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朝鮮人の友、布施辰治弁護士 犢川 曹 京植 1 みどりのかぜ<第39巻>より

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2016/8/22 17:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 はじめに

 この記録のメロウ伝承館への掲載につきましは、
 投稿者のご了承をいただいております。

 メロウ伝承館スタッフ

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朝鮮人の友、布施辰治弁護士
犢川 曹 京植
緑風会 編集責任

 二〇〇四年五月十三日、故布施辰治(一八八〇~一九五三)弁護士に、日本人として唯一に韓国政府が与える建国勲章愛族章が追叙された。日本の良心ともいわれる彼は一九五三年九月十三日に亡くなるまで、朝鮮人の友として精誠を尽くした。
 一九一九年、彼は二・八朝鮮独立宣言事件での弁論など、大韓民国建国に寄与した功労が認められ、ついに、二〇〇四年、国務会議の議決で建国勲章の該当者となった。韓国報勲処によれば、今まで建国勲章を受けた四四名の外国人独立有功者のなかで日本人は布施辰治が唯一であるという。布施辰治弁護士は、ナチ・ドイツ治下で、数多いユダヤ人を救ったオスカー・シンドラーに比喩“日本のシンドラー″ともいわれた。

 二十年以上、布施辰治の記録と資料を発掘調査しながら、布施辰治の研究会を導いている鄭畯泳代表は、偶然に接した一筋の記事から布施弁護士との縁を結ぶことになった。彼は、在日史学者辛基秀氏が日本で発行された「映像がいう日韓併合史」という写真図録のなかのあるページの、「布施辰治弁護士が一九二年、朝鮮の独立運動に敬意を払う、という論文を発表した。しかし、そのため彼は日本の検事局から夜通し調査を受けた」との文句をみて、日本にもこんな方があったのかなと驚いた。

 一九九六年から鄭代表は、布施弁護士の資料を調べようと思い、国立中央博物館を頻繁に訪ね、朝鮮日報や東亜日報の日本時代の資料を収集していたところ、布施弁護士の活躍ぶりや彼に関する豊富な記録を発見した。それを踏み台に一九九九年、鄭代表はソウル大を初め、十一の大学の新聞編集長らと意を揃え、布施に対する学術大会を開くなど、研究を続けた。
 二〇〇一年三月、その間収集した布施弁護士の功績資料を整理、報勲処に建国勲章叙勲を申し込んだ。それから三年後の二〇〇四年、ついに勲章対象者に決められた。

 一九一九年二月八日の午後、東京の朝鮮基督教青年会館に、朝鮮留学生四〇〇余名が押し寄せたところ、崔八鏞「一八九一~一九二二=独立運動家)が壇上に上がり、朝鮮青年独立団の発足を宣首する。引き続き青年団代表十一人の一人であった白寛洙(一八八九~? 六・二五の際越北。独立運動家)が悲壮な声で独立宣言文を読み上げた。
 日本の検察は、雀八鏞、白寛洙、徐椿等九名を出版法違反嫌疑で起訴した。朝鮮青年たちは布施辰治弁護士を訪ねた。一九一一年、彼は「朝鮮の独立運動に敬意を払う」という文を発表、そのため日本検察の調査を受けたことがある人権弁護士として知られていたからであった。
 当時、布施辰治弁護士は検事にいった。「日本はチェッコ-スロバキアの独立の援助のためシベリアまで出兵したことがある。日本は朝鮮の独立運動を助けることはできないけれども独立運動を弾圧するのは矛盾ではないだろうか」と、するどく難詰した。「朝鮮の青年として国の独立宣言文を朗読するのが何の罪になるのか」と、弁論した。
 しかし彼は受任料は一円ももらわなかった。布施弁護士の活躍のおかげで量刑は減少された。この事件を契機に布施弁護士に対する当時朝鮮人の信頼と期待は大であった。

 一八八〇年、日本東北地方の宮城県石巻の農村で生まれた布施辰治は、ロシアのトルストイの影響を強く受けたヒューマニストであった。一八九九年、東京の明治法律学校(明治大学前身)入学。そのとき朝鮮人や中国人留学生たちと交流しながら初めて朝鮮に対して関心を持ち、朝鮮の実情を知り始めた。一九〇二年、明治法律学校を卒業した彼は、判・検事登用試験に合格、司法官(検事)試補に任用された。ところが彼の司法官生活は長くなかった。任官一年目の頃、生活苦に子供たちと心中自殺を図ったが失敗、自首した女性を殺人未遂罪として起訴しろとの検察の命令を彼は受け入られず、果敢に拒否して検察庁を離れた。

 以後、労働争議関連弁護と死刑制度や公娼制廃止運動などをしながら、人権弁護士として社会に知られ始めた。日本経済新聞記者出身である長男、布施柑治氏はいう。布施弁護士の伝記『私は良心を信じる』という本で「トルストイの弟子を自任している布施辰治弁護士は、書斎の壁に掲げているトルストイの写真の前で両手を合わせ頭を下げて、弱い者や正しい者のため私を屈強にさせて下さい、と祈った」とも。一徹な面があったらしい。一九二〇年、布施弁護士は『自己革命の告白』という本を発表した。その後彼は「この後は重要活動舞台を法廷ではなく社会に移し、社会運動により率先してやることにする」と宣言する。そして「社会運動に対する弾圧と戦う事件」「朝鮮人と台湾人の利益のため戦う事件」などに力を尽くすことに念を押した。

 一九二三年九月一日、関東大地震が発生した。布施辰治弁護士は違わず、弱者である朝鮮人のため戦った。彼は大震災直後の殺伐な雰囲気にも勇気を出し朝鮮人虐殺を批判し、人権弁護士の集いである「自由法曹団」を通じて、日本政府に真相調査と責任者処罰を促した。彼は伝記に「当時、日本人の被害妄想を捨てさせられなかったことと、助けを求めに自分の事務室にくる朝鮮人が被害を受けることで悩んだ」と述懐した。

 布施は大震災翌年の二四年九月、独自の被害調査を通じて報告書を発表した。布施はこの報告書で、「朝鮮人が殺害された情況は話と文字では言い表しがたいほど残酷であった」たとえ「鉄の鉤、竹槍、針金、拳銃、日本刀などを使った方法に怖気づかされた」と述べた。犠牲者の規模についても「大震災が起きたとき災難地域に居住した朝鮮人は二万名以上であって、以後生存が確認された朝鮮人は一万二〇〇〇~三〇〇〇名だから、残りの七〇〇〇人の行方不明の中で、地震の直接被害者らを除いても政府が発表した三〇〇名とは「〇」一つが抜けている」と暴露した。

 布施辰治弁護士は、自ら朝鮮人虐殺に対する日本政府報告の誤り証文を書いて朝鮮の言論各社に送ったりした。そこに「日本人として全ての朝鮮同胞に、朝鮮人虐殺問題に対して真心から詫び、自責の念を痛感する」と述べた。
 布施は、日帝の強占期に何度も朝鮮に渡り、所々講演して廻りながら、朝鮮総督府の植民地近代化論を批判し、朝鮮の農民の側でいろいろと助けた。
 日本の大立者人権弁護士として名高い布施が、朝鮮の農村を訪問するとのたよりは、朝鮮総督府を緊張させた。当時朝鮮は土地に対し登記制度なんかなしに慣習により祖先代々に農事をしてきた。ところが当時日本政府は東洋拓殖株式会社を通じて土地調査をするとの名目で測量を実施、登記しない無知蒙昧な農民の土地を強制的に奪ったことがあって、全羅南道羅州で農民の土地返還要求事件が起きた。こんな事件が羅州に限らず全国に広がる虞があると判断した総督府は、布施の現地調査を防ぐため、いろいろな邪魔工作をしたこともあった。

 彼は日本に帰り『朝鮮の産業と農民運動』という本で「朝鮮農民たちの血と汗で荒れ果てた土地を掘り起こした農地から取り入れた米と麦などを全て日本に流出されることを見るとき、悲しみと痛みが増するだろう」と述べた。

 日本政府は目の上の瘤であった布施辰治弁護士を三回にわたって治安維持法違反、新聞紙法違反などの嫌疑で検挙・投獄し、弁護士資格まで剥奪した。日本帝国の敗亡後、再び弁護士資格を取り戻した彼は、解放後韓国に帰れない在日韓国人を助けに取り掛かった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/8/30 17:47
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 (つづき)

 一九五三年に彼が腸癌で亡くなると、彼の出身地宮城県石巻の曙南公園には、地元の井内石で造った彼の顕彰碑を建てた。その碑には、彼の常の座右銘であった「生きべくんば民衆と共に、死すべくんば民衆の為に」が刻まれているという。
 報勲処では義烈団員であった金祉燮(一八八四~一九二八、建国勲章大統領章)と朴烈(一九〇二~一九七四、建国勲章大統領章)の弁論も布施弁護士の功績に認めた。金祉燮は、一九二四年一月、日本の宮城に入る二重橋に爆弾を投げて日本全体を驚かせた。彼は無期懲役を下されて服役中、二八年、獄中で四四歳で殉国した。

 一九二六年、朴烈は金子文子と一緒に暗殺を謀議の嫌疑で起訴された、以前から朴烈を知っていた布施弁護士は、朴烈の法廷闘争で力を尽くして助けた。朴烈は二二年二カ月間の獄中生活を耐え忍び、一九四五年一二月七日、秋田刑務所から出獄する。朴烈に感銘を受けた布施弁護士は、一九四六年『運命の勝利者朴烈』という本を出した。

 ここで朴烈と金子文子の活動についてちょっと触れることにする。
 一九二三年九月二日、関東大震災が起きた翌日、日本警察は、朴烈と金子文子らを自警団の危害の虞があるので保護する、との名分で連行した。事実のこと、これは日本政府がこの惨事を契機に、労働運動家、社会運動家などを不穏な社会悪として一切検挙、一掃する次元で展開した政策の一環であった。

 結局朴烈と金子文子ら十六人の「不逞社」会員は、社会団体を結成、労働運動に関与したり、無政府主義傾向の社会主義運動など、反日運動まで展開しているとの理由で強制連行された。後に爆弾を搬入を計ったとの情報が取られ、主導者である朴烈と金子文子が大逆罪を企てた容疑者に企てた。しかし日本検察が、皇太子結婚式に爆弾投擲を企図したとの事件にむりやりに嫌疑を被せると、布施弁護士は根拠無しとして無罪を弁護する。

 朴烈と金子文子カップルの裁判は日本社会に大きな衝撃と反響を呼び起こした。金子文子は、日本の社会制度を無政府主義者らしい視点で分類、説明した。第一階級=皇族、第二階級=大臣及び他の実権階級、第三階級=民衆に分けて、「皇族は政治の実権者である第二階級が、無知な民衆を欺瞞するため捏造した、かわいそうなお人形または木偶に過ぎないと思います」と陳述し、大きな反響を呼び起こした。
 朴烈の同志であり、情人であった金子文子の法廷での態度は革命家の妻として、また無政府主義社会運動家として、真撃であり献身的面貌が見られると、布施弁護士も評したことがある。

 ところが、朴烈は日本警察に連行されてから検察に移送された以後にも審問に一切応じなかった。保護のため検束された自身を警察が問招する権限がないとして、ただ一枚の調書も残さなかった。警察令により拘留を宣告された後には、既決因に対して問招されることがあれば、拘留を解除して問招に応じると堪えた。検察の審問に対しても現行犯でないかぎり、強制審問を受ける理由はないとして「聴取書」一枚残さない機智を発揮した。

 彼は予審判事を相手に次のような内容で男児の気概をみせた。「私は、そなた(判事)の質問の答えを通じて、我が祖国朝鮮を強奪した強盗日本に対する不当性を、日本国民と日本天皇に伝えたいのである。我が民族はこのような日本の強盗行為を憎悪するため、この後も何時、誰かが私のようなことの企画しないと保証できないということを判事を通じて日本天皇に通告するのである。朝鮮民衆の絶叫を側めず、一日もはやく我が祖国朝鮮を返遺してほしい。そうでないと何時かは必ずひどい目にあうことを伝えて置きたい」といった。布施弁護士は朴烈の堂々とした態度、とうてい二四、五の若者と見られない風格に魅了された。

 ついに朴烈は死刑に直結する短審最高特別裁判に臨んで、沈着ながら力強い声で四つの条件を要求して担当判事を困らせた。それについて法院側と弁護人との何度かの協議をかさね熟議した結果、二つの要求は受け入れられた。これは布施弁護士の努力の結果であろう。

一、私は被告ではなく、朝鮮民族の代表として、日本天皇の代わりの裁判官と同等な資格で法廷に立つ。裁判官が天皇の代わりに法官の法衣を着て出て来たのだったら、私は朝鮮民族の代表として紗帽冠帯(サモクァンデ・官吏の揃いの礼冠礼服)を着用する。

二、裁判官が審譲を始める前、朝鮮民族の代表として、本人が先に本法廷に出た趣旨の宣言することを先約すること。らであった。

 結局、朴烈は法廷で罪囚服の代わりに、紗帽冠帯(サモクアンデ)を着て、りりしい姿で登場する。これは法廷史上、空前絶後のことであった。当時の新聞に写真とともに特筆大書したのである。

 布施辰治弁護士は、朴烈の人品、整然として透徹した論理と揺るぎない愛国心、何にも屈しない気迫、丈夫らしい男児だった、その姿に魅了され、二十年知己として協力してきた。

 朴烈の論理整然であり堂々とした態度に予審判事は勿論担当検事まで、朴烈カップルが好きになり、一緒に写真を撮ったりしたが、これが言論に露呈され、野党からこのことが持ち出され問題となった。大逆罪人を優待するとの攻勢で判・検事が去ったり、司法相が退いた波紋を起こした事もあった。

 一九二六年三月一日、最後判決を控え、朴烈と金子文子の獄中結婚が、布施辰治弁護士の周旋で行われた。そして三月二五日、死刑宣告を受ける。死刑宣告が下ると、金子文子は急に座席から飛び立ち「万歳!」と叫んだ。法廷はあわただし雰囲気に化した。ところが朴烈は「裁判官、その間ご苦労した。しかし私の肉体だけはあなたたちが殺すかわからんが、私の精神はどうしようもないだろうな?」と、勝手な言葉つきではあるが平気な態度で無遠慮にいった。

 四月五日、死刑宣告を受けてから十日後、刑務所所長が「これは天皇陛下が下した減一等の無期懲役の恩賜章だ」と、いいながら朴烈らに恩賜章を差し出した。朴烈は嘲笑する目つきでそのままもらった。しかし金子は、所長が恩賜章を差し出すと、素早くそれをもらいたちまちちぎれちぎれに破って捨てるではないか。所長は驚いて、すぐ朴烈がもっている恩賜章を回収してしまう。

 金子は自分の鬱憤を吐き出し、彼女の遺言でもない遺言となった「天皇の名でどうせ死刑を下したら、それで済むものの、それを再び恩賜章だの何だのといいながら、人間の命を篭絡するものか! 朴烈の妻としてこの文子、すでに私が選んだ朝鮮になげうった道だったが、体も心も全てを奪われた無期懲役の日本監獄で、これ以上生きたって何の意味があるものか! むしろ死んで、その意を夫の朴烈に伝え、自分の骨を朝鮮の土に埋めて欲する。全てのことを朝鮮のため捧げると、何時かは誰かがその意を理解してくれるのではないだろうか」と叫んだ。

 朴烈と別途に宇都宮刑務所に収監された彼女は一九二六年七月二三日、監獄の中で死体に発見された。非常に若い芳年二三歳であった。彼女の遺体は不逞社会員たちにより、慶尚北道聞慶市の朴烈の兄のところに移された。今は麻城面梧泉里、朴烈義士の記念館の入り口で永眠している。

 大逆罪の嫌疑を受けている朴烈らの弁論は、どの面では日本の国体を否定することもあるので、
すごい剣幕の日帝治下での法廷闘争は、彼としては命懸けての闘争であった。彼は良心にしたがい沈黙されず、憤然として生涯を弱者の側で戦った。

 では今まで、韓国で布施辰治弁護士の功績が認められなかったわけは何であろう。これに対して学界では、布施辰治弁護士の、日本帝国に抵抗する社会主義者・無政府主義者の弁護などの活動により、日本政府の否定的見方、たとえば社会主義者として見る傾向があるので、当時、共産主義として戦っている韓国としては彼を敬遠視したのは事実であったと見ていたからであろう。今になって再照明することになっているが。嘉泉大学アジア文化研究所の李教授は、彼はマルクス・レーニン思想に心酔した共産主義者ではなくて、国や民族、思想を越えて、社会的弱者と被植民地民族のため渾身の力をしぼって助けただけであった。たとえば博愛主義者に近いだろう、と見ている。

 布施辰治の外孫である大石進は、二〇〇七年、日本で開かれた「布施辰治展示会」で「重要な事は朝鮮民族の尊厳に同感する弁護の論理と被告たちが納得するまで争うとの姿勢であった」といいながら、彼は「学生たちが書いた独立宣言が輝かしいもので、より民族の尊厳を主張しながら終わりまで戦った事実を歴史に残す必要があった」と付け加えた。


 布施辰治弁護士













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