終戦の日
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- 終戦の日 (らごら, 2004/6/17 8:32)
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投稿日時 2004/6/17 8:32
らごら
居住地: 横須賀市
投稿数: 46
昭和19年頃からは京城府(ソウル)永登浦区道林という所に住んでいました。
永登浦小学校の6年生でしたが、授業の他に軍事用水筒やバンドなどの革製品の加や畑仕事などをやらされていました。
やがて学校は軍隊に使われるようになって、授業はなく各自自宅で自習ということになっていました。
たまに学校へ行ってみると軍事教練をやっていました。
鉄棒で逆上がりがどうしても出来ない兵隊がいる。班長は逆上して何回もやらせるけれど駄目。ついに「お前らぶったるんでいる。これからお前らをぶん殴るから俺《おれ》に殴り返せ」といって一人にビンタを食らわせてはお返しにビンタを貰う。遠慮して軽く返すと班長は怒って「もっと真面目にやれー」という。
10数人程度の兵隊と殴りあったあとの班長の顔は河豚《ふぐ》みたいに腫《は》れ上がっていた。
昭和20年8月15日朝、学校はないから何時ものように近くの池に一人で鬼ヤンマを捕まえに行きました。苦心して手で網で雌の鬼ヤンマを捕らえる。これに糸をつ
けて30センチ程度の棒に繋《つな》ぐ。頭上でゆっくり廻《まわ》しながら「ヤンマボーイ ヤンマボーイ」と言ってると雄が寄ってきて絡んだところを手で捕まえる。
昼頃、腹が空いて帰ってくると、近所の人たちがラジオを囲んで深刻な顔をしている。「ご飯は」と言うと「シッ 静かにしてっ」と叱《しか》られた。
「日本は戦争に負けたんだよ 危ないから外に出るんじゃないよ」と母は言った。
その夜、あっちこっちから「マンセー(万歳) マンセー」と大声で叫びながら練り歩く朝鮮人(韓国人)が大勢居た。日本人たちはみんな家の中でひっそりとちぢこまっていた。(当時は韓国人と言わず、朝鮮人と言っていた。)
数日後には、どこそこの人は朝鮮人に酷い仕打ちをされた などのうわさが流れ始めた。みんな怖がって余り外には出ず、出かけるときは数人で出かけるようにしていた。
一部の朝鮮人は日本人と見ると嫌味《いやみ》を言ったり、石を投げたり蹴《け》飛ばすふりをしたりした。
昨日まで僕を「お坊ちゃま お坊ちゃま」と持ち上げていた朝鮮人は、道で合ってもそ知らぬふり、こちらから挨拶《あいさつ》しても完全に無視した。そんな環境の中、支那《しな》人(中国人のことだが、当時は支那人と言った)は何時もと変わらなく、近所で出会うと「奥さん、なんで私のところに野菜を買いに来ないか?」などと言って母を喜ばせた。
11月頃になって日本へ引き揚げることができたが、日本での生活は生まれて始めての飢えを体験することになった。
永登浦小学校の6年生でしたが、授業の他に軍事用水筒やバンドなどの革製品の加や畑仕事などをやらされていました。
やがて学校は軍隊に使われるようになって、授業はなく各自自宅で自習ということになっていました。
たまに学校へ行ってみると軍事教練をやっていました。
鉄棒で逆上がりがどうしても出来ない兵隊がいる。班長は逆上して何回もやらせるけれど駄目。ついに「お前らぶったるんでいる。これからお前らをぶん殴るから俺《おれ》に殴り返せ」といって一人にビンタを食らわせてはお返しにビンタを貰う。遠慮して軽く返すと班長は怒って「もっと真面目にやれー」という。
10数人程度の兵隊と殴りあったあとの班長の顔は河豚《ふぐ》みたいに腫《は》れ上がっていた。
昭和20年8月15日朝、学校はないから何時ものように近くの池に一人で鬼ヤンマを捕まえに行きました。苦心して手で網で雌の鬼ヤンマを捕らえる。これに糸をつ
けて30センチ程度の棒に繋《つな》ぐ。頭上でゆっくり廻《まわ》しながら「ヤンマボーイ ヤンマボーイ」と言ってると雄が寄ってきて絡んだところを手で捕まえる。
昼頃、腹が空いて帰ってくると、近所の人たちがラジオを囲んで深刻な顔をしている。「ご飯は」と言うと「シッ 静かにしてっ」と叱《しか》られた。
「日本は戦争に負けたんだよ 危ないから外に出るんじゃないよ」と母は言った。
その夜、あっちこっちから「マンセー(万歳) マンセー」と大声で叫びながら練り歩く朝鮮人(韓国人)が大勢居た。日本人たちはみんな家の中でひっそりとちぢこまっていた。(当時は韓国人と言わず、朝鮮人と言っていた。)
数日後には、どこそこの人は朝鮮人に酷い仕打ちをされた などのうわさが流れ始めた。みんな怖がって余り外には出ず、出かけるときは数人で出かけるようにしていた。
一部の朝鮮人は日本人と見ると嫌味《いやみ》を言ったり、石を投げたり蹴《け》飛ばすふりをしたりした。
昨日まで僕を「お坊ちゃま お坊ちゃま」と持ち上げていた朝鮮人は、道で合ってもそ知らぬふり、こちらから挨拶《あいさつ》しても完全に無視した。そんな環境の中、支那《しな》人(中国人のことだが、当時は支那人と言った)は何時もと変わらなく、近所で出会うと「奥さん、なんで私のところに野菜を買いに来ないか?」などと言って母を喜ばせた。
11月頃になって日本へ引き揚げることができたが、日本での生活は生まれて始めての飢えを体験することになった。