「献立表」は、田村はつ子先生のご長男夫人がご姑(田村先生)の遺品を整理されているとき、夫人の目にふれ、お知り合いのI先生の手にわたり、さらにN先生を通じて、あいち・平和のための戦争展実行委員会にもたらされました。そして、さらに実行委員会のY先生を通じて私達の戦争展担当の小島鋼平氏に手渡されたのでした。
受け取ってその「献立表」についていろいろ考えをめぐらしていたとき、あることからふと田村先生ご長男夫人が今は亡き私の旧友のご親族のお方ではないかと気づき、その旨を夫人に問い合わせましたところ、それに相違ないということでした。
すなわち「献立表」の記録者である田村はつ子先生は、私の旧友(次男)のご母堂だったのでした。また、ご長男夫人の手から「献立表」が結果的に巡回されることになりました、I先生、N先生、Y先生の三先生は、現在ともに愛知県史編さん委員会の委員をされており、ときおり私はその会議でお会いする間柄の先生がたでした。 (木下 信三)
「献立表」メモ
広見国民学校集団疎開の「献立表」を閲覧して気のついたことを少々。昭和20年4月といえば、集団疎開の開始された前年の昭和19年に比べて食料事情がずいぶんと悪くなってきた時期である。むろん地域差はあろうと思われるが、広見国民学校の集団疎開児童が再疎開した額田郡の山中村、藤川村、竜ヶ谷村でも、やはり前年と比較すればかなり食糧事情は劣っていたことであろう。
そんなことを想像しながら「献立表」を一覧したわけであるが、五月になるとわらびの他にタンポポの葉とセリの胡麻(味噌)和えが4回ほど昼食に出されている。私の参加した集団疎開(岐阜県恵那郡福岡村田瀬)でもときどき野草摘みをして食糧としたが、タンポポの葉は食べた憶えがない。
6月に入ると急にうどんの夕食が増加して、半月ほどは連日うどんばかりである。おそらくこれは小麦の収穫期と無関係ではないであろう。そして、7月は雑炊の増加とともに、馬鈴薯の代用食が目につき、これも馬鈴薯の収穫期と係わりあることであろうし、また同時にますます食糧事情がひっ迫してきた証左と言えようか。私も疎開地での昼食が馬鈴薯の代用食であったこと、何度も体験している。
そしてさらに、7月下旬より豆、胡瓜、茄子、人参、南瓜などの雑炊の日々が急増するのも目を引くところであろう。私の集団疎開先でも連日食事は雑炊がほとんどであったが、干した南瓜だけしか入っていない日が多く、いわば天井の映るようなシャビンシャビンの雑炊であった。シャビンシャビンというのは私たち疎開児童が雑炊を指して言った形容で、つまりどんぶりに入った雑炊の表面が平らになるほど水分が多かったということである。
山間の集落であったので耕地両棲は狭く食糧も十分に生産できなかったのである。
なお、上部欄外に“おやつ” が記されているが、エデックとは当時の栄養剤で角砂糖を一回り小さくしたほどの立方体(淡紅色)で感触は柔らかく、私の記憶ではお菓子のようにおいしかった。それは昭和19年の春ごろであったか、まだ私が集団疎開に行かなかった時期であるが、希望者のみエデックと肝油の栄養剤が供されていた。タラやサメの肝臓に含まれる液体からつくった肝油は、直径5ミリほどの黄褐色の球形で、口中ではじけると何とも臭い嫌な味わいで、私はニデックのみ摂取していた。
それはともあれ、ついでにまた私たちの疎開地と比較すれば ”おやつ” はほとんどなく、
ほんのたまに炒り豆(大豆)15粒ぐらいずつ寮母さんから掌に貰ったものである。1粒1粒を大切にじっくり時間をかけて味わったことであった(木下信三)